上 下
6 / 82

第6話:レウシア、馬車を動かす

しおりを挟む
「っ、その本は――」

 聖女エルの視線がそちらに移り、表情に疑問の色が浮かぶ。
 銀色の髪が馬車に差し込む光を反射し、レウシアはぱちくりと目を瞬いた。

「――いえ、すみません。あの、王都ではお見掛けしたことがないと思うのですが、レウシアさんはどちらの教会の方なのでしょうか?」

 気を取り直したように、エルがレウシアへと問いかける。

 王都の教会の定めでは、白い神官服を着ることを許されているのは貴族出身の男性神官と、あとは〝聖女〟のみであった。
 たとえ地方の教会支部とて、シスターは黒い修道服を着ているはずである。

 訝しむようなエルの視線を見つめ返し、レウシアはぼんやりとした口調で、

「……きらきら?」
「えっ?」
「……ぅ?」

 エルの蒼い瞳にレウシアの赤い瞳が映り込み、少女二人はまたも同じように首を傾げた。

 見た目には同じ歳の頃、体格も似通っている二人である。
 揃って人形のごとく整った容姿の彼女らが、同じ神官服を着てそうしていると、まるで色違いの一対であるかのようだった。

「あ、あの! エル様、この方は……?」
「――え? あ、ごめんなさい」

 神官の一人が戸惑った様子で話しかけ、エルはハッとした表情でそちらを見やった。
 
「えっと、大丈夫です。私の〈心眼〉で見たところ、この方は害をなす存在ではありません。――お二人とも、杖を下ろしてください」
「ということは、この方も〝聖女〟様で間違いないのですね?」
「…………」

 エルは無言で笑みを浮かべた。
 それを肯定と受け取ったのか、問いかけた神官はほっと息を吐く。
 
「失礼致しました。私はマーティス、王都の神官です」
「私はニミル、同じく王都の神官です」

 手にした杖をさっと引っ込め、神官二人は恭しく頭を下げる。

「……? あ、そうだっ、た」

 所作の意味を知らないのだろう。レウシアは首を傾げたまま神官たちをしばし眺め、それからふと思い出したように、エルへと手を差し出した。

「……ばしゃ、降り、て? 動かない、から」
「え? あ、はい。わかりました……?」
「――ぴッ!?」
「わっ!?」

 きょとんとした顔でエルがその手を握った瞬間、レウシアの体が小さく跳ねた。
 元邪竜の少女は慌てたように聖女の手を振りほどき、

「……ぅ」

 赤い瞳の端に、じわりと涙を浮かび上がらせる。

「あ、あら?」
「え、エル様? いまのは……?」
「いえ、私にも……」

 レウシアの不自然な行動に、疑問の表情を浮かべる神官二人。
 エルは振りほどかれた自分の手とレウシアを見比べ、やがて小声で「……なるほど」と独り言ちた。

「少し強く握りすぎたようです。ごめんなさい、レウシアさん。……えっと、馬車を降りればいいのですか?」
「…………動かない、から」
「っ、そうでしたか」

 こしこしと目尻に浮かんだ涙を拭いながら、レウシアがエルの問いに答える。
 エルは一つ頷いてから、神官たちへ視線を向けた。

「降りましょうか、お二人とも。どうやら私たちが乗っているせいで、馬車を動かせなかったようです」
「む? し、しかしですな、我々は王都の神官ですぞ? それをこのような道端にですな……。聖女様も、お召し物が汚れて――」

 馬車を降りたくないのだろう。体格の大きい神官の男――マーティスが、しかめっ面でぶつぶつと文句を言い始める。

「……これは私の不徳の致すところですね。このような当たり前のことにも気づけなかったとは、聖女失格です」
「――ッ!? い、いえ決してそのような!?」

 エルが憂いのこもった声音で述べると、途端にマーティスは背筋を伸ばし、まるで騎士団長に叱られた新兵のように顔を青ざめさせた。
 もう一人の若い神官――ニミルが、その様をにやにやと口元を緩ませ眺める。エルはそちらにも目を向けて、

「では、早く降りて差し上げましょう? いつまでも乗っていては、それこそ恥ずかしくて皆様に顔向けできません」
「――ッ!? はっ! 御心のままに!!」

 神官二人はレウシアが扉の前を退いた瞬間に、その横をすり抜けて慌ただしく外へ飛び出していった。

 続いてゆっくりと馬車から降りた聖女エルは、レウシアの左手に持たれた魔導書へと視線を向ける。

「さっき喋りましたよね? 魔導書さん」
「…………」
「あら、だんまりですか? お互いのためにならないと思いますけど。……レウシアさん、その本は教会の〈禁書庫〉から持ち出されたものです。場合によっては――」
「……ぅ?」
「――返してもらって、焼却処分です。教会の蔵書が、あろうことか〈聖女〉の問いを無視したのですから」
「なッ!?」

 あまりにも無慈悲な聖女の言葉に、魔導書が焦った声で反応した。

「ま、待て待て待てッ!? 燃やす必要まではないだろうッ!? それが聖女のすることかッ!?」
「あ、ほんとに喋れたんですね。空耳かと思っていました」
「ぐぬっ!? 不覚だ……!」
「冗談ですよ」

 いたずらっぽい口調で告げてから、エルは彼女の髪をじっと見ているレウシアへと向きなおる。

 立って並ぶと、二人の背丈は同じくらい。
 銀と黒、相対するような色の髪もまた同じように、腰に届くか届かないか程度の長さである。
 やはり色違いの対人形か、もしくはいまは先ほどとは違い、表情がころころと変わるので姉妹のようにも見えた。――人種的には有り得ぬ話のはずなのだが、なぜだかそんな雰囲気を二人は纏っていた。

「……きらきらの、髪、いい、な」

 ふいにレウシアがそう呟き、エルは聖女らしい微笑みを浮かべた。

「あら、ありがとうございます。あなたの黒い髪も素敵ですよ? まるで、夜を紡いだ絹糸のようです」
「……きぬ?」
「はい。とても綺麗です」

 すっと、エルの手がレウシアの頭へと伸び、フードの隙間からその髪を撫でる。

「っ――!?」

 途端にレウシアはびくりと体を震わせて、エルの手から逃げるように後ずさった。

「あらら? ……ふふっ」
「――ッ!? ――ッ!?」
「なんだか、嗜虐心? とでもいうのでしょうか? こんな感情もあるのですね。不思議です」

 頭を押さえてなにやら取り乱した様子のレウシアを見やり、エルの口から不穏な言葉がぽそりと漏れる。
 魔導書は、慄いた様子で彼女に問いかけた。

「……お前、本当に〝聖女〟なんだよな?」
「そうですが、なにか? というか偽物はそっちでしょうに。誤魔化してあげたんですから、ちゃんと事情を――」
「あのぉ……」

 傍から見れば二人だけで話している様子の少女たちに、先ほどレウシアに伝言役を頼んだ傭兵が声をかける。
 レウシアは赤毛をポニーテールに結ったその女性が近づいてくるのを見ると、彼女の後ろにとててっと隠れるように回り込んだ。

「えっ!? いや、なんすか?」
「……ぅぅぅ」
「あら? 嫌われちゃいましたかね」

 しれっとのたまう聖女エル。

 赤毛の女性は困ったように頬を掻きながら、エルに向かっておずおずと口を開いた。

「あー、その、馬車を道に押し戻そうと思うんで、もうちっとだけ離れてくださいやせんかね? 危ねぇんで」
「あ、ごめんなさいサーシャ。あなたの手を煩わせてしまって……」
「いや、とんでもねぇっす」

 赤毛の女性――サーシャが馬車の後方へ向かうと、その背中にくっつくようにして、レウシアも一緒に移動する。
 警戒しているのか、視線はエルの手に固定されたまま、くるる――と、レウシアの喉から小さく唸るような声が漏れた。

「え? あの、聖女サマ? 離れてくんねぇと危ねぇんすけど?」
「……わたしも、手伝う、よ?」
「いや、そりゃありがてぇ話ですが……どうか、お気持ちだけで結構でございますんで」
「……だいじょう、ぶ」
「いや、その、えええ……」

 困惑した様子のサーシャをよそに、レウシアはふんすと息を吐き、馬車の後ろに手を添えた。――左手は魔導書で塞がっているので、右手だけ。

 サーシャは小さく溜息を吐き、自分も馬車の後部に手を伸ばした。

「じゃ、押しますんで。――せいっ!」

 次の瞬間、馬車は意外なほどに軽く動き出し、そして――

「えっ!? おわっと――ッ!?」
「ぴぎゅっ!?」
「ぐあッ!?」

 二頭の馬が、ヒヒンッと大きくいなないた。
 馬たちは先ほどまでのやる気のなさはどこへやら、馬車を引っ張り全速力で駆け出していく。

 サーシャが大きくつんのめり、レウシアのほうは派手に転倒。
 その手からすっぽ抜けた魔導書が、ごつんと音を立てて踏み固められた地面に落ちる。

「お、おい! なにをして――ッ!?」
「マーティスさん! 馬車がッ!?」
「ま、マズいぞッ!?」

 少し離れた場所にいた神官二人は顔を見合わせ、慌てて逃げる馬車を追いかけていった。

「あらら、困りましたね。……まあ、ちょうどいいです」

 田舎道の先、どんどん小さく霞んでいく馬車と神官たちを眺めながら、聖女エルは落ちた魔導書を拾い上げる。

「では、事情を聞かせてくださいね? 焼却処分がお好きでなければ、ですけれど」
「……もう一度訊くが、お前は本当に〈聖女〉なんだよな?」
「そう呼ばれておりますね。それがなにか?」
「いや……別に」

 白の聖女に見据えられ、魔導書は抗議の言葉を呑み込んだ。
しおりを挟む

処理中です...