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第1章 婚約破棄に至るまで

4.放たれた狂気〜1

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あの日からリシュベルの生活は一変した。

それまでも彼女の生活は、とても伯爵令嬢と言えるものではなかったが、それでも着る物も食事も与えられ、安心して寝る場所もあった。使用人としての扱いでしかなかったが、まだそこは生きていける場所ではあったのだ。

父親には無関心を貫かれ、継母には聞くに耐えない侮蔑的な言葉を浴びせられ、ヒステリックに鞭で何度も何度も叩かれたりした。

そして、そんなリシュベルの傍にはいつもマリエルがいた。

継母とは違い、マリエルが今まで直接彼女に危害を加えることはなかった。

マリエルはいつもただ、笑って見ているだけ。

しかし、ベルンハルトとのあの一件以来、マリエルはあからさまな敵意をリシュベルに向けるようになった。敵意なんて生易しいものではない。それは最早、殺意と言ってもよいだろう。


***

その日もリシュベルは、継母にくだらない理由で鞭で打たれていた。

継母の陰険なところは、人目につく身体ところには決して傷を付けないことだ。

特にベルンハルトとの婚約が決まってからは、今まで以上に人前に出る機会が増えたため、跡が残るような深い傷をつけることはなかった。だがいくら深い傷はできないと言っても、幼い頃から何百回と打たれたリシュベルにとっては、鞭そのものが恐怖の対象なのだ。

いつも継母の部屋で、ドレッサーの引き出しから取り出されるそれを見ると、彼女の身体はガタガタと震え、涙が溢れて、失神しそうになる。そんな彼女を見ても、継母は一切鞭を振るう手を緩めなかった。むしろ、それがたのしいのだと言わんばかりにリシュベルの背中を打った。

一通りリシュベルを打って気の済んだ継母は、スッキリとした満足げな表情で部屋を出て行った。

それを待っていたかのように、それまで笑って見ていたマリエルが、床に倒れたままで起き上がれないリシュベルの傍へとやって来た。

豪華なドレスの裾をさばくと床に膝をつき、リシュベルの耳元に口を近づけてささやいた。

「ねえ、リシュベル。無様な格好ね。あのとき、私にあんな反抗的な目をしてきたお前とは思えないほど無様だわ。今のお前は床を這う虫みたい。⋯そんなお前にベルンハルト様は勿体ないわ。私にちょうだい?」

「何を⋯⋯きぁっ!!   ⋯っ⋯⋯や、⋯めてっ」

のろのろと顔を上げ、言葉を発しようとした途端、マリエルの顔から笑みが消えた。

能面のような表情でリシュベルの前髪を乱暴に鷲掴むと力任せにぐいっと後ろに引っ張り、自分の目の高さまで持ち上げた。

リシュベルの亜麻色の髪からはぶちぶちと嫌な音がし、その顔は痛みでぐしゃぐしゃに歪んでいる。

「そんなことを聞いてるんじゃないっ!!   お前はいつものように、はいとだけ答えればいいのよっ!   ベルンハルト様と一緒にいて随分と生意気になったのね。お前ごときがっ!   ⋯この屋敷から出れば幸せになれるとでも思ってんの?   ベルンハルト様が助けてくれると?  そんなわけないじゃない。そんなことさせないわっ」

マリエルは至近距離から怒鳴り散らすと、またその顔に笑みを浮かべ、どこにそんな力があるのか、さらに彼女の頭を持ち上げた。

リシュベルのあごは限界まで上を向き、その口は酸欠の魚のようにハクハクと喘いでいる。

「⋯っ⋯⋯⋯⋯ぁあ⋯⋯い、やっ!!」

必死に叫んだリシュベルは、持てる力の全てで髪を掴んでいるマリエルの手に爪を立てた。

「っ!   ⋯⋯このっ、バカがあっ!!!」

手に走った鋭い痛みで思わず髪から手を離したマリエルは、憤怒の形相で立ち上がると、リシュベルの薄い腹を力の限り蹴り上げた。

!!!

「⋯⋯っ⋯かはっ⋯⋯⋯ぅ⋯くっ、⋯ぁあ⋯あ」

いきなり髪を離されたリシュベルは、重力に逆らえずしたたかに床で顔を打ち付けた。

その痛みに声を出す間も無く、次に訪れた衝撃でリシュベルの身体は大きく跳ねた。

凄まじい痛みで小さく身体を丸めたリシュベルは、声も出せず、口からはひゅうひゅうという呼吸音だけが聞こえる。荒く上下しているだけのリシュベルの胸は、恐怖と哀しみでいっぱいになった。

やがてその身体はピクピクと痙攣し始めた。

「あははっ!   お姉様ってば面白いっ」

そんなリシュベルを見て、マリエルは狂ったように手を叩いて笑った。

もはや痛みのせいで、怒りも悲しみも何も感じないリシュベルは、沈んでいく意識の中でその声を聞いた。

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