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第42話:レウシア、もじゃげを花畑へ放す

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 岩のアーチをくぐり抜け、でこぼこ道をゆっくり歩く。

 丘から海のほうへ視線を落とすと、海岸沿いから伸びる簡素な波止場に【ムエット・ノアール】号が停泊しているのが見える。
 元海賊の船員たちは、忙しそうに貨物の積み降ろしをしているようだ。

「おうおう、やってんな」

 暢気な調子でヴァルロが言う。

「あとで荷を確認して、帳簿をつけなきゃなんねぇからな。まあ頑張れよ、エレーヌ」
「……本当なら、私もあの場にいなければならないのでしょうけど……」

 船の会計士であるエルが言い淀むと、ジヌイがひらひらと手を振った。

「ニックのおっさんが見張ってっから平気だよ。いまはウチの船員だが、昔は他の海賊船の船長だったんだぜ、あのおっさん。もしかすっと、こっちの元船長よりしっかりしてんじゃねぇか?」
「うるせぇよ、犬っころ」
「え? そうなのですか? ならいっそ私などではなく、あの方に帳簿をお願いしたほうが――」
「あー、ダメだな。歳で近くの字を見ると目が霞むらしいし、それに――」

「――あいつはやりたがらねぇよ」

 ジヌイの言葉を、苦笑混じりにヴァルロが引き継ぐ。

「前に船をのは、あいつの連れてた会計士だったからな」
「そう、ですか……」

 エルが俯いて黙り込む。ヴァルロはぼりぼりと頭を掻いて、ぱんと一度手を打った。レウシアのほうをちらりと見やり、軽い調子で言葉を続ける。

「ま、とりあえずさっさとできることを済ませようや。ドゥブルのジジイが目を覚ましたら、本気で出ていけって言いださねぇとも限らねぇ」

 レウシアの手には、未だ老ドワーフの毛がぎゅっと握りしめられたままであった。
 彼女はそれを陽の光に透かして、ときおりしぱしぱと興味深そうに目を瞬かせている。

 レウシアに髭を毟られたドゥブル老は、ショックのあまり気絶してしまっていた。――彼が起きたときにどれほど怒り狂うだろうかを想像して、人族のエルは物憂げに尋ねる。

「いちおう《回復魔法》はかけておきましたけど、また生えますよね? あれ……」
「あん? 平気だろ。髭から産まれたような奴らだぞ。ああ、そういや――」

 ヴァルロはどさくさに紛れて回収した自らの剣の柄を撫でながら、丘の上へと目を向けた。にやりと愉快そうに頬を歪める。

「ちょっと違ぇ奴もいるな。まあどんな連中にも、変わり者の一人や二人、別に珍しかねぇさ」

   *   *   *

 丘を上り、先ほどのものより小さな岩のアーチを抜けると、エルたちの目の前に一面紫色の光景が広がった。
 辺り一帯に咲く小さな花弁の花々を見やり、エルの口から感嘆の声が漏れる。

「わぁ、綺麗なところですね! それになんだか良い匂いがします!」
「……へちゅんっ」
「あら?」

 嬉しそうなエルの後ろで、レウシアが大きなくしゃみをした。
 顔をしかめて鼻を擦ろうとする竜人ドラゴニュートの少女の姿に、エルは慌てて制止の声をかける。

「あ、ダメですよレウシアさん! そんなので拭いたら汚いですっ! というかもう、ぽいしてください。ぽいっ!!」
「……でも、もったいない、よ?」
「もったいなくないですよ!?」

 レウシアは手の中に視線を向けて一度小さく首を傾げると、しぶしぶといった様子でそれを離した。
 さわやかな風が花々を揺らし、ドワーフのもじゃげを連れていく。

「……へちゅんっ!」
「おおおい!? 我で鼻を拭おうとするなよ!? いいか、絶対だぞ? 絶対にやめろよ!?」
「あー……その、預かっておきますね……?」
「……ん」

 焦る魔導書をレウシアから受け取り、エルが戸惑った表情で辺りを見回す。竜の少女は自らの腕でくしくしと顔を擦りながら、嫌そうな顔で呟いた。

「へんなにおい」
「そっすねぇ……俺もちょっと苦手なんすよね、ここ」
「えええ……」

 がっくりと肩を落とすエル。
 やがて花畑の先から誰かが走り寄ってくるのが見えると、ヴァルロがひょいと片手を上げた。
 その人物はぴょんと一度大きく飛び上がってから、息を切らして彼に駆け寄り、親しげな様子で話しかける。

「――はぁ、はぁ、よ、よく来たねヴァルロ! 渡した〝銃〟の調子はどうだい!?」
「落ち着けよローニ。ご自慢の髭が乱れてんぞ?」
「ええ!? た、大変だ!」

 ローニと呼ばれたその背の低い男は、指摘を受けると慌てて自らの髭を両手で引っ張り、ささっと形を整えた。
 まるで英国紳士のように整えられた長い口ひげが、みょいんとローニの顔で弾む。

「え、あの――彼もドワーフなのですか?」
「いかにもっ! 素敵なつるつるのお嬢さん!!」

 ローニはえへんと胸を反らしてエルのほうへと向きなおると、空気でできた仮想の帽子を脱ぎながら、気取った仕草で会釈をした。

「この里イチの紳士、口髭のローニとは僕のことで――へぶっ!?」
「あ、ごめんなさいっ!? つい……」
「な、なじぇですか……?」

 途端に思いっきり頭を叩かれ、涙目でじりっと後退るローニ。
 叩いたエルは自らの手のひらをじっと見つめて、やがて暗い瞳を自称里イチの紳士に向ける。

「本当にごめんなさい。……でも紳士なのでしたら、言葉には気をつけてくださいね?」
「え、は、はい……」

 エルがにこりと微笑むと、ローニは怯えた表情で頷いた。――どうにもドワーフらしくない男であった。髭は綺麗にカットされ整えられており、その服装も、白い麻のシャツに黒のベストまで羽織り、他のドワーフよりも小綺麗である。

「んでなローニ。今日はてめぇに見てもらいてぇもんがあって来たんだよ。ドゥブルの奴にも見せたんだが、あの野郎はなぜか急にキレだしちまいやがった」
「そうなのかい? まあ彼は少し怒りっぽいからね。この島のみんなに言えることだけど……。それで、見せたいものって?」
「……その、これなのですが」
「へ? あ、はい」

 エルが指輪を差し出すと、ローニはちらちらと銀髪の少女の顔を窺いながら、恐る恐るそれに手を伸ばした。――どうやら先ほどのやり取りで、苦手意識が芽生えたらしい。

「ぬぅん……?」

 唸る姿はドワーフ然とした様子で、カザドの紳士が指輪を観察する。
 矯めつ眇めつ眺めたのちに、ローニはほぅと関心したように息を吐き出した。

「ああ、ドゥブルが怒るのも無理ないね」

 興味深そうに指輪を見つめて、ローニがくすりと笑みをこぼす。

「――こりゃ、カザドとエルフの合作だ」
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