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第1章 婚約破棄に至るまで
7.その出会いは偶然か
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大衆に囲まれた円の中では、全身に殺気を纏わせた大柄の男三人と、一人の黒髪の男が睨み合っていた。
睨み合うというよりも、三人が一方的に相手に向かって唾を飛ばし、大声で喚き散らしているだけだ。どの男も、顔や身体の至る所に傷跡があり、凶悪な面構えをしているので一目で只者ではないことがわかる。その手には、三人とも大振りの剣を持っている。
そんな状況にも関わらず、黒髪の男は全く気にするそぶりがない。それどころか、片方の口端を吊り上げ、あえてそれらを愉しんでいるように笑っている。
男は丸腰だ。斬りつけられたのか、服の左袖部分は真っ赤に染まり、手の甲を伝った血が、土の地面へとポツポツと零れ落ちて血だまりを作っている。
!!
「あの人、血が出てるっ」
「ああ、さすがにあれはまずいな。街の警備隊もまだ来る気配はないし。⋯仕方ない。リシュベル、ここで待っていろ」
「べ、ベルン! 危ないわっ」
止めようとするリシュベルの声を背中で聞きながら、ベルンハルトは振り返ることなく、その男達に向かって歩いて行った。
***
「この野郎っ、何笑ってやがるっ!! 状況わかってんのか!? 舐めやがって!!」
「はっ、弱い犬ほどよく吠える。状況を理解していないのは貴様らのほうだろ? この俺に手を出してただで済むとでも思っているのか? 逆恨みもいいとこだ。こっちは善意で貸してやったと言うのに。借りるときは床に頭擦り付けて頼んできたくせに。それを返せないのはそいつが無能なクズだからだろう? まったく、親玉がクズだと子までクズとはな。貴様らの飼い主に言っておけ。俺を殺すつもりならもっとマシなのを用意しとけとな。⋯聞こえたか? 死にたくなければ今すぐ消えろ、このクズ共め」
「っ! この、野郎⋯ぶっ殺してやるっ!!!」
黒髪の男がせせら笑った瞬間、三人が一斉に斬りかかった。
「言葉も理解出来ないのか」
そう独り言ちると、ふっと息を吐き、ニヤリと笑った。その顔はとてもきれいな造りをしているというのに、目の前の三人よりも遥かに凶悪に見える。
『死ね』と音にせず、唇の動きだけで呟くと、すっと右手を前に出して広げた。
「やめろっ!!」
その時、横から静止の声がかかった。よく通る低音のその声は、街の喧騒に飲まれることもなく、辺りに響き渡った。
斬りかかった男達もぐっと動きを止め、声のした方へと顔を向けた。
黒髪の男は、さも不愉快そうに鼻を鳴らすと、目線だけをそちらに向けて、その手を下ろした。
「なんだお前っ!! 邪魔するつもりか!?」
「お前もぶっ殺されてぇのかっ!?」
「喚くなっ、喧しい! 騎士団の者だ。こんな街中で物騒な真似はよせっ。もうすぐ警備隊もやって来る。これ以上騒ぎを大きくするのなら面倒なことになるぞ」
「騎士!?」
「警備隊だと?」
気色ばんだ男達は、突如として割って入ってきたベルンハルトへとその怒りの矛先を向けようとしたが、彼が騎士だと名乗ったこと、警備隊の名が出たことに一瞬怯んだ。
「⋯⋯⋯この、クソがっ!!」
「おい、やめろっ! 厄介事はごめんだ。行くぞっ」
「⋯チッ!」
一人がベルンハルトに食ってかかろうとしたが、もう一人がそれを止めると、三人は慌てて剣を収めて駆け出した。
「あっ、おい!!」
「いい。あんなクズ共、放っておけ」
逃げる三人を追いかけようとしたベルンハルトに、黒髪の男が声をかけた。
その声で振り返ると、黒髪の男は気怠げな表情で髪をかき上げ、何事もなかったかのように平然とその場から去ろうとした。
「ちょっ、待てっ! 今、警備隊が来るからちゃんと話を——」
「何も問題はない。届など出すつもりもないしな。鬱陶しいっ」
ベルンハルトに見向きもせず、男はそう吐き捨てるとどんどん遠ざかって行った。
「⋯⋯」
どちらに責があるかは定かではないが、明らかに黒髪の男は怪我をしていた。それだけで十分傷害事件として成り立ちはするのだが、被害者である当の本人が届を出すつもりがないとなると、ベルンハルトとしてもどうしようもない。
納得はいかないが、ベルンハルトはその男が去って行くのを黙って見ているしかなかった。
そうしていると、騒ぎをききつけた警備隊がやって来た。黒髪の男は、去り際、警備隊の男達とすれ違ったが、興味がないと言うように、警備隊を一瞥もせず、前だけを見て歩いていった。
とその時、ベルンハルトのよく知る声が辺りに響いた。
「待って!! 」
見ると、リシュベルがその男の腕を両手で掴んで引き止めていた。
「貴方、怪我してるわっ。こんなに血が出てる」
「要らん、余計な真似をするなっ」
リシュベルは、持っていたハンカチで男の傷を押さえようと手を伸ばしたが、それが届く前に男によって手首を掴まれた。
「で、でも⋯⋯」
「こんな傷すぐに治せる」
「⋯え?」
どういう意味か計り兼ね困惑していると、その男は、リシュベルの問いに答えるつもりはないらしく、また歩き始めた。
一瞬戸惑ったリシュベルだったが、ハッと我に返るとすぐにその後を追いかけた。
「ま、待ってっ。お願いだから、ちょっと待って!」
「しつこい女だなっ。なんだ? そんなに俺に恩を売りたいのか? 目的は何だ、金か?」
!!
男のその蔑むような目を見て、リシュベルの喉がひゅっと鳴った。同時にリシュベルの中がグラグラと揺れ始めた。
「あ⋯⋯っ」
目眩かと思ったが、違う。頭の中が揺れているのか、それとも身体が揺れているのか。
目を開けているはずなのに、視界は真っ暗な闇に閉ざされた。先程まで、うるさいくらい聞こえていた街の喧騒も聞こえない。
ーー怖い⋯⋯
リシュベルの脳裏に継母とマリエルの姿が浮かんだ。侮蔑と嘲弄の含んだ目で、いつも二人はリシュベルを見ていた。
ーー誰か、助けて⋯⋯誰か、誰か、誰かっ!!
リシュベルの深層心理にまで染み込んだ恐怖が、彼女の意識を呑み込みかけたその時、パンッ!!!という大きな破裂音がした。
!!
「⋯⋯ぁ」
それまで全ての音を遮断していたリシュベルの耳に、不思議とその音だけは、はっきりと聞こえた。同時に、音とともに発生した眩い光がリシュベルの意識を包み込むと、視界を閉ざしていた真っ暗闇の空間が一瞬で霧散した。
「⋯⋯こ、こは」
リシュベルの視界が色を取り戻すと、そこは先程と全く変わらない街の中だった。
「⋯⋯大丈夫か? 俺の声が聞こえるか?」
声のする方へと顔を向けたリシュベルは、黒い髪と黒い瞳を持つ男が隣にいることに気が付いた。
男は、訝しげにこちらを見下ろしている。
「おいっ、聞こえるか?」
「⋯⋯あ⋯⋯え、え。だい、じょうぶ。⋯⋯ごめん、なさい」
「⋯⋯お前」
浅い呼吸を繰り返し、虚ろな目をしたリシュベルを見ていたその男は、眉間に深い皺を寄せると何かを考え込んでしまった。
「⋯⋯あ、の?」
急に沈黙してしまったその男を前にして、この場を去ることも出来ず。どうしたらいいのか途方にくれたリシュベルは、一先ず、その男を待つことにした。
何もすることがなく、手持ち無沙汰なリシュベルは、観察していた男の腕に血が付いているのを見て、ようやく男が怪我をしていることを思い出した。
「あっ! そうだわ。貴方、怪我をしてるんだった! 私ったらボーっとしてしまって。ごめんなさい」
慌てて、止血するためハンカチで男の傷口を押さえる。
「⋯⋯っ」
「あっ、ごめんなさい。痛いわよね。でも、少しだけ我慢して?」
「⋯⋯」
止血を始めてから数分が経ち、完全に血が止まるのを見たリシュベルは、安堵のため息を吐いた。
「良かった。出血の割に傷はそんなに深くないみたい。でも、跡が残りそうね」
「⋯⋯別に構わない。女じゃあるまいし」
不愉快そうな男の言葉に、ずっと傷口を見ていたリシュベルは顔を上げた。見ると、男はむすっと仏頂面をしている。
何だかその様子が、叱られて拗ねてしまった小さな子供のようだと感じ、リシュベルは、小さく笑ってしまった。
「ふふっ」
「なんだ?」
「いいえ、何でないわ。それよりも、すぐにお医者様に見てもらってね。感染症にでもなったら大変だわ。たとえ小さな傷でも、ちゃんと手当をしないと病気になってしまうわ」
「⋯⋯ああ」
「じゃあ私はこれで。さような——」
「待てっ!」
別れを告げ、その場を離れようとしたリシュベルの手首を男がいきなり掴んだ。
「え⋯⋯、どう、したの?」
気まずそうにあちこち視線を彷徨わせた男は、やがて何かを決意したかのような目でリシュベルを見ると、突然、自らの服の袖を捲り、そこに巻きつけていた金の鎖を外した。
「⋯⋯これを。ハンカチの礼だ」
そう言うと、男はリシュベルの目の前に手を突き出した。
「⋯⋯?」
見ると、男の手にはブレスレットが握られていた。
「え? ⋯⋯そんなっ、そんなつもりじゃっ」
「お前にそんなつもりがないことは分かっている。⋯⋯これは守り石だ。さっきのように意識が呑み込まれそうになったときに、きっと役に立つ。今回が初めてではないのだろう? なら、これはお前が持っていろ。要らなければ捨てればいい。⋯⋯その、さっきは悪かった。お前を貶めるようなことを言って」
「そんなことっ」
「いい。どうせ安物だ。俺が持っていたところで大した役には立たない」
あくまでも固辞し続けるリシュベルに、焦れた男は、半ば強制的に彼女にそのブレスレットを握らせた。
「でもっ——」
そうまでしてブレスレットを渡そうとする男に慌てたリシュベルが、なおも言い募ろうとしたその時、少し離れた所からベルンハルトが歩いてくるのが見えた。
「ベルン!」
「すまない、待たせてしまった。警備隊に状況説明をしていたんだが、当事者がいないから時間がかかってしまった。⋯しかし、散々な一日だったな。せっかくリシュベルの怪我が治ったというのに。疲れただろう? 今日のところはもう帰ろう。また熱が出たら大変だ。昼は食べ損ねたが、また今度ゆっくり来ればいい」
「⋯⋯そうね。でも少し待って。彼と話があるの」
「彼?」
「ええ、だから——」
ベルンハルトから視線を外したリシュベルは、後ろを振り返った。
がしかし。
「え? そんな⋯⋯」
そこにいたはずの黒髪の男は、既にいなくなっていた。
「よく分からないが、帰ったんじゃないか? あんな騒動があったわけだし。怪我をしていたんだろう?」
「⋯⋯そうね」
「さあ帰ろう」
そう言うと、ベルンハルトは手を伸ばした。
何だか腑に落ちなかったが、疲れたのは事実だったため、リシュベルは、素直に彼の手を取って来た道を引き返すことにした。
睨み合うというよりも、三人が一方的に相手に向かって唾を飛ばし、大声で喚き散らしているだけだ。どの男も、顔や身体の至る所に傷跡があり、凶悪な面構えをしているので一目で只者ではないことがわかる。その手には、三人とも大振りの剣を持っている。
そんな状況にも関わらず、黒髪の男は全く気にするそぶりがない。それどころか、片方の口端を吊り上げ、あえてそれらを愉しんでいるように笑っている。
男は丸腰だ。斬りつけられたのか、服の左袖部分は真っ赤に染まり、手の甲を伝った血が、土の地面へとポツポツと零れ落ちて血だまりを作っている。
!!
「あの人、血が出てるっ」
「ああ、さすがにあれはまずいな。街の警備隊もまだ来る気配はないし。⋯仕方ない。リシュベル、ここで待っていろ」
「べ、ベルン! 危ないわっ」
止めようとするリシュベルの声を背中で聞きながら、ベルンハルトは振り返ることなく、その男達に向かって歩いて行った。
***
「この野郎っ、何笑ってやがるっ!! 状況わかってんのか!? 舐めやがって!!」
「はっ、弱い犬ほどよく吠える。状況を理解していないのは貴様らのほうだろ? この俺に手を出してただで済むとでも思っているのか? 逆恨みもいいとこだ。こっちは善意で貸してやったと言うのに。借りるときは床に頭擦り付けて頼んできたくせに。それを返せないのはそいつが無能なクズだからだろう? まったく、親玉がクズだと子までクズとはな。貴様らの飼い主に言っておけ。俺を殺すつもりならもっとマシなのを用意しとけとな。⋯聞こえたか? 死にたくなければ今すぐ消えろ、このクズ共め」
「っ! この、野郎⋯ぶっ殺してやるっ!!!」
黒髪の男がせせら笑った瞬間、三人が一斉に斬りかかった。
「言葉も理解出来ないのか」
そう独り言ちると、ふっと息を吐き、ニヤリと笑った。その顔はとてもきれいな造りをしているというのに、目の前の三人よりも遥かに凶悪に見える。
『死ね』と音にせず、唇の動きだけで呟くと、すっと右手を前に出して広げた。
「やめろっ!!」
その時、横から静止の声がかかった。よく通る低音のその声は、街の喧騒に飲まれることもなく、辺りに響き渡った。
斬りかかった男達もぐっと動きを止め、声のした方へと顔を向けた。
黒髪の男は、さも不愉快そうに鼻を鳴らすと、目線だけをそちらに向けて、その手を下ろした。
「なんだお前っ!! 邪魔するつもりか!?」
「お前もぶっ殺されてぇのかっ!?」
「喚くなっ、喧しい! 騎士団の者だ。こんな街中で物騒な真似はよせっ。もうすぐ警備隊もやって来る。これ以上騒ぎを大きくするのなら面倒なことになるぞ」
「騎士!?」
「警備隊だと?」
気色ばんだ男達は、突如として割って入ってきたベルンハルトへとその怒りの矛先を向けようとしたが、彼が騎士だと名乗ったこと、警備隊の名が出たことに一瞬怯んだ。
「⋯⋯⋯この、クソがっ!!」
「おい、やめろっ! 厄介事はごめんだ。行くぞっ」
「⋯チッ!」
一人がベルンハルトに食ってかかろうとしたが、もう一人がそれを止めると、三人は慌てて剣を収めて駆け出した。
「あっ、おい!!」
「いい。あんなクズ共、放っておけ」
逃げる三人を追いかけようとしたベルンハルトに、黒髪の男が声をかけた。
その声で振り返ると、黒髪の男は気怠げな表情で髪をかき上げ、何事もなかったかのように平然とその場から去ろうとした。
「ちょっ、待てっ! 今、警備隊が来るからちゃんと話を——」
「何も問題はない。届など出すつもりもないしな。鬱陶しいっ」
ベルンハルトに見向きもせず、男はそう吐き捨てるとどんどん遠ざかって行った。
「⋯⋯」
どちらに責があるかは定かではないが、明らかに黒髪の男は怪我をしていた。それだけで十分傷害事件として成り立ちはするのだが、被害者である当の本人が届を出すつもりがないとなると、ベルンハルトとしてもどうしようもない。
納得はいかないが、ベルンハルトはその男が去って行くのを黙って見ているしかなかった。
そうしていると、騒ぎをききつけた警備隊がやって来た。黒髪の男は、去り際、警備隊の男達とすれ違ったが、興味がないと言うように、警備隊を一瞥もせず、前だけを見て歩いていった。
とその時、ベルンハルトのよく知る声が辺りに響いた。
「待って!! 」
見ると、リシュベルがその男の腕を両手で掴んで引き止めていた。
「貴方、怪我してるわっ。こんなに血が出てる」
「要らん、余計な真似をするなっ」
リシュベルは、持っていたハンカチで男の傷を押さえようと手を伸ばしたが、それが届く前に男によって手首を掴まれた。
「で、でも⋯⋯」
「こんな傷すぐに治せる」
「⋯え?」
どういう意味か計り兼ね困惑していると、その男は、リシュベルの問いに答えるつもりはないらしく、また歩き始めた。
一瞬戸惑ったリシュベルだったが、ハッと我に返るとすぐにその後を追いかけた。
「ま、待ってっ。お願いだから、ちょっと待って!」
「しつこい女だなっ。なんだ? そんなに俺に恩を売りたいのか? 目的は何だ、金か?」
!!
男のその蔑むような目を見て、リシュベルの喉がひゅっと鳴った。同時にリシュベルの中がグラグラと揺れ始めた。
「あ⋯⋯っ」
目眩かと思ったが、違う。頭の中が揺れているのか、それとも身体が揺れているのか。
目を開けているはずなのに、視界は真っ暗な闇に閉ざされた。先程まで、うるさいくらい聞こえていた街の喧騒も聞こえない。
ーー怖い⋯⋯
リシュベルの脳裏に継母とマリエルの姿が浮かんだ。侮蔑と嘲弄の含んだ目で、いつも二人はリシュベルを見ていた。
ーー誰か、助けて⋯⋯誰か、誰か、誰かっ!!
リシュベルの深層心理にまで染み込んだ恐怖が、彼女の意識を呑み込みかけたその時、パンッ!!!という大きな破裂音がした。
!!
「⋯⋯ぁ」
それまで全ての音を遮断していたリシュベルの耳に、不思議とその音だけは、はっきりと聞こえた。同時に、音とともに発生した眩い光がリシュベルの意識を包み込むと、視界を閉ざしていた真っ暗闇の空間が一瞬で霧散した。
「⋯⋯こ、こは」
リシュベルの視界が色を取り戻すと、そこは先程と全く変わらない街の中だった。
「⋯⋯大丈夫か? 俺の声が聞こえるか?」
声のする方へと顔を向けたリシュベルは、黒い髪と黒い瞳を持つ男が隣にいることに気が付いた。
男は、訝しげにこちらを見下ろしている。
「おいっ、聞こえるか?」
「⋯⋯あ⋯⋯え、え。だい、じょうぶ。⋯⋯ごめん、なさい」
「⋯⋯お前」
浅い呼吸を繰り返し、虚ろな目をしたリシュベルを見ていたその男は、眉間に深い皺を寄せると何かを考え込んでしまった。
「⋯⋯あ、の?」
急に沈黙してしまったその男を前にして、この場を去ることも出来ず。どうしたらいいのか途方にくれたリシュベルは、一先ず、その男を待つことにした。
何もすることがなく、手持ち無沙汰なリシュベルは、観察していた男の腕に血が付いているのを見て、ようやく男が怪我をしていることを思い出した。
「あっ! そうだわ。貴方、怪我をしてるんだった! 私ったらボーっとしてしまって。ごめんなさい」
慌てて、止血するためハンカチで男の傷口を押さえる。
「⋯⋯っ」
「あっ、ごめんなさい。痛いわよね。でも、少しだけ我慢して?」
「⋯⋯」
止血を始めてから数分が経ち、完全に血が止まるのを見たリシュベルは、安堵のため息を吐いた。
「良かった。出血の割に傷はそんなに深くないみたい。でも、跡が残りそうね」
「⋯⋯別に構わない。女じゃあるまいし」
不愉快そうな男の言葉に、ずっと傷口を見ていたリシュベルは顔を上げた。見ると、男はむすっと仏頂面をしている。
何だかその様子が、叱られて拗ねてしまった小さな子供のようだと感じ、リシュベルは、小さく笑ってしまった。
「ふふっ」
「なんだ?」
「いいえ、何でないわ。それよりも、すぐにお医者様に見てもらってね。感染症にでもなったら大変だわ。たとえ小さな傷でも、ちゃんと手当をしないと病気になってしまうわ」
「⋯⋯ああ」
「じゃあ私はこれで。さような——」
「待てっ!」
別れを告げ、その場を離れようとしたリシュベルの手首を男がいきなり掴んだ。
「え⋯⋯、どう、したの?」
気まずそうにあちこち視線を彷徨わせた男は、やがて何かを決意したかのような目でリシュベルを見ると、突然、自らの服の袖を捲り、そこに巻きつけていた金の鎖を外した。
「⋯⋯これを。ハンカチの礼だ」
そう言うと、男はリシュベルの目の前に手を突き出した。
「⋯⋯?」
見ると、男の手にはブレスレットが握られていた。
「え? ⋯⋯そんなっ、そんなつもりじゃっ」
「お前にそんなつもりがないことは分かっている。⋯⋯これは守り石だ。さっきのように意識が呑み込まれそうになったときに、きっと役に立つ。今回が初めてではないのだろう? なら、これはお前が持っていろ。要らなければ捨てればいい。⋯⋯その、さっきは悪かった。お前を貶めるようなことを言って」
「そんなことっ」
「いい。どうせ安物だ。俺が持っていたところで大した役には立たない」
あくまでも固辞し続けるリシュベルに、焦れた男は、半ば強制的に彼女にそのブレスレットを握らせた。
「でもっ——」
そうまでしてブレスレットを渡そうとする男に慌てたリシュベルが、なおも言い募ろうとしたその時、少し離れた所からベルンハルトが歩いてくるのが見えた。
「ベルン!」
「すまない、待たせてしまった。警備隊に状況説明をしていたんだが、当事者がいないから時間がかかってしまった。⋯しかし、散々な一日だったな。せっかくリシュベルの怪我が治ったというのに。疲れただろう? 今日のところはもう帰ろう。また熱が出たら大変だ。昼は食べ損ねたが、また今度ゆっくり来ればいい」
「⋯⋯そうね。でも少し待って。彼と話があるの」
「彼?」
「ええ、だから——」
ベルンハルトから視線を外したリシュベルは、後ろを振り返った。
がしかし。
「え? そんな⋯⋯」
そこにいたはずの黒髪の男は、既にいなくなっていた。
「よく分からないが、帰ったんじゃないか? あんな騒動があったわけだし。怪我をしていたんだろう?」
「⋯⋯そうね」
「さあ帰ろう」
そう言うと、ベルンハルトは手を伸ばした。
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