婚約破棄のその先に悪魔が笑って待っていた。

ノワール

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第1章 婚約破棄に至るまで

42.そこに在る恐怖

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リシュベルへと伸ばされたスカーの手は、目に見えない衝撃により弾き飛ばされてしまった。

一瞬、スカーは驚きに目を見開くと、今度は忌々しげにリシュベルの手元へと鋭い視線をやった。

その表情は、彼がもつ天使のような愛らしさとは遠くかけ離れており、苛立ちや怒り、そして憎しみがごちゃ混ぜになったような、そんな表情だった。

「⋯⋯っ」

彼は苛立ちを隠そうともせず、一つ舌打ちをするとリシュベルの手元を睨みつけ、地面を蹴り上げるとともに大きな声を張り上げた。

「こ、のっ、ただの守護石ごときがっ!」

その怒声に肩を震わせたリシュベルは、スカーの鋭い視線が向けられている自身の手元へと目をやった。

その先では淡い光が放たれていた。


「⋯⋯お前、高位精霊であるこの僕に敵意を向けたというのかい? そんなことをすればどうなるか。まさか、分からないわけじゃないよね?」

今や、天使の面影さえ消え失せ、淡いアクアマリンを思わせる瞳が濃い青へと変化した瞬間——。

「身の程を知れっ!!」

 ありったけの怒りを込めた声で叫ぶと同時に、スカーはリシュベルの目の前で何かをひねり潰すようにグッと拳を握りしめた。

——その刹那。

「きゃっ⋯⋯!」

常に彼女を守護していた石がピシリと音を立て、次の瞬間には、パンッ!という破裂音とともに無残にも砕け散ってしまった。

粉々になり、幾つもの小さな欠片へと化してしまった瑠璃石ラピスラズリは、乾いた地面へと転がり落ちると彼方此方あちらこちらへと散らばってしまった。

その小さな欠片の一粒が、履き古したリシュベルの靴先へと転がってきた。

「⋯⋯⋯⋯」

スカーの怒声で身体を震わせていたリシュベルは、何が起こったのか訳が分からず、呆然と己の足元に転がってきた小さな石の破片を見つめた。

「⋯⋯⋯⋯な、んで」

「はっ、何故かって? たかが石に宿る下級精霊の分際で、僕の邪魔をしたからだよ」

当然の報いだと鼻で笑うスカーは、今はもう元の色を取り戻した瞳をリシュベルへと向けた。

「さあ、リシュベル。今度こそ邪魔は入らないよ。だから、ね。一緒においで」

まるで何事もなかったかのように平然と微笑んだスカーは、今度こそなんの障害もなくリシュベルの細い腕を力任せに掴んだ。

「⋯⋯っ! いやっ、やめて。お願い、離してっ」

弱々しく、それでもなお抵抗を続けるリシュベルへと苛立ちを募らせていったスカーは、掴んでいる彼女の腕にさらに力を込めた。

「⋯⋯痛っ」

「僕さぁ、聞き分けのない子は嫌いなんだよね」

「⋯⋯っ」

「ねえ、一体何がそんなに不満なのさっ。ベルンハルトのことは嘘じゃないよ。それに、アレクの傍にいれば贅沢な暮らしだってできるし、怖いことなんてなんにもないって言っているじゃないかっ」

苛立ちが増すごとに腕へと込められた力は強くなってゆく。

「⋯⋯い、たい。おねが、やめてっ」

ふうっとため息を吐いたスカーは、突然、腕を掴んでいないほうの手でリシュベルの両目を覆った。

「仕方ないなあ。これ以上暴れられても面倒だから、君には少し眠っていてもらおう」

「⋯⋯!」


リシュベルは、スカーという存在が恐ろしくなった。

天使のように愛らしい顔をしながら、無邪気な笑顔の影に隠れる残酷な悪意が恐ろしかった。

無垢な少年のように無邪気に笑っていたかと思えば、次の瞬間には凍てつくほど冷たい色を放つ青の瞳も。

一瞬でころころと変化する彼の表情も。

そして、彼から放たれる形容し難い雰囲気さえも——。

リシュベルは、スカーの全てが恐ろしかった。



「⋯⋯⋯⋯や、め⋯て」

薄れゆく意識の中で、とてつもない不安と恐怖がリシュベルの中を支配していった。


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