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第1章 婚約破棄に至るまで
41.壊れたお人形
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「や、めて⋯⋯」
それは、微かに聞き取れるほどの小さな小さな掠れた声だった。
リシュベルのすぐ近くにいるはずのスカーに、その声が聞こえなかったはずなどはない。絶望に顔を歪ませ、痛々しいまでに涙を流す彼女を前にしても、未だスカーの嘲りは止むことはない。それどころか、にっこりと微笑んで、更に残酷な悪意を吐き出してゆく。
「金で買われたきれいなお人形さん。子供が飽きた玩具をいとも容易く捨ててしまうように、君もいつかは飽きられて捨てられちゃうのかなぁ? ねぇ、リシュベル?」
リシュベルの心の隙をつき、彼女をじりじりと甚振るスカーの声音は、どこか愉しそうで、今にも声を上げて嗤い出しそうだった。
「だからさ、リシュベル。そんな最低な奴なんかやめて、アレクのところにおいでよ。アレクだったら絶対に君を悲しませたりしないよ? 今までのように理不尽に暴力を振るわれることもないし、君のことを見下したりする者もいない。アレクの庇護下にいる限り、君を傷つけようとする者なんて皆無だ。オーデンの名を継ぐアレクの怒りを買えば、その者に待っているのは破滅だけだと、多くの貴族はそれを知っているからね!」
「⋯⋯そ、んなもの——」
「それに、それにね! アレクの側にいれば、欲しい物はなーんだって手に入るよ? 大きな宝石も、豪奢なドレスも、食べきれないほどの豪華な食事も!」
興奮した様子で、若干頬を赤らめながら、リシュベルの心を完全に無視したやり取りは、途中からリシュベルの耳には、途切れ途切れにしか聞こえなくなっていった。
だが、そんなリシュベルの様子に気が付かないスカーは、尚も言い募る。
「——だからさ、リシュベル。アレクのところにおいでよ! それが君の一番の幸せだ」
「⋯⋯⋯⋯」
一方的に捲し立てるように喋り続けるスカーを、どこか遠い気持ちで聞いていたリシュベルの瞳が、ゆっくりと彼から逸らされてゆく。
そして、それ以上、スカーの言葉など聞きたくなかったリシュベルは、きつく唇を噛み締めると、更なる悪意から身を守るため、両手できつく耳を塞いだ。
「⋯⋯? リシュベル、どうしたの?」
彼女の様子がいつもと違うことを不思議に思ったスカーは、少し身を屈めると、そんな彼女の顔を覗き込もうとした。だが、自分が今、どんな顔をしているのかを見られたくなかったリシュベルは、少しでもスカーから離れようと一歩後ろに下がると、更に深く顔を伏せてしまった。
リシュベルの様子が変だとは気付いていたスカーだったが、そんなことは瑣末なことだと、特に気に留めることはなかった。
そして、そんなリシュベルの反応を見たスカーは、もう一押しだと仄暗い笑みを浮かべた。
己の目の前に在る、今にも崩れ落ちてしまいそうなほど小さく、脆い存在であるリシュベルへと最後の止めを刺す。
「ま、いっか。ねぇ、きれいなお人形さん。精霊とは流れる時が違う人間にはね、どんなことをしても絶対に避けられないものがあるんだ。なんだと思う?」
「⋯⋯⋯⋯」
スカーから投げかけられた問いに答える様子のないリシュベルは、更にきつく耳を塞いでふるふると頭を振ると深く俯いてしまった。
端からリシュベルの返答を期待していなかったスカーは、にっこりと微笑んでリシュベルのすぐ傍までやってくると、彼女の耳元に唇を寄せ、そっと一言囁いた。
「それはね、『老い』だよ」
耳を塞いでいても不思議と鼓膜から流れ込んでくるスカーの言葉に、リシュベルはピクリと肩を揺らして初めて反応を示した。
「⋯⋯え? 老い?」
ゆっくりと顔を上げたリシュベルは、彼が何を言いたいのかよく分からず、じっとスカーの瞳を見つめた。
「ふふっ、そう『老い』だよ。僕たちとは時の流れが違う人間は、たった十年、二十年と年を重ねていくにつれ、若さも美しさもどんどんと失われていく。君のそのきれいで真っ直ぐに伸びた亜麻色の髪も、その大きな紫水晶の瞳も、いつかは輝きを失ってしまうんだ。もちろん肌だってそうだよ。そして、失われたものはもう二度と戻りはしない。さぁ、どうだろう? 『きれいなお人形』が欲しかったベルンハルトは、そんな風に醜く老いていく君を、変わらずに愛してくれるだろうか?」
それを聞いたリシュベルは、びくりと肩を震わせた。
「きれいなだけのお人形さん。ピカピカの新しい玩具が出るたび、子供がそれまでの玩具に見向きもしなくなるように、ベルンハルトも、若くてきれいな新しい愛人が見つかれば、もう君は——」
『要らないよね?』
その瞬間。きつく耳を塞いでいたはずのリシュベルの両手は力を失い、糸の切れたカラクリ人形のようにだらりと身体の横へと投げ出された。
つい先程まで、とめどなく流れていたはずの涙はピタリと止まり、スカーを見つめていたはずの瞳は、どこか彼方を見つめている。
その虚ろな瞳には、今、何が映っているのだろうか。
「⋯⋯リシュベル?」
やっとそんな彼女の様子を訝しんだスカーは、ピクリと眉を寄せると一歩前に距離を詰め、彼女の視界に入ろうとした。
——その時。
「⋯⋯ぁ⋯ぁ。あ、ぁぁあああ————!!」
突如として、周囲の耳障りな蝉の声を打ち消すほどの絶叫が響き渡った。
「⋯⋯う、ぁ! ぁ⋯⋯あっ! や、めてっ!やめてやめてやめて、やめて———!!!」
苦しげな悲鳴を上げ、錯乱したリシュベルは、頭を抱えると、癇癪を起こした幼子のように激しく左右に頭を振り始めた。
「リシュベっ——!」
酷薄な、どこかその状況を愉しんでいるようにも見えたスカーが、初めて顔色を変えた。
突然のリシュベルの変貌に慌てたスカーは、とりあえずリシュベルを落ち着かせなければと、錯乱し、ただただ頭を振って暴れるしかないリシュベルへと手を伸ばした。
「リシュベル、落ち着いて! リシュベル! リシュベ——」
スカーの手がリシュベルの肩に触れようとしたその時。
「っ!」
伸ばされたスカーの手は、突如として現れた、目に見えない衝撃によって弾き飛ばされてしまった。
それは、微かに聞き取れるほどの小さな小さな掠れた声だった。
リシュベルのすぐ近くにいるはずのスカーに、その声が聞こえなかったはずなどはない。絶望に顔を歪ませ、痛々しいまでに涙を流す彼女を前にしても、未だスカーの嘲りは止むことはない。それどころか、にっこりと微笑んで、更に残酷な悪意を吐き出してゆく。
「金で買われたきれいなお人形さん。子供が飽きた玩具をいとも容易く捨ててしまうように、君もいつかは飽きられて捨てられちゃうのかなぁ? ねぇ、リシュベル?」
リシュベルの心の隙をつき、彼女をじりじりと甚振るスカーの声音は、どこか愉しそうで、今にも声を上げて嗤い出しそうだった。
「だからさ、リシュベル。そんな最低な奴なんかやめて、アレクのところにおいでよ。アレクだったら絶対に君を悲しませたりしないよ? 今までのように理不尽に暴力を振るわれることもないし、君のことを見下したりする者もいない。アレクの庇護下にいる限り、君を傷つけようとする者なんて皆無だ。オーデンの名を継ぐアレクの怒りを買えば、その者に待っているのは破滅だけだと、多くの貴族はそれを知っているからね!」
「⋯⋯そ、んなもの——」
「それに、それにね! アレクの側にいれば、欲しい物はなーんだって手に入るよ? 大きな宝石も、豪奢なドレスも、食べきれないほどの豪華な食事も!」
興奮した様子で、若干頬を赤らめながら、リシュベルの心を完全に無視したやり取りは、途中からリシュベルの耳には、途切れ途切れにしか聞こえなくなっていった。
だが、そんなリシュベルの様子に気が付かないスカーは、尚も言い募る。
「——だからさ、リシュベル。アレクのところにおいでよ! それが君の一番の幸せだ」
「⋯⋯⋯⋯」
一方的に捲し立てるように喋り続けるスカーを、どこか遠い気持ちで聞いていたリシュベルの瞳が、ゆっくりと彼から逸らされてゆく。
そして、それ以上、スカーの言葉など聞きたくなかったリシュベルは、きつく唇を噛み締めると、更なる悪意から身を守るため、両手できつく耳を塞いだ。
「⋯⋯? リシュベル、どうしたの?」
彼女の様子がいつもと違うことを不思議に思ったスカーは、少し身を屈めると、そんな彼女の顔を覗き込もうとした。だが、自分が今、どんな顔をしているのかを見られたくなかったリシュベルは、少しでもスカーから離れようと一歩後ろに下がると、更に深く顔を伏せてしまった。
リシュベルの様子が変だとは気付いていたスカーだったが、そんなことは瑣末なことだと、特に気に留めることはなかった。
そして、そんなリシュベルの反応を見たスカーは、もう一押しだと仄暗い笑みを浮かべた。
己の目の前に在る、今にも崩れ落ちてしまいそうなほど小さく、脆い存在であるリシュベルへと最後の止めを刺す。
「ま、いっか。ねぇ、きれいなお人形さん。精霊とは流れる時が違う人間にはね、どんなことをしても絶対に避けられないものがあるんだ。なんだと思う?」
「⋯⋯⋯⋯」
スカーから投げかけられた問いに答える様子のないリシュベルは、更にきつく耳を塞いでふるふると頭を振ると深く俯いてしまった。
端からリシュベルの返答を期待していなかったスカーは、にっこりと微笑んでリシュベルのすぐ傍までやってくると、彼女の耳元に唇を寄せ、そっと一言囁いた。
「それはね、『老い』だよ」
耳を塞いでいても不思議と鼓膜から流れ込んでくるスカーの言葉に、リシュベルはピクリと肩を揺らして初めて反応を示した。
「⋯⋯え? 老い?」
ゆっくりと顔を上げたリシュベルは、彼が何を言いたいのかよく分からず、じっとスカーの瞳を見つめた。
「ふふっ、そう『老い』だよ。僕たちとは時の流れが違う人間は、たった十年、二十年と年を重ねていくにつれ、若さも美しさもどんどんと失われていく。君のそのきれいで真っ直ぐに伸びた亜麻色の髪も、その大きな紫水晶の瞳も、いつかは輝きを失ってしまうんだ。もちろん肌だってそうだよ。そして、失われたものはもう二度と戻りはしない。さぁ、どうだろう? 『きれいなお人形』が欲しかったベルンハルトは、そんな風に醜く老いていく君を、変わらずに愛してくれるだろうか?」
それを聞いたリシュベルは、びくりと肩を震わせた。
「きれいなだけのお人形さん。ピカピカの新しい玩具が出るたび、子供がそれまでの玩具に見向きもしなくなるように、ベルンハルトも、若くてきれいな新しい愛人が見つかれば、もう君は——」
『要らないよね?』
その瞬間。きつく耳を塞いでいたはずのリシュベルの両手は力を失い、糸の切れたカラクリ人形のようにだらりと身体の横へと投げ出された。
つい先程まで、とめどなく流れていたはずの涙はピタリと止まり、スカーを見つめていたはずの瞳は、どこか彼方を見つめている。
その虚ろな瞳には、今、何が映っているのだろうか。
「⋯⋯リシュベル?」
やっとそんな彼女の様子を訝しんだスカーは、ピクリと眉を寄せると一歩前に距離を詰め、彼女の視界に入ろうとした。
——その時。
「⋯⋯ぁ⋯ぁ。あ、ぁぁあああ————!!」
突如として、周囲の耳障りな蝉の声を打ち消すほどの絶叫が響き渡った。
「⋯⋯う、ぁ! ぁ⋯⋯あっ! や、めてっ!やめてやめてやめて、やめて———!!!」
苦しげな悲鳴を上げ、錯乱したリシュベルは、頭を抱えると、癇癪を起こした幼子のように激しく左右に頭を振り始めた。
「リシュベっ——!」
酷薄な、どこかその状況を愉しんでいるようにも見えたスカーが、初めて顔色を変えた。
突然のリシュベルの変貌に慌てたスカーは、とりあえずリシュベルを落ち着かせなければと、錯乱し、ただただ頭を振って暴れるしかないリシュベルへと手を伸ばした。
「リシュベル、落ち着いて! リシュベル! リシュベ——」
スカーの手がリシュベルの肩に触れようとしたその時。
「っ!」
伸ばされたスカーの手は、突如として現れた、目に見えない衝撃によって弾き飛ばされてしまった。
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