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第10話:豚さん、逆鱗に触れる

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 草藪を掻き分け森を進むと、レウシアの住処おうちが見えてくる。

 ひんやりとした岩に囲まれ、近所には日向ぼっこに最適な原っぱがあり、最近は美味しい木苺が採れる場所も見つけた。それはレウシア自慢の我が家であった。

「…………っ」

 飛び散った泥跡がいくつも洞窟内へ続いている光景を目にし、竜の少女は言葉を失ったように黙り込む。

 川からここに辿り着くまでに、オークの群れはどこかで泥浴びをしたのだろう。
 まるでマーキングするかのように入り口の岩に擦りつけられた泥を見据えて、レウシアはびたん! と地面に尻尾を打ちつけた。

「はっ……はぁッ……レウ、シアさんッ、急ぎ過ぎですよっ! いったい、どうしたのです――ッ!?」
「――ふぅッ、追いつき、っ! ああ、あちゃー、こりゃ完全にオークっすねぇ……」

 やがて後方から追いついてきたエルとサーシャが、肩で息をしながら周囲を見回す。

 口元を押さえて絶句したエルの後ろでサーシャが面倒くさそうに頭を掻くと、レウシアは彼女らへと振り返り、いまにも泣きそうな顔で口を開いた。

「……ごめん、ね」
「え? どうしてレウシアさんが謝るのです?」
「……豚さん、いるから」

 レウシアは洞窟へと向きなおり、その入り口に塗りつけられた泥を眺めて、ついに我慢しきれずにこぼれた涙をごしごしと腕で拭った。

「……えるたち、きてくれ、たのに」

 昨日受けた村での歓待で、人間を住処に招待するとはああいうものなのだろうと学んでいたレウシアである。
 同じようにはできなくとも、どうにか頑張ってエルたちをもてなそうと、道中ずっと考えていたのかもしれない。

「にしてもこの辺りにオークが出るなんて、あたしゃ聞いたことがありやせんでしたけど……うわ、十匹近くいるみてぇっすね」
「ふむ、オーク種か。奴らは鼻が良いからな……。もともとこの山には近寄らなかったのが、邪竜が不在となったことで近くに移動してきたのかもしれん」
「あー、なんか昔お師匠が言ってたっすね。生態系? がどうのって」

 魔導書の推測に、サーシャの視線が思い出すように宙を眺める。

「――むやみに魔物を狩り尽くしちゃいけねー、でしたっけ。そんときゃ何言ってんだこいつ? そもそも狩り尽くすなんてできるわきゃねーだろって思ってたっすけど……〝邪竜〟はここらに一匹だけっすからねぇ」
「でも困りましたね……。あの、サーシャ、追い払ったりはできないのですか?」
「追い払うって……いや、無理っすよ。皆殺しにするにしても、剣が保たねぇっす」

 危険な魔物を相手に「追い払う」などと、平和的な発想のエルへ渋い顔を向けながら、サーシャは腰に帯びた剣の柄をそっと撫でた。
 それなりの質の剣ではあるが、さすがにこれ一本でオーク十体の解体は難しいだろう。

 そして生まれ持った体格、筋力からしてオークと人族では素地が違う。
 剣が切れなくなってしまえば、たとえ一対一だとて、サーシャに勝ち目は薄かった。

「皆殺し――ですか。探し物が見つかれば、私も戦えると思うのですけど……」
「は? いやいや、なに言ってんすか危ねぇっすよ! 聖女様はここで隠れて……というかいまのうちに帰りやしょう? 今回は仕方ねぇっすよ――他の人手はアレですし」

 サーシャがエルの背後を顎で指し示す。

 そちらからはマーティスとニミル、ちょうど二人の神官たちが、ぜぇぜぇと荒い息を吐きつつ近付いてくるところであった。

 ふらつきながら合流すると、体の大きいほうの神官――マーティスが咽ながらギロリとサーシャを睨みつける。

「――げふ、ごふ、はぁ、おいキサマッ! なにをぼんやりと突っ立っているのだ! 豚どもが財宝を荒らしているなら、さっさと行って駆除してこんかッ!!」

 マーティスは怒鳴るように命令した。
 彼の後ろでは顔を青くしたニミルが、お腹を押さえて呻いている。

「はぁ……」

 二人とも、魔法使いのような杖を持ってはいるが戦いの心得はないのだろうかと、サーシャは半眼で男たちを見据え嘆息した。

 手伝う気がないのは仕方がないが、少しでも戦闘の心得があれば、自分がどんな無茶を言っているのか分かりそうなものではあるが――

「いやー、あたしにゃ無理っつーか、正直死にたくねぇんすけど……それにあたしが戦いに行ったら護衛がいなくなるっすけど、それは大丈夫なんすか?」
「なにをごちゃごちゃと言い訳をしているかッ! さっさと財宝を取り返してこいッ!!」
「ッ! あちゃっ――下がって!」

 マーティスが再び怒鳴り散らした途端、洞窟の中から一匹のオークが顔を出す。
 サーシャは慌てた様子で神官たちを木の裏へ押し返した。

 彼らは一瞬とても嫌そうに顔をしかめてから、オークに気づいて口を噤む。

「聖女様たちも、早くこっちに」

 豚のような頭部に大きな二足歩行の体を繋ぎ合わせ、猪のような毛が全身を覆ったその生き物――オークは黄色い眼球をぎょろりと動かし、周囲の匂いをふごふごと嗅いでいる。

 マズいな。ここは風下だけど、それでもすぐに見つかりそうだ――と、額に冷や汗を浮かべたサーシャが聖女二人を手招きする。

 小柄な彼女らの姿は藪に隠れて向こうからは見えないようではあるが、このまま無防備に身を晒し続けるのは危険過ぎる。

 まだぐしぐしと目元を擦っているレウシアの手を引こうとしてから、エルはかぶりを振ってそれを諦め、すっと木の裏へと体を隠した。

「仕方ありません、討伐隊の派遣を――」
「なにを仰いますかッ、こいつに駆除させればよいのです。金を払ってわざわざ雇ってやったのですから!」

 そのままエルが一時撤退を皆に告げようとしたところで、若い神官――ニミルがにやりと笑って意見を述べる。

「だいたいこいつ、馬車は逃がすわ生意気だわで、まったく役に立っていないじゃないですか? 討伐隊を呼びに戻るにしても、いまはここでとして置いていくべきです。――ほら、見てくださいよ」

 ニミルが洞窟を指し示すと、その中からまた数匹のオークがふごふごと鼻をひくつかせながら現れるところであった。
 エルはわずかに眉根を寄せ、声を潜めて神官たちへと返答する。

「いいえ、それはできません。サーシャは護衛として雇ったのですよ? それについては、立派に役目を務めてくださっています」
「……ふぅむ、しかし〝聖剣〟の回収は、大司教様のご意思です。ここでむざむざ引き返すならば――」
「っ――!?」

 マーティスが重苦しい口調で語り始めると、〝大司教〟という言葉に反応してエルの体がびくりと強張る。

「――こやつに豚どもの駆除を、命じるだけ命じてもよいのでは? なに、無理だったならばそのときは、また出直せばいいのです」
「…………」

 あまりにも身勝手なその意見にサーシャが鋭く目を細め、エルは黙り込んで俯いた。

 ――オークには、捕まえた獲物で遊ぶ習性があるという。
 それを知っているのだろう。ニミルの口元がにやりと歪み、マーティスも嘲るような表情を浮かべた。

「っ、大司教、様の……」

 目を伏せたまま、両手を固く握り込んだエルが苦しそうに呟き、サーシャが聖女をちらりと見やる。
 白の聖女は下唇を血が滲むほどに噛み締めて顔を上げると、焦点の定まらない瞳をサーシャへ向けた。

「……ごめんなさい、サーシャさん。私、大司教様には――」

 びたん!

「ッ――!?」

 突然鳴った大きな音に一同が揃って視線を向ける。
 そこには小さな黒髪の少女が、まだ洞窟を見据えて佇んでいた。

「なん――ひぃぃっ!?」

 エルたちの話が終わるのを待っていたのか、それとも動けなかったのか。

 いままで気にしていなかったもう一人の聖女に意識を向けたことで、そのローブの裾から鱗の生えた尻尾が伸びている事実に気付いたニミルが、驚いて情けない悲鳴を漏らす。

 びたん! びたん!

 さらに尻尾でのストンピングが二度続き、オークの群れがレウシアに気づいて涎を垂らした。

「ちょっ!? お、おいレウシア――ッ」

 その左手に持っていた魔導書をぽとりと落とし、さらにびたん! と竜の少女は尻尾を地面に打ち鳴らす。
 彼女の視線はオークの群れの中心部、ある個体へと向けられている。

 群れのボスなのであろうひときわ体格の大きいそのオークは、泥で汚れた手にきらきらと光る立派な剣(勇者が持っていた)と、ぴかぴか光る立派な盾(これも勇者が持っていた)を持ち、とどめに金貨の入っていた麻袋を洞窟の外へ蹴飛ばすと、口から金貨をぺっと吐き出した。きっと食べ物だと思ったのだろう。

「……える」

 レウシアは肩越しにひょいと振り返り、泣きそうな顔でサーシャに命令を下そうとしていたエルを見る。
 白の聖女は言わされかけた言葉を飲み込み、縋るようにレウシアを見つめ返した。

「……ちょっ、と、おそうじ、してくる」
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