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小さな悟り人
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「今日はどこへ行きたい?」
寝室にある鏡の前で髪を櫛で梳いていた蒼子に鳳の声が掛かる。
「……今日は出掛けない」
「出ないのか?」
「うん」
蒼子は鏡に映った鳳の姿を盗み見た。
左目に眼帯をした鳳の顔は昨日よりはいくらかマシだが疲労の色は消えていない。
どうせ外出すれば一緒に来るつもりだ。
蒼子を抱いて歩くので身体も休まらない。
この男には休養が必要だ。
「ならば、休むとしよう」
そうしてくれ。
寝室で休むも良し、息抜きに一人で出かけるも良し。
誰にでも一人の時間は必要なのだ。
ここ最近、鳳は自分の時間を蒼子の為に使ってくれている。
加えて、先日の夜は女の所へ行って疲労困憊で朝帰りしてくる。
疲労も溜まる。
そろそろ息抜きが必要な頃合いだろう。
蒼子が櫛を懐にしまうのを見計らい、鳳が蒼子の身体を抱き上げる。
「何?」
「寝る」
抱きかかえて寝台に移動して靴を床に転がす。
「ご自由にどうぞ」
少し前に起床して朝餉を済ませたばかりだ。
柊と椋は出掛けてしまい、店番かと思われた鳳は今日は休みにすると言う。
休むなら自由に過ごせば良い。
しかし何故私が二度寝に付き合わなければならないのか。
「たまには付き合え。いつもは私が付き合っているのだ。それにお前も眠いのだろう?」
「……」
図星だ。
蒼子は眠い日が続いている。
「熱はないな……慣れない生活に疲れたか?」
「別に……眠いだけだよ」
確かに、日に日に身体は重くなっているのを感じる。
何をしてもすぐに疲れてしまい、睡魔が襲って来る。
蒼子は疲労や睡魔など立て続けに襲って来る敵との戦いを余儀なくされているのだ。
態度には出さないように気を配っていたのだがそれを見抜かれて言い返す事も出来ず、結局は鳳の隣に並んで寝転がることになった。
水鏡を視れば仲間の居場所はすぐに捜し出す事が出来る。
しかし今の蒼子は一日起きているのがやっとの状態で力を使えば確実に倒れてしまうのは目に見えている。先日、天功の元へ行った際に椋の腕を振り切って川に飛び込めば良かったと後悔していた。
蒼子の力が弱まれば弱まる程、仲間が蒼子を探しにくくなるし、鳳達に余計な心配をさせてしまう。
そう考えると余計な力は使わず、じっと仲間の到着を待つ方が懸命だ。
早く来て欲しい。
相談したい事もある。
何より、こんな風に何日経っても現れないと流石に心配だ。
事故や変な事件に巻き込まれてはいないだろうか……。
ぱっと見ると人ウケしそうな連中なのだがどうにも人当りがよろしくない為、余計に心配だ。
胸の奥がざわざわして落ち着かない。
このまま少し寝てしまおうかしら。
ざわつく胸の音を宥めるように身体を丸めて目を閉じる。
「こちらを向け」
すると背後から声が掛かる。
わざわざ背を向けて横になったのに向き合うように身体を動かされた。
「……何なの?」
沈みかけていた意識が引き戻された。
「別に」
目の前に整った鳳の顔がある。
以前にも似たような状況もあったが、その時は鳳の寝顔を眺めていただけだった。
しかし今は鳳が蒼子を眺めている。
自分の腕を枕にして空いた手で蒼子の頭を撫で、髪を梳いている。
それが心地良くて蒼子は無意識に目を細めた。
近い……。
いつも鳳に抱かれて歩いているので距離は常にゼロ距離なのだが。
蒼子は何故か気恥ずかしくて鳳になかなか視線を合わせられずにいた。
ふと蒼子の視界に端整な顔を一部隠している眼帯が目に入る。
「その右目、どうしたの?」
「ん? これか?」
「怪我?」
蒼子は何気ない疑問を口にした。
「何だ、気になるのか?」
「まぁ……気になるっちゃ気になる」
何か複雑な理由があるのではないかと想像したが、鳳の声は明るい。
それどころか何故か嬉しそうに目を細める。
「数年前に右目の視力をほとんど失った。突然な。両目を使うよりも左目だけで見る方が都合が良いから右目は眼帯で覆っているのだ」
「そうなんだ……左目の視力は?」
何かの病気だろうか……?
でも病気が原因なら両目とも視力を失う事の方が多い。
目が悪いように感じた事はなかったがもしかしたら左目も悪いのだろうか?
「かなり遠くまで見える。昔から視力には自信があったんだが」
「顔より?」
「何だ、その歳でもう男の顔に興味があるのか?」
くっくと喉を鳴らして口元に笑みをうかべた。
「見ているなら自分好みの顔が良いに決まってるじゃんか。年齢関係なく女は整った顔が好きだよ」
結婚する相手はともかく根っから美男子が嫌いだと言う女は極稀だ。
「お前の好みなのか? 私の顔は」
「え……」
好み……?
端整な顔立ちだとは思う。
美人も恥じらうほどの美しい容貌はなかなかお目に掛かれないだろう。
ただ、好みかと問われれば深く考えた事がないので何とも言えない。
蒼子が返答に困っていると鳳の顔が不機嫌そうに歪む。
「何だ、違うのか? お前はどんな顔が好きなんだ?」
「……あんまり考えた事ない。男の人とはそんなに会わないし」
「そうか」
鳳は納得した表情で頷く。
「じゃあ、貴方はどんな女の人が好きなの?」
鳳の持つ女の影がふと脳裏によぎった。
先日は随分げっそりとして朝帰りをしてきたようだが肉体的疲労が原因なのか、それとも精神的疲労が原因なのか……。
精神的疲労の方が大きいように感じた。
「気になるのか?」
意地悪そうな笑みを浮かべ鳳を見て後悔した。
「何となく……」
訊いたのは成り行きだ。
もの凄く興味がある訳でもない。
しかし、この言い方では私が鳳に興味があるみたいではないか。
「女など皆同じようなものだ。大して変わらぬ」
鳳は興味なさそうに答えた。
「……は?」
予想外の返答に蒼子は口をあんぐりとさせる。
何となく期待を裏切られたかのような感覚に陥り、蒼子はがっくりと肩を落とした。
それと同時に胸の中でふつふつと怒りのようなものが込み上げてくる。
「ねぇ、女の人が嫌いなの?」
「好きだが」
「本当の女好きはね、女は皆同じだなんて言わない。一人ひとり違う魅力があってみんな可愛いって言うの」
「毎回思うが、お前はどこでそんな事を見聞きして……お前の周りの大人は一体、子供に何を吹き込んでいるのだ」
教育上良くない、と鳳は呟く。
「女がみんな同じに見えるの?」
「あぁ……大して違わぬだろう? あいつらは金とそこそこ顔が良ければ誰にでも良い顔するぞ」
蒼子は無意識に眉間にしわを寄せ、子供には似つかわしくない表情を作る。
「恋愛最初は見た目からだからしょうがないでしょ」
「まぁ……そうだが」
「大体、男だって同じだろう。少し可愛くて色っぽければ人妻にだって熟女にだって鼻の下伸ばすし、目で追いかける。見た目に関して言えば男の方がうるさい」
「それは……」
男の習性を的確に突かれ、鳳は言い返す事が出来ずに視線を宙に彷徨わせる。
「ふん、貴方の台詞は女を馬鹿にしてる男の言葉だ。偉そうに宣って自分の浅はかさに気付けもしない、うつけ者め」
蒼子は毅然と言い放つ。
「う、うつけだと……」
鳳は急に変化した蒼子の態度に戸惑い、幼子にうつけ者扱いされたという衝撃が大きく唖然としている。
何も知らぬ幼子にこのような事を言われれば普通なら腹立たしいと感じるところだが、不思議と腹立たしさや苛立ちを感じない。
まるで年長者に諭されるような感覚だ。
「今一度訊いておく。女がみんな同じように見えるのか、あんたは」
ついには貴方からあんたへと二人称が変わった。
「お前、口が悪いぞ」
鳳が子供を叱るような声音で言う。
いくら何でも年上に対する言葉遣いではない。
生意気な口調に今までは目を瞑ってきた。だがこの際、調度良いので更生させるべきかも知れぬ。
いくら可愛くてもこの歳からこの言葉遣いはいただけない。
鳳は蒼子に灸を据える事を決め、口を開く。
「蒼子、お前は少しこ……」
「さっさと質問に答える」
「……見える」
鳳の言葉は言い終える前に蒼子に阻まれ、質問の答えを催促された鳳は大人しく返答するより他はなかった。
「あのさ」
今までだらっと寝台に寝転んでいた蒼子がゆっくりと身体を起こして正座する。
ちまっとした見かけは非常に愛らしい。
「何だ」
「そこに直れ」
しかし外見に似合わない言葉が次々と飛び出す。
ついには命令口調になった事に衝撃をうけつつも命じられるがままに蒼子と向かい合うように正座をした。
「あのさ」
「何だ」
一体今度は何を言われるのだろうかと鳳は身構える。
「本当に人を好きになった事ないでしょ」
蒼子鳳を真っ直ぐに見据えて言った。
「そんな事はない。女とはそれなりに付き合いはあったし、互いにとっても良い時間を過ごせたはずだ」
鳳は反論するように言う。
「へぇ? どれくらい?」
馬鹿にしたように言う蒼子の前で鳳は真剣に指折り数え始めた。
この男、マジで顔だけかもな。
呆れて溜め息をついていると鳳の指が足りなくなる。
「もういい」
そう言うと鳳は指を折るのを止めて不満そうな顔をする。
「訊いたのは自分だろう」
「はっきり分かった。あんたは女の人を本気で好きになった事がない」
「何故そうなる」
「寝た人の数と好きになった人の数は違うんだよ」
「お、お前! 少しは慎みを覚えろ!」
「黙れ! 勘違い男!」
「か……勘違い……」
蒼子の言葉に鳳は頭に雷が落ちたのではないかと思うほどの衝撃を受けた。
本日一番の衝撃は頭上に落下し、鳳の思考を一時停止させるほど強力なものだった。
勘違い男は出歯亀のような男に使う呼称だと思っていた。
自分に気があると勘違いした男が女を追い回したり、全く恰好良くないのにそう思い込んでいたりする男に使用する言葉かと思っていた。
まさか自分がその言葉を浴びせられる日が来るとは思っても見なかった。
「本当に女の人を好きになった事がある男の人はね、そう簡単に手放したり出来ないもんなの! さっきの質問に何人が頭をよぎった? 齢七十の蔵人じゃなるまいし、あっさり手放して次に乗り換えてる証拠!」
蒼子の声に苛立ちが滲む。
腕組をして一喝する蒼子に鳳は押し黙る。
「今まで自分から関係を終わらせた事ある? あったとしても大半は相手から別れを切り出されて終わるか自然消滅でしょ」
「な、何故それを……! まさか、あの二人喋ったのか!」
鳳はいきり立って言う。
「二人はあんたの名誉に傷が付くような事言わないよ」
「なら何故……」
「だから見れば分かるって言ってんだろ」
腑に落ちない顔をする鳳に蒼子は苛立ちをぶつけるように言う。
「今までに別れを切り出されて引き留めた事ある? ないでしょ」
「向こうが別れたいと言うなら、そうする他ないだろう。相手の気持ちを考えればそれが正解だ」
「このバカ!」
「ば、バカだと……?」
「女の子達が本当に別れたがってたと思うの? あのね、彼女達はそこであんたの気持ちを試したの! 自分を引き留めてくれる事に期待してたんだよ!」
鳳は大きく目を見開く。
「そして自分の事が好きでないと確信して彼女達は去って行ったの! お分かり? 彼女達はね、最初からあんたの心が自分にない事は承知だったんだよ。その事にだって気付いてないでしょ」
「気持ちがない事を知っていた……?そんなはずはない。女はみな、私が優しくすれば嬉しそうにしていたし、愛していると言えば私も同じ気持ちだと……」
言っていた。
嘘を信じ込み、甘い顔をする女達を心の中で嘲笑していた。
「相手はね、あんたの甘い顔や言葉に騙されてあげてただけなんだよ。あんたの薄っぺらい恋に付き合ってあげてただけなの。いつかその恋が本物になってくれれば良いのにって期待してね」
女は聡い。
彼女達はすぐに鳳の心が自分にはないと気付いたはずだ。
いつかその心が自分のものになれば良いのにと期待しながら、共有する時間はとびっきり可愛く、美しく鳳の目に映るように頑張っていたのだろう。
けれどもいつまでも曖昧な関係を引き摺りたいと思わないのが女だ。
未練がなければそっと側を離れ、未練があれば賭けに出る。
別れを切り出して引き留めてくれなければ諦めるのだ。
鳳への想いを残しながら次の恋へと進もうとするのが女の強さだ。
「離れて行ってしまっても別の女がいる、替えが効く程度にしか思わないような相手は本当に惚れたとは言わないんだよ!」
「し、しかし……」
「それに惚れた女に振られた男って見ていて痛々しいぐらい絶望的な顔してる。大事にしていたからこそ他の女なんか考えられないもんだし、忘れられない。簡単に次に行こうなんて思えなくてズルズル気持ちを引き摺ってるの! なのにあんたは何? いなくなっても代わりがいるからどうって事ないんでしょ」
「……」
蒼子の言う通り、女が自分から離れても大した感傷に浸った覚えはない。
確かに、惚れていた女に袖にされた男は決まって悲壮な顔をしている。
太陽を失った空のように暗く、いつまでも湿気た顔をしている。
元気付けようとしても茫然としていて生気のない返事が返ってくるだけで見ていて痛々しい。
鳳にとって女とは替えが効くものだ。
他の男達のように女を手に入れるのに苦労を要しないので振られたとしても落ち込む事もなかった。
しかし、それが相手に対して恋をしていないという事だとは思わなかった。
女を見下していた所はあるかも知れないが一緒に過ごす時間はそれなりに楽しいと思っていたし、女が喜ぶ事をするのも楽しいと思っていた。
「本当に惚れている女に別れようなんて言われて、大人しく別れてやる男なんていないから。普通」
「本当に惚れていたらどうなるんだ?」
「みっともなく引き留めるよ。どこか自分に気に入らないところがあるのか、話しをしよう、考え直してくれないか、一度は納得したものの諦めきれなくてもう一度会いに行く根性ぐらい見せるよ」
そんな事した経験ないでしょ? と蒼子は冷めた目で鳳を見る。
そんな経験は鳳にはない。
そうまでして引き留めたいと思った女はいなかった。
「本当の恋を知らないくせに女を語らないでくれる? 目障りだから」
打ちひしがれる鳳に蒼子がとどめを刺した。
鳳は情けない気持ちで一杯だった。
何故、子供に恋愛について悟られなければならないのだ。
酸いも甘いも幼い少女よりはずっと自分の方が知っているはずだ。
しかし、蒼子の言葉は一蹴出来ない説得力がある。
こいつ……本当に子供なのだろうか……?
本当の恋をした事がないと指摘され、女達とは上手く付き合っていたと思っていたと思っていたのに女達は自分の嘘を見抜いていたと言う。
女と男の双方の視点から見たものを語る少女はまるで恋愛経験豊富な年頃の娘のようだ。
鳳の中の疑問が大きく膨らむ。
鳳が悩まし気な表情で考えていると蒼子と視線がぶつかる。
「叱られた犬みたいにならないでくれる?」
「犬……」
酷い言い草だ。
大人の、しかも宿主に対しての扱いではないだろう。
しかしそんな酷く無礼な態度も蒼子ならば許せてしまうのは何故だろうか……?
疲れているのか……いや、違うな。
「寛容な心持ちの私に感謝しろ」
「は? 聞こえなかった。もう一度言って?」
「聞き流してくれ」
不愉快そうにだと言わんばかりに睨まれた。
「……大丈夫」
蒼子が小さく呟く。
蒼子の小さな手が鳳の頬に伸びる。
短い腕では鳳まで届かなそうなので鳳は気を利かせて蒼子を抱き寄せて膝の上に乗せる。
座りやすい体勢を鳳の腕の中で確保し、蒼子は改めて鳳に視線を合わせる。
「同じように見えるって言ったよね」
「まぁな」
鳳は力なく答える。
今まで無意識に女を見下していた事や女の気持ちを見抜けていなかった事を蒼子に指摘され精神的に打撃を受けた鳳は気まずそうに視線を泳がす。
「同じように見えてもその中で必ず特別だと思える人が現れる。貴方が心底手放したくないと思える人がね」
蒼子の言葉に鳳は息を飲んだ。
「そして貴方の事を支えたいと思ってくれる人もね。貴方の側で、貴方の幸せを願ってくれる人がね」
蒼子の言葉が鳳の胸に沁みるように入り込む。
予言するかのような、まるで決定事項であるかのように蒼子は告げる。
その声は強い確信に満ちていた。
「例え千年の恋が一瞬で醒めてしまうような酷い男の貴方でも」
「……持ち上げて落とすな……」
「本当の貴方を見てくれるって事だよ」
悪い意味じゃない、と蒼子は言う。
「例え女を見下してても。口が悪くても」
「もういい……分かったから」
鳳は蒼子の小さな頭の上に顎を乗せる。
「口・が・悪・い・のは・お・ま・え・も・だ・ろうが!」
「痛いっ、痛いっ!」
鳳が何か言う度に鳳の顎が蒼子の頭にガンガンぶつかり、痛みで蒼子が悲鳴を上げる。
「痛い! 何すんだバカ!」
蒼子は自分の頭上から鳳の顎を退けて、攻撃された場所を手で労わりながら鳳を睨む。
「悪い子にはお仕置きが必要だろう」
「悪い事なんかしてない!」
「口が悪い事がまず問題だ」
「私は良いんだよ! それよりも素行が悪くて柊さんと椋さんに心配かけてるあんたの方が問題でしょ!」
ぎくっと鳳は身体を強張らせる。
「……これは私が口を挟む問題じゃないとは思うけど……」
先程と打って変わって大人しくなった蒼子は歯切れ悪く口を開く。
「……どんな事情があるかは分からないけど、一緒に過ごしていて楽しい時間よりも苦痛を伴う時間の方が上回るなら……その関係は終わらせるべきだと思う」
真剣な表情で蒼子は言った。
何の話をしているのかも鳳はすぐに察した。
「相手がどれだけ身分が高いのか、袖にすれば問題が起こるほどの相手なのかは分からない。けど、あの二人は理解してくれる。貴方が苦しむのはきっと望まない」
凜抄の事を話したのだろうか? いや、あの二人は子供にそんな大人の事情を話したりはしないだろう。
「人はみなが正と負の感情を持っている。その二つの気を均等に保つ事で人は穏やかでいられる。好きな相手との触れ合いはお互いの良い気を交換し、気持ちを安定させより良い関係を築く事が出来るもの。けど、一方に嫌悪の感情がある時、正負の均衡が崩れ、負の感情が大きくなる」
「負の感情が大きくなるとどうなる?」
「言わなくても分かるでしょ。あんたみたいに心が疲弊すんの」
気持ちの伴わない行為で得るものはないと蒼子は言う。
「心も身体も疲弊する。減るもんじゃないなんて言うクソ野郎がいるけど、減るの。心がすり減るの。だからお互いが仕事だ、遊びだと割り切れないならそんな関係は続けるべきじゃない」
蒼子の言葉に鳳は溜め息をついた。
自分で自分に呆れてしまう。
蒼子の言う通りだと思う。
望んでもいない関係は身も心も削ってしまうのだ。
今まで女といて苦痛を伴う事がなかったのは彼女達が引き際を心得て自分から離れてくれたからだろう。
そのままズルズルと関係を続けていれば彼女達も自分も苦しい思いをしたに違いない。
自分の心を守る為、不毛な恋を終わらせ次に進もうと鳳を切り捨てた女達は賢い。
無知だったのは自分だけか……。
こんな幼い子供に、そんな事を教わるとは思わなかった。
「だからホイホイ女と寝るなって柊さんや椋さんに言われたでしょ」
小言を言う母親のような口調で言う。
内容は母親の小言ではないが。
こんな下世話な小言を言う母親などいまい。
「しかし何故、見て来たかのように……」
またしても蒼子に言い当てられてしまう。
知られたくない過去も自分が知らない事実さへも蒼子なら知っていてもおかしくないように思う。
感傷にさえ浸らせてくれない蒼子に鳳は本日何度目かの溜め息をついた。
寝室にある鏡の前で髪を櫛で梳いていた蒼子に鳳の声が掛かる。
「……今日は出掛けない」
「出ないのか?」
「うん」
蒼子は鏡に映った鳳の姿を盗み見た。
左目に眼帯をした鳳の顔は昨日よりはいくらかマシだが疲労の色は消えていない。
どうせ外出すれば一緒に来るつもりだ。
蒼子を抱いて歩くので身体も休まらない。
この男には休養が必要だ。
「ならば、休むとしよう」
そうしてくれ。
寝室で休むも良し、息抜きに一人で出かけるも良し。
誰にでも一人の時間は必要なのだ。
ここ最近、鳳は自分の時間を蒼子の為に使ってくれている。
加えて、先日の夜は女の所へ行って疲労困憊で朝帰りしてくる。
疲労も溜まる。
そろそろ息抜きが必要な頃合いだろう。
蒼子が櫛を懐にしまうのを見計らい、鳳が蒼子の身体を抱き上げる。
「何?」
「寝る」
抱きかかえて寝台に移動して靴を床に転がす。
「ご自由にどうぞ」
少し前に起床して朝餉を済ませたばかりだ。
柊と椋は出掛けてしまい、店番かと思われた鳳は今日は休みにすると言う。
休むなら自由に過ごせば良い。
しかし何故私が二度寝に付き合わなければならないのか。
「たまには付き合え。いつもは私が付き合っているのだ。それにお前も眠いのだろう?」
「……」
図星だ。
蒼子は眠い日が続いている。
「熱はないな……慣れない生活に疲れたか?」
「別に……眠いだけだよ」
確かに、日に日に身体は重くなっているのを感じる。
何をしてもすぐに疲れてしまい、睡魔が襲って来る。
蒼子は疲労や睡魔など立て続けに襲って来る敵との戦いを余儀なくされているのだ。
態度には出さないように気を配っていたのだがそれを見抜かれて言い返す事も出来ず、結局は鳳の隣に並んで寝転がることになった。
水鏡を視れば仲間の居場所はすぐに捜し出す事が出来る。
しかし今の蒼子は一日起きているのがやっとの状態で力を使えば確実に倒れてしまうのは目に見えている。先日、天功の元へ行った際に椋の腕を振り切って川に飛び込めば良かったと後悔していた。
蒼子の力が弱まれば弱まる程、仲間が蒼子を探しにくくなるし、鳳達に余計な心配をさせてしまう。
そう考えると余計な力は使わず、じっと仲間の到着を待つ方が懸命だ。
早く来て欲しい。
相談したい事もある。
何より、こんな風に何日経っても現れないと流石に心配だ。
事故や変な事件に巻き込まれてはいないだろうか……。
ぱっと見ると人ウケしそうな連中なのだがどうにも人当りがよろしくない為、余計に心配だ。
胸の奥がざわざわして落ち着かない。
このまま少し寝てしまおうかしら。
ざわつく胸の音を宥めるように身体を丸めて目を閉じる。
「こちらを向け」
すると背後から声が掛かる。
わざわざ背を向けて横になったのに向き合うように身体を動かされた。
「……何なの?」
沈みかけていた意識が引き戻された。
「別に」
目の前に整った鳳の顔がある。
以前にも似たような状況もあったが、その時は鳳の寝顔を眺めていただけだった。
しかし今は鳳が蒼子を眺めている。
自分の腕を枕にして空いた手で蒼子の頭を撫で、髪を梳いている。
それが心地良くて蒼子は無意識に目を細めた。
近い……。
いつも鳳に抱かれて歩いているので距離は常にゼロ距離なのだが。
蒼子は何故か気恥ずかしくて鳳になかなか視線を合わせられずにいた。
ふと蒼子の視界に端整な顔を一部隠している眼帯が目に入る。
「その右目、どうしたの?」
「ん? これか?」
「怪我?」
蒼子は何気ない疑問を口にした。
「何だ、気になるのか?」
「まぁ……気になるっちゃ気になる」
何か複雑な理由があるのではないかと想像したが、鳳の声は明るい。
それどころか何故か嬉しそうに目を細める。
「数年前に右目の視力をほとんど失った。突然な。両目を使うよりも左目だけで見る方が都合が良いから右目は眼帯で覆っているのだ」
「そうなんだ……左目の視力は?」
何かの病気だろうか……?
でも病気が原因なら両目とも視力を失う事の方が多い。
目が悪いように感じた事はなかったがもしかしたら左目も悪いのだろうか?
「かなり遠くまで見える。昔から視力には自信があったんだが」
「顔より?」
「何だ、その歳でもう男の顔に興味があるのか?」
くっくと喉を鳴らして口元に笑みをうかべた。
「見ているなら自分好みの顔が良いに決まってるじゃんか。年齢関係なく女は整った顔が好きだよ」
結婚する相手はともかく根っから美男子が嫌いだと言う女は極稀だ。
「お前の好みなのか? 私の顔は」
「え……」
好み……?
端整な顔立ちだとは思う。
美人も恥じらうほどの美しい容貌はなかなかお目に掛かれないだろう。
ただ、好みかと問われれば深く考えた事がないので何とも言えない。
蒼子が返答に困っていると鳳の顔が不機嫌そうに歪む。
「何だ、違うのか? お前はどんな顔が好きなんだ?」
「……あんまり考えた事ない。男の人とはそんなに会わないし」
「そうか」
鳳は納得した表情で頷く。
「じゃあ、貴方はどんな女の人が好きなの?」
鳳の持つ女の影がふと脳裏によぎった。
先日は随分げっそりとして朝帰りをしてきたようだが肉体的疲労が原因なのか、それとも精神的疲労が原因なのか……。
精神的疲労の方が大きいように感じた。
「気になるのか?」
意地悪そうな笑みを浮かべ鳳を見て後悔した。
「何となく……」
訊いたのは成り行きだ。
もの凄く興味がある訳でもない。
しかし、この言い方では私が鳳に興味があるみたいではないか。
「女など皆同じようなものだ。大して変わらぬ」
鳳は興味なさそうに答えた。
「……は?」
予想外の返答に蒼子は口をあんぐりとさせる。
何となく期待を裏切られたかのような感覚に陥り、蒼子はがっくりと肩を落とした。
それと同時に胸の中でふつふつと怒りのようなものが込み上げてくる。
「ねぇ、女の人が嫌いなの?」
「好きだが」
「本当の女好きはね、女は皆同じだなんて言わない。一人ひとり違う魅力があってみんな可愛いって言うの」
「毎回思うが、お前はどこでそんな事を見聞きして……お前の周りの大人は一体、子供に何を吹き込んでいるのだ」
教育上良くない、と鳳は呟く。
「女がみんな同じに見えるの?」
「あぁ……大して違わぬだろう? あいつらは金とそこそこ顔が良ければ誰にでも良い顔するぞ」
蒼子は無意識に眉間にしわを寄せ、子供には似つかわしくない表情を作る。
「恋愛最初は見た目からだからしょうがないでしょ」
「まぁ……そうだが」
「大体、男だって同じだろう。少し可愛くて色っぽければ人妻にだって熟女にだって鼻の下伸ばすし、目で追いかける。見た目に関して言えば男の方がうるさい」
「それは……」
男の習性を的確に突かれ、鳳は言い返す事が出来ずに視線を宙に彷徨わせる。
「ふん、貴方の台詞は女を馬鹿にしてる男の言葉だ。偉そうに宣って自分の浅はかさに気付けもしない、うつけ者め」
蒼子は毅然と言い放つ。
「う、うつけだと……」
鳳は急に変化した蒼子の態度に戸惑い、幼子にうつけ者扱いされたという衝撃が大きく唖然としている。
何も知らぬ幼子にこのような事を言われれば普通なら腹立たしいと感じるところだが、不思議と腹立たしさや苛立ちを感じない。
まるで年長者に諭されるような感覚だ。
「今一度訊いておく。女がみんな同じように見えるのか、あんたは」
ついには貴方からあんたへと二人称が変わった。
「お前、口が悪いぞ」
鳳が子供を叱るような声音で言う。
いくら何でも年上に対する言葉遣いではない。
生意気な口調に今までは目を瞑ってきた。だがこの際、調度良いので更生させるべきかも知れぬ。
いくら可愛くてもこの歳からこの言葉遣いはいただけない。
鳳は蒼子に灸を据える事を決め、口を開く。
「蒼子、お前は少しこ……」
「さっさと質問に答える」
「……見える」
鳳の言葉は言い終える前に蒼子に阻まれ、質問の答えを催促された鳳は大人しく返答するより他はなかった。
「あのさ」
今までだらっと寝台に寝転んでいた蒼子がゆっくりと身体を起こして正座する。
ちまっとした見かけは非常に愛らしい。
「何だ」
「そこに直れ」
しかし外見に似合わない言葉が次々と飛び出す。
ついには命令口調になった事に衝撃をうけつつも命じられるがままに蒼子と向かい合うように正座をした。
「あのさ」
「何だ」
一体今度は何を言われるのだろうかと鳳は身構える。
「本当に人を好きになった事ないでしょ」
蒼子鳳を真っ直ぐに見据えて言った。
「そんな事はない。女とはそれなりに付き合いはあったし、互いにとっても良い時間を過ごせたはずだ」
鳳は反論するように言う。
「へぇ? どれくらい?」
馬鹿にしたように言う蒼子の前で鳳は真剣に指折り数え始めた。
この男、マジで顔だけかもな。
呆れて溜め息をついていると鳳の指が足りなくなる。
「もういい」
そう言うと鳳は指を折るのを止めて不満そうな顔をする。
「訊いたのは自分だろう」
「はっきり分かった。あんたは女の人を本気で好きになった事がない」
「何故そうなる」
「寝た人の数と好きになった人の数は違うんだよ」
「お、お前! 少しは慎みを覚えろ!」
「黙れ! 勘違い男!」
「か……勘違い……」
蒼子の言葉に鳳は頭に雷が落ちたのではないかと思うほどの衝撃を受けた。
本日一番の衝撃は頭上に落下し、鳳の思考を一時停止させるほど強力なものだった。
勘違い男は出歯亀のような男に使う呼称だと思っていた。
自分に気があると勘違いした男が女を追い回したり、全く恰好良くないのにそう思い込んでいたりする男に使用する言葉かと思っていた。
まさか自分がその言葉を浴びせられる日が来るとは思っても見なかった。
「本当に女の人を好きになった事がある男の人はね、そう簡単に手放したり出来ないもんなの! さっきの質問に何人が頭をよぎった? 齢七十の蔵人じゃなるまいし、あっさり手放して次に乗り換えてる証拠!」
蒼子の声に苛立ちが滲む。
腕組をして一喝する蒼子に鳳は押し黙る。
「今まで自分から関係を終わらせた事ある? あったとしても大半は相手から別れを切り出されて終わるか自然消滅でしょ」
「な、何故それを……! まさか、あの二人喋ったのか!」
鳳はいきり立って言う。
「二人はあんたの名誉に傷が付くような事言わないよ」
「なら何故……」
「だから見れば分かるって言ってんだろ」
腑に落ちない顔をする鳳に蒼子は苛立ちをぶつけるように言う。
「今までに別れを切り出されて引き留めた事ある? ないでしょ」
「向こうが別れたいと言うなら、そうする他ないだろう。相手の気持ちを考えればそれが正解だ」
「このバカ!」
「ば、バカだと……?」
「女の子達が本当に別れたがってたと思うの? あのね、彼女達はそこであんたの気持ちを試したの! 自分を引き留めてくれる事に期待してたんだよ!」
鳳は大きく目を見開く。
「そして自分の事が好きでないと確信して彼女達は去って行ったの! お分かり? 彼女達はね、最初からあんたの心が自分にない事は承知だったんだよ。その事にだって気付いてないでしょ」
「気持ちがない事を知っていた……?そんなはずはない。女はみな、私が優しくすれば嬉しそうにしていたし、愛していると言えば私も同じ気持ちだと……」
言っていた。
嘘を信じ込み、甘い顔をする女達を心の中で嘲笑していた。
「相手はね、あんたの甘い顔や言葉に騙されてあげてただけなんだよ。あんたの薄っぺらい恋に付き合ってあげてただけなの。いつかその恋が本物になってくれれば良いのにって期待してね」
女は聡い。
彼女達はすぐに鳳の心が自分にはないと気付いたはずだ。
いつかその心が自分のものになれば良いのにと期待しながら、共有する時間はとびっきり可愛く、美しく鳳の目に映るように頑張っていたのだろう。
けれどもいつまでも曖昧な関係を引き摺りたいと思わないのが女だ。
未練がなければそっと側を離れ、未練があれば賭けに出る。
別れを切り出して引き留めてくれなければ諦めるのだ。
鳳への想いを残しながら次の恋へと進もうとするのが女の強さだ。
「離れて行ってしまっても別の女がいる、替えが効く程度にしか思わないような相手は本当に惚れたとは言わないんだよ!」
「し、しかし……」
「それに惚れた女に振られた男って見ていて痛々しいぐらい絶望的な顔してる。大事にしていたからこそ他の女なんか考えられないもんだし、忘れられない。簡単に次に行こうなんて思えなくてズルズル気持ちを引き摺ってるの! なのにあんたは何? いなくなっても代わりがいるからどうって事ないんでしょ」
「……」
蒼子の言う通り、女が自分から離れても大した感傷に浸った覚えはない。
確かに、惚れていた女に袖にされた男は決まって悲壮な顔をしている。
太陽を失った空のように暗く、いつまでも湿気た顔をしている。
元気付けようとしても茫然としていて生気のない返事が返ってくるだけで見ていて痛々しい。
鳳にとって女とは替えが効くものだ。
他の男達のように女を手に入れるのに苦労を要しないので振られたとしても落ち込む事もなかった。
しかし、それが相手に対して恋をしていないという事だとは思わなかった。
女を見下していた所はあるかも知れないが一緒に過ごす時間はそれなりに楽しいと思っていたし、女が喜ぶ事をするのも楽しいと思っていた。
「本当に惚れている女に別れようなんて言われて、大人しく別れてやる男なんていないから。普通」
「本当に惚れていたらどうなるんだ?」
「みっともなく引き留めるよ。どこか自分に気に入らないところがあるのか、話しをしよう、考え直してくれないか、一度は納得したものの諦めきれなくてもう一度会いに行く根性ぐらい見せるよ」
そんな事した経験ないでしょ? と蒼子は冷めた目で鳳を見る。
そんな経験は鳳にはない。
そうまでして引き留めたいと思った女はいなかった。
「本当の恋を知らないくせに女を語らないでくれる? 目障りだから」
打ちひしがれる鳳に蒼子がとどめを刺した。
鳳は情けない気持ちで一杯だった。
何故、子供に恋愛について悟られなければならないのだ。
酸いも甘いも幼い少女よりはずっと自分の方が知っているはずだ。
しかし、蒼子の言葉は一蹴出来ない説得力がある。
こいつ……本当に子供なのだろうか……?
本当の恋をした事がないと指摘され、女達とは上手く付き合っていたと思っていたと思っていたのに女達は自分の嘘を見抜いていたと言う。
女と男の双方の視点から見たものを語る少女はまるで恋愛経験豊富な年頃の娘のようだ。
鳳の中の疑問が大きく膨らむ。
鳳が悩まし気な表情で考えていると蒼子と視線がぶつかる。
「叱られた犬みたいにならないでくれる?」
「犬……」
酷い言い草だ。
大人の、しかも宿主に対しての扱いではないだろう。
しかしそんな酷く無礼な態度も蒼子ならば許せてしまうのは何故だろうか……?
疲れているのか……いや、違うな。
「寛容な心持ちの私に感謝しろ」
「は? 聞こえなかった。もう一度言って?」
「聞き流してくれ」
不愉快そうにだと言わんばかりに睨まれた。
「……大丈夫」
蒼子が小さく呟く。
蒼子の小さな手が鳳の頬に伸びる。
短い腕では鳳まで届かなそうなので鳳は気を利かせて蒼子を抱き寄せて膝の上に乗せる。
座りやすい体勢を鳳の腕の中で確保し、蒼子は改めて鳳に視線を合わせる。
「同じように見えるって言ったよね」
「まぁな」
鳳は力なく答える。
今まで無意識に女を見下していた事や女の気持ちを見抜けていなかった事を蒼子に指摘され精神的に打撃を受けた鳳は気まずそうに視線を泳がす。
「同じように見えてもその中で必ず特別だと思える人が現れる。貴方が心底手放したくないと思える人がね」
蒼子の言葉に鳳は息を飲んだ。
「そして貴方の事を支えたいと思ってくれる人もね。貴方の側で、貴方の幸せを願ってくれる人がね」
蒼子の言葉が鳳の胸に沁みるように入り込む。
予言するかのような、まるで決定事項であるかのように蒼子は告げる。
その声は強い確信に満ちていた。
「例え千年の恋が一瞬で醒めてしまうような酷い男の貴方でも」
「……持ち上げて落とすな……」
「本当の貴方を見てくれるって事だよ」
悪い意味じゃない、と蒼子は言う。
「例え女を見下してても。口が悪くても」
「もういい……分かったから」
鳳は蒼子の小さな頭の上に顎を乗せる。
「口・が・悪・い・のは・お・ま・え・も・だ・ろうが!」
「痛いっ、痛いっ!」
鳳が何か言う度に鳳の顎が蒼子の頭にガンガンぶつかり、痛みで蒼子が悲鳴を上げる。
「痛い! 何すんだバカ!」
蒼子は自分の頭上から鳳の顎を退けて、攻撃された場所を手で労わりながら鳳を睨む。
「悪い子にはお仕置きが必要だろう」
「悪い事なんかしてない!」
「口が悪い事がまず問題だ」
「私は良いんだよ! それよりも素行が悪くて柊さんと椋さんに心配かけてるあんたの方が問題でしょ!」
ぎくっと鳳は身体を強張らせる。
「……これは私が口を挟む問題じゃないとは思うけど……」
先程と打って変わって大人しくなった蒼子は歯切れ悪く口を開く。
「……どんな事情があるかは分からないけど、一緒に過ごしていて楽しい時間よりも苦痛を伴う時間の方が上回るなら……その関係は終わらせるべきだと思う」
真剣な表情で蒼子は言った。
何の話をしているのかも鳳はすぐに察した。
「相手がどれだけ身分が高いのか、袖にすれば問題が起こるほどの相手なのかは分からない。けど、あの二人は理解してくれる。貴方が苦しむのはきっと望まない」
凜抄の事を話したのだろうか? いや、あの二人は子供にそんな大人の事情を話したりはしないだろう。
「人はみなが正と負の感情を持っている。その二つの気を均等に保つ事で人は穏やかでいられる。好きな相手との触れ合いはお互いの良い気を交換し、気持ちを安定させより良い関係を築く事が出来るもの。けど、一方に嫌悪の感情がある時、正負の均衡が崩れ、負の感情が大きくなる」
「負の感情が大きくなるとどうなる?」
「言わなくても分かるでしょ。あんたみたいに心が疲弊すんの」
気持ちの伴わない行為で得るものはないと蒼子は言う。
「心も身体も疲弊する。減るもんじゃないなんて言うクソ野郎がいるけど、減るの。心がすり減るの。だからお互いが仕事だ、遊びだと割り切れないならそんな関係は続けるべきじゃない」
蒼子の言葉に鳳は溜め息をついた。
自分で自分に呆れてしまう。
蒼子の言う通りだと思う。
望んでもいない関係は身も心も削ってしまうのだ。
今まで女といて苦痛を伴う事がなかったのは彼女達が引き際を心得て自分から離れてくれたからだろう。
そのままズルズルと関係を続けていれば彼女達も自分も苦しい思いをしたに違いない。
自分の心を守る為、不毛な恋を終わらせ次に進もうと鳳を切り捨てた女達は賢い。
無知だったのは自分だけか……。
こんな幼い子供に、そんな事を教わるとは思わなかった。
「だからホイホイ女と寝るなって柊さんや椋さんに言われたでしょ」
小言を言う母親のような口調で言う。
内容は母親の小言ではないが。
こんな下世話な小言を言う母親などいまい。
「しかし何故、見て来たかのように……」
またしても蒼子に言い当てられてしまう。
知られたくない過去も自分が知らない事実さへも蒼子なら知っていてもおかしくないように思う。
感傷にさえ浸らせてくれない蒼子に鳳は本日何度目かの溜め息をついた。
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