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第1章 婚約破棄に至るまで

34.

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なぜだろう。

ついさっきまで感じていた、耳鳴りも、頭が割れるような痛みも、息苦しさも、体の中をうねるような熱さも、何も感じない。

冷たくて柔らかいものに全身がくるまれ、ふわふわと身体が揺れている。
揺りかごで揺られる幼子も、こんな気持ちなんだろうか。

いや、母の胎内にいる赤子の気持ち、とでも言おうか。

とても心地が良い。
なんだか、守られているような。

時折、頬や額を撫でる、優しくて、冷たいものはなんだろう。

何十本もの糸が複雑に絡まり、無理に解けばぷつりと切れてしまうのではないかと思った糸が、優しく一本一本解かれていく。

その優しい感触に、なんだか、無性に泣きたくなる。

「リーシュ」

誰かの呼ぶ声がする。

『誰か』なんて、分かりきっている。

そう呼ぶのは、母様とだけだから。

自分より四つ上の少し大人びたに、そう呼んでもいいよと言ったのは、小さな私だった。

ああ、そうか。
さっき見た銀色の光は、彼の色だ。

「⋯⋯さ、ま」



深い深い泥濘ぬかるみに沈んでいたリシュベルの意識が、再浮上する。

先程まで、重みに耐えきれなかったリシュベルのまぶたは、いとも容易くその力を取り戻し、真っ暗な闇の中にいた彼女に、光を取り戻した。

「ん⋯⋯」

わずかな湿気を含んだ涼しい風が、リシュベルの頬を、髪を撫でる。

「リーシュ」

まだはっきりと焦点が定まらないリシュベルは、少しだけ視線を彷徨わせると、ふと声が聞こえた方へ、その意識を向けた。

「⋯⋯ア、レク?」

そこには、しばらくぶりのアレクが、真上からリシュベルの顔を覗き込んでいた。

リシュベルの呼びかけに応えるように、アレクは、その黒曜石のような瞳を細めて、ふわりと微笑んだ。

彼の細くて長い指は、ずっとそうしていたのだろうか、リシュベルの亜麻色の髪を優しくくように撫でている。

「気分はどう? どこか、痛い所はない?」

その手と同じくらい、優しく尋ねる彼の声は、やや不安の色を滲ませ、いつもならある揶揄からかいいの色は、微塵もない。

「⋯⋯ええ、大丈夫。⋯⋯貴方が助けてくれたの?」

「まあね。それより驚いた。呼ばれて来てみたら、君が道のど真ん中に倒れてるんだからね。熱は、⋯⋯もうないみたいだね」

良かった。
そう言って、リシュベルの額に手を当てて熱を測っていたアレクは、乱れた彼女の前髪を直している。

「⋯⋯呼ばれた? 誰に?」

その優しい彼の手つきに、思わずうっとりしかけたリシュベルだったが、アレクの不思議な一言で、キョトンとし、大きな紫の瞳をパチパチと瞬かせている。

「私、一人だったわ、よ?」

とりあえず現状を把握しようと、あちこち視線を彷徨わせていたリシュベルは、彼との顔の距離がやけに近いなと思い、自分の身体を見ると、はたと我に返り、狼狽うろたえ始めた。

なんと、彼に膝枕をされているではないかっ。

「———ご、ごご、ごめんなさいっ、私ったら」

慌てて飛び起きようとしたリシュベルだったが、それよりも早く、ぐっとアレクに額を押されたため、またもやアレクの膝に、頭を埋める羽目になった。

「いいから、動かないで。急に起きたりしたら危ないよ? 俺は大丈夫だから、気にしないで」

「いや、そんなわけには——」

そんな状態で、はいそうですかとも言えず。
なおもジタバタと足掻あがこうとするリシュベルだったが、アレクにがっちりと額を押さえつけられているため、どうやっても起き上がることは不可能だ。

「⋯⋯うう」

恥ずかしくて顔を真っ赤に染めたリシュベルは、有無を言わせぬアレクの微笑みに、これ以上何を言っても無駄だとさとり、抵抗するのを止めた。

「そうそう。いいから、じっとしておいで」

リシュベルの抵抗が止むのを見て取ると、アレクは、満足そうににっこりと、それはそれは美しく微笑んだ。

それはもう、後光でも差すんじゃないかと思えるほどだ。

「うっ⋯⋯ま、眩しい」

アレクの神がかった美貌の微笑みを眼前で直視したリシュベルは、眩しさに目をすがめると、保護するため、両手を目に当てた。

「え? ごめん、眩しかった? ⋯⋯これならどう?」

だが、それを太陽が眩しいととったアレクは、リシュベルの顔に影を作ってやろうと思い、その身を屈めたため、さらに顔と顔の距離を詰める羽目になった。
 
「キ、キャアーーー!!   ち、近いっ、は、離れてーーっ!」

「うぐっ⋯⋯」

熟れたトマトのように、更に顔を真っ赤にしたリシュベルは、甲高い叫び声を上げると、近づいてきたアレクの顔を押し返そうとした。

が、如何いかんせん、目をつむっていたため、リシュベルの両手は、アレクの顔面にヒットしてしまい、彼からはくぐもった声が発せられた。

「⋯⋯なに、なに? どうしたの? ⋯⋯君って、たまによく分からないことするよね」

よく分かんないのは、あんただよ!と言いたいのをグッとこらえたリシュベルは、ジト目でアレクを睨んだ。

ーわざとよね? 絶対、わざとよね!? 
 これが天然だったら、恐ろしすぎるんですけどっ!

「??」

キョトンとした顔で小首を傾げているアレクを見ると、リシュベルは、なぜか負けた気になった。

美形は何をやっても、どんな顔をしても、やっぱり美形なんだな、と再認識したリシュベルである。

「と、ところで、誰に呼ばれたの?  誰もいなかったし。というか、遠くに居たんじゃないの?」

「ああ、こいつだよ。こいつが、泣きながら俺の所に飛び込んできたんだ」

「え? こいつ?   ⋯⋯きゃっ」

アレクの視線を追うように、そちらへ顔を向けようとしたリシュベルだったが、それよりも一瞬早く、ぬうっと顔を出した人物がいたため、驚いた彼女は、息を呑んだ。

「⋯⋯ほへ」

リシュベルが間の抜けた声を出すのも無理はない。

そこには、5,6歳だろうか。
初夏の新緑のような、鮮やかな緑の髪を持つ小さな女の子が、くりくりとした大きな瞳で、真上からリシュベルの顔を覗き込んできた。

これまた、一度見たら生涯忘れることはないだろうと思える程の超絶美少女だ。

子供特有の滑らかな白磁の肌に、ぱっちりと開いた大きなエメラルドの瞳。まばたきする度に、ふんわりと伏せられるまつ毛は、繊細なまでに細く長い。何も塗っていないはずの小さな赤い唇は、瑞々みずみずしいさくらんぼのように、ぷっくりとしている。

そう、例えるならば、陶器で出来た愛らしい西洋人形ビスクドールだ。

ピクリとも動かない変化に乏しい表情が、より一層、お人形ではないかとの疑念を抱かせる。

「⋯⋯泣いてない」

ー喋った!

驚きに目を見張るリシュベルをよそに、束の間、彼女を覗き込んでいた女の子は、少し顔を上げると、不服そうに眉を寄せて、同じく彼女を覗き込んでいたアレクをじろりと睨みつけた。

「嘘つけ。澄ました顔しやがって。涙と鼻水でぐちゃぐちゃにした顔で飛び込んできたのは、どこのどいつだ。汚ったない顔しやがっ——」

はっ、と鼻を鳴らして、せせら笑うアレクの言葉を遮ったのは、少女の手と彼の頬から発せられた、パンっという小気味良い音だった。

「っ!」

大きく横に身体を倒したアレクは、直ぐに体勢を整えると、牙を剥き出しにした獣のように、目の前の少女へと噛み付いた。

「⋯⋯い、ったいなっ!! 何すんだっ、このやろうっ、——っやめろ!」

子供とは思えぬ程の力でアレクの横っ面を張り倒した美少女は、なおも言い募ろうとする彼の頬を、今度はグーで殴ろうとして、腕を後ろに引いたところで、アレクにその手首を掴まれた。

「⋯⋯むむ。お主、やりおるな。褒めてつかわす。——がっ! 甘いっ」

むうっと小さな唇を尖らせた少女は、アレクに掴まれているのとは逆の手で、今度は、彼のがら空きの腹へとその拳を叩き込んだ。

「————ぐっ!!」

「きゃあっ」

防御する間も無く、少女の拳をまともに腹に受けたアレクは、ドンッ!!という衝撃音とともに、そこから数メートル先へ吹っ飛ばされた。


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