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第二章

第八話

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 俺はサザール帝国の皇子として生を受けた。

 王族に生まれ、何不自由ない生活を送り、さぞかし幸せな人生なんじゃないかと思うかもしれないが、それは違う。

 クズな父親とクズな母親から生まれ、腐りきった貴族たちに囲まれて育った俺は、心底彼らを憎んでいた、いや、今も憎んでいる。


 民から高額な税を巻き上げ、毎日のようにパーティーを開く貴族ども。

 若い女を幾人も召し上げて色欲に溺れる父親。

 年を取り、父からの寵愛がなくなると男をとっかえひっかえし、高価な装飾品を買い漁る母親。

 互いに互いをけん制し合い、殺害すら辞さない側妃たち。


 物心つく前から、俺は父親からも母親からも愛情を与えられたことはない。



 そんな俺が周囲に染まらずにいられたのは、ごく少数のまともな大人と、両親の代わりに愛情を注いでくれた兄がいたからだった。



 俺が家族と呼べるのは、後にも先にも兄だけだった。



 毎日のように女を抱く父だが、子供は俺と五歳年上の兄だけだった。

 二人だけの兄弟。

 腹違いの兄弟で、しかも王族という関係にもかかわらず、俺たちの中は良好だった。

 惜しみない愛情を注いでくれる兄と、そんな兄を慕う弟。

 当時の俺の世界は兄が全てで、兄さえいればいいと本気で思っていた。





 だが。

 あれは、兄が十九歳の時だった。


 その前から何かを憂いるような、深刻そうな顔をすることが増えた兄だったが、その日の兄は決意を瞳に宿した凛々しい顔をしていた。


 しかし、いつものように抱きしめてもらった時、俺はそれだけではないことに気づいた。

 震えていた。

 抱きしめてくれる腕がわずかに震え、押し当てた胸から聞こえる鼓動がいつもよりも早かった。


「ごめんな。俺、少し陛下と話さなければならないことがあるんだ。悪いが、昼食は一人で食べてくれるか?」

 そう言って頭を撫でてくれた兄の大きく手温かい手の温もりを、俺はもう思い出せない。


 それが兄との最後の会話になるなんて思わなかった俺は、素直に兄の体を離してしまった。

 素直に父のもとへと見送ってしまった。


 あの時俺が止めていたらと今でも後悔する――何度も、何度も。




 あの日兄は、困窮する民の悲痛な声にとうとう耐えられなくなって父親に直訴しに行ったのだ。

 それまでにも何度か訴えていたが、そのたびに跳ね除けられてきた。


 だから兄は強硬策に出た。
 謀反という名の直訴を。
 誰も巻き込まず、たった一人で。



 もちろんそんなもの、成功するはずがない。

 兄だってそれは分かっていたはずだ。

 でも、行動せずにはいられなかった――誰もよりも優しく、誰よりも国王にふさわしかった兄。

 そんな兄の生涯は、わずか十九年という短さで、実の父親によって幕を閉じられた。





 俺が兄の死を知ったのは翌日だった。

 毎朝会いに来てくれる兄が来なくて、前日の兄の様子を思い出して少し心配になった俺は、兄の部屋まで様子を見に行った。

 もぬけの殻で、もしかしてすれ違ったのかと思いもう一度自分の部屋に戻った。

 でもやっぱり兄はおらず、一気に不安になった。


 父に会いに行くと言っていた兄の言葉を思い出した俺は、普段は近づかないようにしていた大広間に向かった。

 国王も、その取り巻きも、たいていそこで醜悪なパーティーを開いているからだ。



 近づくにつれて聞こえてくる馬鹿笑いと耳障りな音楽。

 そして漂ってくる異臭。

 甘ったるいような、酸っぱいような、錆びたような、腐ったような、そんな臭い。


 兄の手の感触は忘れても、その臭いは今でも鮮明に思い出せてしまう。



 扉はわずかに開いていて、そこから大声で自慢するダミ声が聞こえてきた。

「わしの剣で一振りだったぞ! スパッと面白いように切れたわ。わしの息子だからと生意気にも意見してきおったからに。この首は城の門にでもさらしておけ」


 耳を疑った。
目を疑った。


 兄の首が床に転がっている。


 生気のない、青白い顔。

 濁った眼。

 切断面にこびりついた血。



 にっこり笑い、抱きしめてくれた兄は……死体となって父の、貴族の、酒の肴と化していた。



 あの日の事は今でも夢に見る。

 あの日の悲しみ、喪失感、怒り、そして憎悪。

 一日たりとも忘れたことはない。



 すぐさま父を殺したかった。
 バカ騒ぎをするしか能がない貴族どもを殺したかった。

 何より、兄の居ない世界から逃げ出したかった。



 だが。

 兄の残した意志を、俺は継ぐことにした。

 兄が望んだ未来を実現しようと決めた。

 それが、俺が兄に出来る弔いになると信じている。

 それが、十四年間愛情を注ぎ続け、俺をまっとうな人間に育て上げてくれた兄への感謝になると思っている。





 だから、俺は父親も母親も嫌いだし、あいつらを家族だと思ったことなんてない。

 俺の家族は兄だけだ。








*~*~*~*~*~*~*~*~*






 ザギトスが語り終わった頃にはもうすっかり日が暮れ、窓の外には群青色の空が広がっていた。


「ありがとな、聞いてくれて」

 そう言ってかすかに微笑んだ彼を、絵里は思わず抱きしめた。


「私には、大切な誰かを失う辛さは分からない。でも、家族に愛されなかった私だから、あなたの辛さを分かれる部分もある。……よく頑張ったね。一人で、よく頑張った」

 頬を流れる涙をそのままに、絵里はザギトスの頭をゆっくり撫でた――ロベルトにしてもらったように、ゆっくりと。


――兄の手とは違う、小さくてすべすべした手。全然違うのに、同じだけ暖かい……。


 じんわりと心がほどけていく感覚がする。


「絵里、本当にありがとう。少しだけ、心が軽くなった」

「よかった。一人でため込んじゃダメだよ。何かあったら相談してね」

「ああ。遅くまで悪かったな」

 ザギトスの声は少しかすれている。

――きっと、いろんな思いが蘇ってきたのだろう。


「またな」

「うん」







*~*~*~*~*~*~*~*~*






 外に出てびっくりした。

 ロベルトが待っていたからだ。


「あれ、ロベルトさん、どうしたの?」

「いや、その……。遅いから、心配になって」

 答えるロベルトはどうやら少し気まずいようだ。

 うろうろと視線をさまよわせている。


「ふふふ。過保護ですね。でも嬉しいです。心配してくれてありがとうございます!」

 誰かが自分を心配してくれる――なんて幸せなんだろう。



「その、何を話していたんだ? ずいぶん長い間一緒にいたが……」

 二人で廊下を歩きながらロベルトが問う。

「それは内緒です。でも彼、ぜんぜん悪い人じゃないですよ。心配しないで大丈夫です」

 答える絵里の声は、心なしかザギトスへの信頼感が増している。


――余計心配になる……。いったい二人で何を話してたんだ!


 ロベルトの心配を解消しようとした絵里の言動は、余計にロベルトを悶々とさせる結果となった。




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