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第三幕 『誤解』

33.

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 ジョセフィーヌは、豊かな黒髪に情熱的な濃い茶色の瞳をした、気さくな女性だった。
「マイケルはあれでも一応、子爵なのよ。本人はあまりそれを誇ってはいないけれど……伯爵であるお父様が借金ばかりなさるから、爵位なんて継ぎたくないといつも言っているの」
 ジョセフィーヌはオフェーリアの手を引きながら、秘密を教えるようにこそりと耳打ちした。
「あなたのご主人は伯爵ね?」
「ええ。でも、ゴードン……ウィンドハースト伯爵も、あまり爵位にはこだわらない人です。だから、ふたりは気が合ったのかもしれませんね」
「そうみたいね。ウィンドハースト伯爵のことは、何度もマイケルから聞いて、ぜひお会いしたいと思っていたのよ。もちろん、伯爵の有名な奥様にもね」
「ゆ、有名?」
 肩を並べたゴードンとマイケルが、なにかを話し込みながらベランダへ出て行くのを見送った後、オフェーリアは子爵夫人に向き直った。
 ジョセフィーヌはふふふ、と楽しそうに笑う。

「彼らのいた部隊バタリオンでは語り草だったそうよ。いわく、ウィンドハースト伯爵はいくら誘っても娼館へは近づきもしなかったとか、妻帯者の部下が行こうとすると烈火のごとく怒ったとか、夜になると毎晩、あなたからの手紙を抱きしめてひとりテントに篭っていたとか……」

 その時ちょうど、女性向けの薄めたマデイラ酒を配る給仕係がそばを通ったので、ジョセフィーヌは慣れた仕草でふたつのグラスを取った。
 そのうちのひとつをオフェーリアに渡す。

「よほどの恐妻家か、ものすごい愛妻家のどちらかだろうと噂されていたそうよ。どうも後者だったみたいね。社交界は、今夜がはじめて?」
「はい……」
「緊張しないでね。オフェーリアと呼んでもいいかしら? わたしのことは、もちろんジョセフィーヌでいいのよ」
「もちろんです、ジョセフィーヌ……ありがとうございます」
 落ち着きたくて、オフェーリアはちびりとグラスに口をつけた。
 ジョセフィーヌは気取りがなく、あけすけながらも上品で、素晴らしい話し相手だった。ゴードンと離れて心細くしているオフェーリアに、次々と、マイケルから聞いた戦場の逸話を面白おかしく話して、その場を温めてくれる。
 気がつくと出会ったばかりの伯爵夫人と子爵夫人は親友同士のように笑っていた。

「すごいですね。羨ましい……」
 オフェーリアは、笑いすぎてうっすらと目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら、そう言った。
「すごい? あら、どうして?」
「だって……たくさんの話をご存知だから。わたし……全然知らないんです。その……ゴードンはあまり当時の話をしてくれなくて……」
 ──違う。してくれないのは当時の話だけじゃない。戦場から帰ってきてから、ゴードンとオフェーリアは最初の日の朝以外、まともな会話をしていない。

 オフェーリアがうつむいてマデイラ酒の濃紫をじっと見つめていると、ジョセフィーヌは優しく、オフェーリアの肩に手を置いた。
「羨ましいのはわたしの方よ。あなたほど、戦場へ行った夫に愛されていた妻はいないのだから」
 ジョセフィーヌはきっぱりと言い切った。

 そして、多分……彼女は正しいのだろう。だから心が痛んだ。
 これだけ愛した女に裏切られた男は、どう感じるだろう……どうなってしまうだろう。
 もちろん、オフェーリアはたったの一度だってゴードンを裏切っていない。でも、事実がどうであれ、ゴードンはオフェーリアの不実を確信している。
 おまけにそれを告げたのは幼少時代からの親友で、その親友は呪われた嘘の密告を最後にこの世を去った。
 自分の胸の痛みだけではない……ゴードンの心の傷を思って、オフェーリアは沈んだ。

「でも、子爵もとてもジョセフィーヌのことを愛しています。彼のあなたを見る目でわかるもの。信頼していて、尊敬し合っているような……理想の関係に見えます」
 オフェーリアが指摘すると、ジョセフィーヌは意外にも、喜びと悲しみの混じった寂しそうな顔をした。
「まあ……。どうかしら……でも、そうね。そうでありたいわね」
「ジョセフィーヌ……?」

 もしかしたら、不用意な発言をしてしまったのだろうか?
 いくら表面上は理想の夫婦に見えても、見えない影では、どのふたりにだって障害や誤解やすれ違いがある……。
 それを理解できる程度には、オフェーリアはもう学んでいた。

「ごめんなさい、失礼なことを言ってしまったなら……」
「まあ、いいのよ! 気にしないでね。確かに昔のわたしたちは、そんな関係だったわ。今もそうでい続けようと頑張っている。でも少し……マイケルは変わってしまった気がするの。表面上は今まで通りの明るい彼でいようと振舞っているけど、心のどこかに壁を建ててしまったような……」
 オフェーリアは、ジョセフィーヌの語るひと言ひと言に心を傾けた。
 きっと苦しんでいるのは……もがいているのは……オフェーリアだけではない。それを感じた。
 ゴードンも。
 マイケルも。
 ジョセフィーヌも。
 この二ヶ月──長くて辛い二ヶ月だった。でも、まだたった二ヶ月でもある。長かった二年半を思えば、突然、元どおりの生活に戻れないのは当然なのかもしれない。

「……早く、元どおりになれるといいですね。もしかしたら、元どおりよりももっといい関係になれたら、素敵だと思います」
 オフェーリアが儚く微笑むと、ジョセフィーヌは力強くうなずいた。
「その通りだわ。お互い、頑張りましょう。伯爵は幸せ者ね、あなたのような健気な奥様を持って……」
 呑み終わったグラスを給仕係に返すと、オフェーリアとジョセフィーヌはぎゅっと手を握り合った。
 久しぶりに女同士で慰め合うのは、心の晴れる体験だった。
 ゴードンとマイケルはもう親しい仲のようだから、きっとオフェーリアとジョセフィーヌも仲良くなれるだろう。すべての誤解が解けたら、彼らをウィンドハースト邸に招いて、一緒に食事をしたり……会話や散歩を楽しんだり……できるかもしれない。

 そのままふたりがとりとめのない会話をしていると、バルコニーの入り口に、夫たちが現れた。
 その姿に、オフェーリアは息を呑む。
 マイケルもそうだが……ゴードンは特に……孔雀のように着飾った上流社会の人間とはまったく異質だった。誰も彼もが必死で洗練さを競っているのに、ゴードンは野生そのもので、文明を蔑視さえしている。
 そんな彼の鋭い瞳が、金の輝きを放ちながらオフェーリアを見すえる。
 オフェーリアは、ゴードンという野獣の唯一無二の獲物だった。
「ゴードン……」
 この距離からでは聞こえないはずなのに、ゴードンはそれに応えるようにまっすぐオフェーリアに向かってきた。彼の長い足を持ってすれば、一邸宅の大広間など一瞬で渡りきれる。
 気がつくとゴードンはオフェーリアの目の前に立っていた。

 ゴードンはしばらくなにも言わずにオフェーリアを見下ろしていたが、やがて彼女のドレスに擦り寄るようにすっと上半身を屈めた。
「踊ろうか」
 ぼそりとつぶやかれたゴードンの声に、驚いて目を見開く。
 耳をすませば、確かに舞踏室の方から華やかな音楽が聞こえはじめてきていた。ワルツだ。
「で、でも……」
 オフェーリアは躊躇した。
 普通、夫婦は一緒に踊らない。少なくとも最初の一曲くらいは、別の既婚者と踊るものだ。それが礼儀指導の教えだった。
「わたしと……? いいのですか? ミセス・サミュエルソンの話では……」
「君が結婚した相手はミセス・サミュエルソンではない」
 ゴードンは憮然としていたが、すでにオフェーリアの手を取っていた。
「上流階級の礼儀作法と結婚したわけでも、ましてやそれを重んじる男と結婚したわけでもない。そして……言っておくが、オフェーリア、わたしがこの期に及んで君が他の男と踊るのを許すと思っているなら……君は、わたしのことをなにもわかっていない」
 そして、ぐっとオフェーリアの腰を引き寄せて、抱擁の中に閉じ込めた。
「なにも」

 なにかが……ゴードンの中で変わっていた。
 それがマイケルとの会話のせいであろうということも……なんとなく想像がついた。思わずマイケルの方へ視線を泳がせると、彼はジョセフィーヌをリードしながら舞踏室へ向かっているところだった。
 そしてマイケルは、一瞬だけオフェーリアを振り返り、小さなウィンクを投げてよこした。
(やっぱり……)
 彼が、なにかを言ったのだ。それがゴードンを変えた。
 オフェーリアはただ、その変化が良いものであることを祈るしかなかった。

 音楽という蜜に群がる蝶のような人の群れを縫うように進み、ふたりは舞踏室の中央にたどり着いた。
 ゴードンはそのまま、すぐにオフェーリアをリードし、旋律の波にふたりの体をたゆたわせる。
 くるり。
 くるり。
 近づいて。離れて。また近づいて。
 ふたりの身長差は、一緒に踊るのに最適とは言い難かった。ゴードンは常にオフェーリアを守るために背を屈める必要があったし、オフェーリアも大きな回転をする場面になると転んでしまいそうになる。
 でも、こんなに心が躍ったのは久しぶりだった。
 曲が続くにつれ、ふたりの間に横たわる誤解も、忘れてしまいそうになった。音楽がどんどん明るく速いものになると、オフェーリアは久々に笑った。
 ゴードンも薄っすらとした笑みを浮かべた。
「君を……信じてもいいのかな……」

 そのささやきは、オフェーリアにとって二ヶ月ぶりに見る太陽だった。暗かった夜を照らす光。たとえそれが、地平線に薄っすらと浮かびはじめただけの微々たるものであっても。

「そうです……ゴードン……信じて。わたしが愛しているのも、この身を捧げたのも……あなただけです……」

 音楽の魔法が消えてしまう前に、オフェーリアは希望にすがった。
 突然、ワルツとはまったく違う動きがオフェーリアの腰をすくい取る。はっと息を呑む前に、オフェーリアの唇はゴードンの口づけにふさがれていた。
「あ……」
「今夜は……それを、証明してもらおう……」
 周囲のざわめきさえ耳に入らなかった。琥珀色にけぶったゴードンの瞳に溺れて、オフェーリアはこくりと小さくうなずいていた。

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