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エピローグ
46.
しおりを挟むそして四十年後──
今年三十九歳を迎える、次期ウィンドハースト伯爵ブランドン・ランチェスターは、甘やかな香りに包まれた薔薇の垣根の影に身を潜ませていた。
季節は春。
空は抜けるような青。
こんな日和に、もうすぐ四十を迎えようという男が薔薇の垣根の影に身を隠して、その先に広がる芝生の丘にたたずむ両親をのぞき見するとは、少々滑稽な話だった。
普段のブランドンは、この広大なウィンドハースト伯爵の屋敷に住んでいない。
ブランドンの父親は確かに伯爵の称号を持つ貴族かもしれない……が、ブランドンはこの旧態然とした貴族制度に辟易としていた。
時代は産業革命の波が押し寄せている。
ブランドンが生まれる直前に起こった世界大戦は、世界の流れを変えた。いまや産業は玉石混交、弱肉強食、実力のある者がその舵を握り、かつて繁栄を極めた貴族たちはその生き残りに必死になっていた。
ブランドンは、醜いほど懸命になって金持ちの娘を結婚相手に探すしか脳のない貴族連中の仲間にはなりたくなくて、もう二十年近く、南部の港町と首都を行き来して貿易ビジネスを展開している。
時には、ブランドン自ら貿易船に乗ることもあった。
仕事は順調で、やりがいがあり、結婚など考える暇もない。
だが……。
(まったく……もう八十も手前だというのに)
春風が吹き抜ける青々とした芝生の上にたたずみ、寄り添うように身を寄せ合っている両親の姿を見ると、その心もわずかながらに揺らぐことがある。
自分もいつかは、愛する妻を娶ってみてもよいのではないかと、思えてしまう。
二人の弟……エドワードとアイザックはすでに結婚して家庭を持ち、数人のいたずら好きな子供たちをもうけていた。
父の、深みある灰色の髪は、かつては鮮やかな赤茶色だったという。
そう、ちょうど、今のブランドンのような。
過去の父を知る人間がブランドンを見ると、皆が口を揃えてお父さまの生き写しだと感嘆し……わずかに恐怖が混じったような奇妙な顔をした。
ふん。
好きにするがいい。
ブランドンは他人が自分をどう思うかなど、一切気にならない豪胆な性格だった。流行りの細身な衣服に身を包むこともなければ、羽の曲がった孔雀のような馬鹿らしい帽子に散財したりもしない。
彼の生きがいはビジネスであり、それを通して得られる興奮や高揚感だった。
「あなたはどうして……こんなところにいるのですか?」
すでに六十歳の誕生日を迎えた女性のものとは思えない可憐な声が聞こえて、ブランドンは現実に引き戻された。
見つかったのかと思って急いで顔を伸ばしたが、声の主である母は、こちらに背を向けたままだった。
彼女はブランドンに気づいていない。
母は……父に話しかけているのだ。父が、彼女の息子たちの父親であることさえ、覚えていないかもしれないが……。
「あまりに美しい女性を見つけたのでね。追いかけなければと思ったんだ。上かけもなしでこんなところを歩いていては、風邪を引いてしまうよ」
父が優しく諭す。
「まあ」
母はころころと童女のように笑った。「お世辞が上手いんですね。そうやって、いつも国中の女性の気を引こうとしているんでしょう?」
「いいや、君だ。わたしには君だけだ」
低くてしわがれた父の声が答える。しかし、その口調には熱がこもっていて、年など一切感じさせなかった。
「さあ、オフェーリア。屋敷に戻ろうか。ひとりで出歩いては駄目だよ……」
父は、普段の激しい性格からは想像もできないような愛情のこもった穏やかな仕草で、母の肩にショールをかける。いつもそうだ。
四十年間。
ブランドンは、父がそうして母に尽くす姿を見てきた。
そしてここ二年ほどは、特に。
はにかんだ微笑みを見せる母の横顔は、たいていの若い女など霞んでしまうほどの美しさだ。ふたりは寄り添っていたが、そこには出会ったばかりの男女のような初々しい、わずかな距離があった。
──きっと、今の母にとっては。
「どうして、わたしの名前をご存知でいらっしゃるの?」
母は、父に尋ねた。
父は母を安心させるように、和やかな笑みを浮かべる。
「どうしてかな……。話すと長いんだが、聞いてくれるかい? 実は、わたしは君の夫なんだよ。もう、ずいぶん長い間ね」
母はきょとんとしている。その数秒後、また軽やかな声を上げて笑った。
「お世辞だけじゃなくて、冗談も上手なんですね。いったいどうやってそんな……途方もないことを考えついたんですか?」
静かに両親を見守っていたブランドンだが、だんだんと個人的すぎる場面をのぞいているような気分になって、一歩後ろに下がった。
すると、足元に落ちていた枯れ枝に踏み込んでしまい、ぱきりと乾いた音がする。
しまった──と思った時には、すでに父がブランドンの方を見すえていた。
(まずい)
彼に隠せるものは少ない。かつては歴戦の軍人でもあったという父は、隠れた人の気配や、足音に敏感だった。
立ち上がって姿を見せようとしたブランドンに、父は人差し指を立てた手を口元に持ってきて、静かにしろ……という合図をした。
ブランドン・ランチェスターは今年三十九歳を迎える。
彼を恐れるものは多い。
しかし、そんなブランドンも、父・ゴードン・ランチェスターにだけは、いまだに逆らうことができなかった。普段は愛情深い父親だが、一旦怒りに火がつくと手に負えない。ましてや最愛の妻のこととなると、彼は鬼にも悪魔にも天使にもなれた。
ブランドが了承にうなずくと、ゴードンはにやりと口の端を上げ、オフェーリアに視線を戻した。
「……確かに途方もないことかもしれないね。君は田舎の男爵屋敷を散歩していたまだ十七歳の少女で、わたしは軍人上がりの伯爵で、年も生まれもまったく違った」
ゴードンがそう説明すると、オフェーリアはわずかに瞳を揺らして、夫を見つめた。
混沌とした記憶の中に時々きらめく、真実の光を、どうにかして探そうとしているようだった。
それは多分……成功しなかったが、ゴードンは妻が努力しようとしてくれている、その事実だけで満足だったようだ。
微笑みながら、また説明を続ける。
「覚えているかい? わたしは君をこの屋敷に誘った。しかし君はなかなか手ごわくて、君の両親の家に三回は訪問してくれと、無理難題を突きつけてきたよ……」
「本当ですか?」
「ああ。もっと詳しく知りたいかい?」
「え、ええ……」
──はじまりは二年前、オフェーリアが肺炎をこじらせ、数週間ほど伏せった後のことだった。
ゴードンの献身的な看病もあり、奇跡的に一命を取り留めたオフェーリアだが、それ以後……時々、記憶があやふやになる症状がでてきた。
『まだお早いですが、脳の老化の一種でしょう……。寝込んでいらっしゃる間に、脳になんらかの損害があったのかも……』
医者はそんな説明をした。
気分のいい日は、母はいつもどおりの穏やかで優しい母だった。
父を愛し、いつも隣に寄り添い、よく笑う。
しかし、四日に一度ほど、こういう日がやってくる。その間隔も、ゆっくりとではあるが、年々狭まってきていた。
父と出会う前の、少女の頃に記憶が巻き戻され、子供や孫たちの顔や名前も覚え出せなくなっていった。
ブランドンをはじめ、兄弟も医師も、オフェーリアに専門の世話係をつけ、ある程度の隔離をすることを提案したが……ゴードンは頑としてそれを受け入れなかった。
『わたしの息が止まるまで、オフェーリアの世話をするのはわたしだ。わたしが彼女と離れることはない』
ゴードンは宣言した。
そしてそれは、今日も守られている。
記憶が曖昧になる日、時々ふらりとひとりで屋敷を出てしまうオフェーリアを、ゴードンはいつも辛抱強く、愛情深く、諭し、導き、部屋まで連れ帰る。
その献身は疑問を抱かせるほどだった。
なぜ、と。
なぜそこまで、ひとりの女性を愛せるのか、と。
ブランドンが呆然と両親の姿を眺めていると、ゴードンはオフェーリアの肩に腕を回し、過保護な仕草で彼女を抱き寄せた。あと数年で八十歳に届こうというのに、ゴードン・ランチェスターの綽々とした動きは健在だった。
「わたしが君を見捨てることはない」
ブランドンの胸中の疑問に答えるように、ゴードンは妻にささやいていた。
「……そう約束したんだ、オフェーリア。そしてそれは、わたしの願いでもある。愛しているよ、オフェーリア。今から少し、昔話をしてあげよう……」
父と母は、深く愛し合っている者同士だけができる親密さで、互いを見つめていた。
そしてふたりは肩を寄せ合いながら歩きはじめた。
ブランドンはそっと薔薇の垣根を離れ、屋敷の裏にある砂利を敷き詰めた遊歩道をあてもなく歩きはじめた。
──いつか、自分も。
あのような愛を、見つけるときが来るのだろうか? だとしたら、いつ?
(ありえないな)
自分はもう三十九になる。今まで見つけられなかったのだから、これからも見つけられないままなのだろう。
ブランドン・ランチェスターはビジネスのために生き、いずれ伯爵位を継ぐのだろうが、死後は弟か、甥っ子の一人に継承してしまえばいい。
そう思っていた。
そんな時、ブランドンは突然、細くて小さな人影が遊歩道の脇に点在する広葉樹の前に立っているのを見つけた。
最初はただの影だったものが、近づくにつれ、しっかりとした輪郭を帯びてくる。
年若い娘だ……。
ドレスを着ているが、それほど上等なものではない。
なぜか興味を惹かれて歩調を早めると、その足音に気づいた娘が、ぱっとブランドンを振り返る……。
その時だった。
ブランドン・ランチェスターの世界は時を止め、その軸を反転させた。今の今までありえないと思っていたなにかが、彼の中で動きはじめた。
それが、ブランドンと彼女の出会いだった。
【散りきらない愛に抱かれて・了】
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