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第三幕 『誤解』

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 ウィンドハースト伯爵夫妻の馬車の旅は、一見、順調に進んでいたが、蓋つきの乗り物の中ではふたりの心が激しくさざめいていた。
 旅がはじまってからずっと、ゴードンはそっぽを向いて窓から外の景色を眺めていた。
 オフェーリアは逆に、そんなゴードンの横顔をじっと見つめていた。

 もちろんゴードンは妻の視線に気がついている。

 でも、気づかないふりをしている。

 どうして……?

 幸か不幸か、伯爵家の馬車は大きかったから、隣同士になって腰を落ち着けることのできる幅があるのに……ふたりは向き合って座っている。それも、対角線上に距離をとって。
(でも……)
 ゴードンはなにも言わずに進行方向向きの席をオフェーリアに譲ってくれた。
 足元には、オフェーリアの体が冷えないように、温めた煉瓦レンガが用意されていた。
 そしてスージーが教えてくれた、ゴードンの小さな秘密。
 オフェーリアの心はざわめき、ゴードンの愛と、そして彼の憤怒の間でなすすべもなく揺れた。
 多分……オフェーリアは嫌われてはいない。少なくとも『まだ』。
 なにか、オフェーリアの無実を証明できる、決定的な証拠があればいいのに……。

「け……景色をご覧になりたいなら……」
 勇気を振りしぼって、隣のからっぽな空間を指しながら、オフェーリアは切り出した。
「こちらにお座りになられたらどうですか? 進行方向に座る方が、よく見えるでしょう?」
 ゴードンは顔を上げなかった。
 ただ、頑固そうに顎を固く引き結んだ後、なにかぼそりと聞き取れない単語をつぶやいた。
「え?」
「なんでもない。気遣いは無用だ……。逆行して見える景色も、悪いものではない。過去に戻っていくようで……な」
 意味深なほのめかしをすると、ゴードンは引き続き窓の外に意識を集中する儀式じみた作業に熱中した。まるで、そうしていないと、なにか取り返しのつかないことが起こってしまうとでもいうように。
 オフェーリアはしょんぼりと下を向いた。
 今日が終わるまでは泣かないでいよう──出発前にそう決心したのを忘れそうになって、きゅっと唇を噛む。

 二時間のはずの旅は、途中にぬかるんだ道を通り抜けることになったせいで、予定よりずっと長くかかった。
 会場に着く頃には、気の短い冬の太陽は沈みかけていた。
 薄暗くなった空に抵抗するように、会場となる屋敷の内外には多くの明かりが灯されていた。ウィンドハースト邸とは趣の異なる近代的な煉瓦造りの二階建てで、玄関先はすでに招待客でごった返している。

 人の目があったからかもしれないが……馬車から降りるとき、ゴードンはオフェーリアに手を貸した。
 必要以上にぎゅっとオフェーリアの手を握り、これもまた特に必要があるわけではないのに、強くオフェーリアの腰を引き寄せる。
 ふたりの肉体が近づき、布越しに彼の熱を感じた。
「ゴードン……」
「君は……わたしの妻だ。そのことを忘れるな」
 耳元に熱っぽくささやかれた低い声に、オフェーリアはぞくっと震える。
「忘れたことなんてありません。ただの一瞬だって……」
「そうかな」
 ゴードンは、彼らしくない無気力な表情で薄く微笑んだ。
「もうなにを信じていいのかわからなくなってきた。なにを……支えにしていいのか」

 オフェーリアは、もう何年も前に、父親が今のゴードンに似た表情をした時のことを思い出した。
 体の弱かった母親が体調を崩し、何日も伏せって、どの医者に診てもらっても回復の兆しが見えなかった時……。オフェーリアとふたりきりの居間で、「どうしたらいいんだろうな」と弱音を吐いた父が、ひとり娘に切ない笑みを向けた時。
 やるせなさと、愛と。
 異なる様々なものが心の中で渦巻き、それを持て余しているような。
 あれは、オフェーリアが、女学校へ入るのを諦めた瞬間だった。

「わたしを信じてください。わたしを……支えにして」

 当時出したのとまったく同じ答えを、オフェーリアは夫にささやいた。
 琥珀色にきらめくゴードンの瞳が、刺すようにオフェーリアを見つめる。目をそらすことはできなかった。
 そして長い沈黙の後、
「今夜は……地獄のような夜になりそうだ」
 ゴードンは乾いた声で予言した。



 ふたりが会場に足を踏みいれると、入り口に棒立ちになった進行役が天井を貫きそうな声で「ウィンドハースト伯爵と伯爵夫人!」と爵位を呼び上げた。
 礼儀作法のレッスンでこういったしきたりを学んでいたとはいえ、実際に体験すると、またなんとも言えない緊張が走る。
 礼節にのっとって、オフェーリアはゴードンの腕に手袋をした手を絡ませていた。
 ──礼儀作法なんて面倒だとばかり思っていたけれど、今だけは、この習慣に感謝したい。ゴードンに触れる機会を得られたのだから。

 太陽よりも明るいのではないかと思えるほどの、大きなシャンデリアが頭上にきらめいている。
 大広間と舞踏室は着飾った男女ですでに溢れかえっていた。
 ひとりきりで鏡をのぞいていた時は、それなりに美しいと思った自分の容貌も、豪華で自信に満ちた貴婦人たちの群れに囲まれると、とたんにしぼんでいく気がした。
 オフェーリアはふたりの仲違いさえ忘れて、甘えるようにゴードンの腕にすがった。
「ごめんなさい……わたし、きっと場違いだわ。みんなこんなに綺麗なのに、わたし……わたしだけ……」
「君だけ?」
「浮いてます。みんな、わたしのことを見て驚いた顔をするもの。それから、次にあなたのことを見て、まるで同情するみたいな妙な顔をするの」
「オフェーリア……」
 ゴードンは大広間の真ん中で足を止めた。
 そして──オフェーリアの直感が正しければ──妻を抱きしめたくて仕方がないのを、必死で我慢しているようだった。
「君は確かに目立っている」
 ゴードンは淡々と指摘した。
「そう、ですよね……」
 オフェーリアはがくりとうなだれた。

「ああ、そうだ……君は目立っている。どの女も君の半分の美しささえないゆえに嫉妬し、どの男も君の夫が自分ではないことに敗北感を感じている。多分、この会場にいる成人男性の半分以上が、わたしを殺す方法を密かに考えているだろう」

 驚いて、オフェーリアは顔を上げた。
 ゴードンの表情は真面目すぎるくらいに真面目で、冗談や、からかいを言っているわけではなさそうだった。
「ご期待に添えられなくて申し訳ないが──」ゴードンは無機質に続けた。「連中の企みが成功することはない。わたしには連中を返り討ちにしてやれるだけの技量があるのでね」

 オフェーリアは、なにかを言おうとして口をぱくぱくさせた。結局、なにを言うべきか、ひらめきもしなかったけれど。
 ゴードンはそんなオフェーリアを見てため息を吐き、そのまま大広間を横切るのを再開しようとした。
 その時、突然、ふたりの背後から威勢のいい明るい声が響いた。
「ランチェスター! ゴードン・ランチェスターじゃないか! 入り口で名前を聞いて驚いたぞ。本当に来たんだな!」
 オフェーリアは驚いてさっと……ゴードンは予想していたようにゆっくりと、声の主を振り返った。
 そこにいたのは、ゴードンと同年代くらいの、明るい茶色の髪を後ろで束ねた人懐こそうな背の高い男性だった。
「マイケル・ハミルトン」
 ゴードンは短くそう返した。が、久しぶりに、ゴードンの顔にわずかな生気が宿ったのを感じた。
 男は意気揚々とこちらに近づいてきた。
「二ヶ月ぶりだな……いや、もうちょっとか経ったか。時間が過ぎるのは早いものだ。世間はもうあの呪われた戦争を忘れて、文字どおり踊り出そうとしている。いい気なものだな!」
 マイケルと呼ばれた男はゴードンに片手を差し出し、ゴードンもそれを握り返し、友情のこもった固い握手が交わされた。

 それから、マイケルは隣のオフェーリアに視線を落とした。
「そしてこちらが……君の名高い奥方だね。ついに実物に会えた。我らが部隊で、ランチェスター少将の奥方への溺愛は伝説になっている。わたしはマイケル・ハミルトン大尉です。お見知り置きを」
 と言って、ゴードンへちらりと視線を向ける。
「……ここで、レディの手の甲に口づけをするのが礼儀なんだけれど、そんなことをしたら夫君に腕を引っこ抜かれてしまうんだろうね?」
「まったくその通りだ」
 ゴードンが即答したので、オフェーリアは狼狽した。
 とりあえず、
「あの……オフェーリアです。こちらこそお見知り置きを」
 礼儀指導のミセス・サミュエルソンに教えられた挨拶をそのまま暗唱すると、オフェーリアは軽く膝を折ってお辞儀をした。
 ゴードンのうなり声と、マイケルの押し殺した笑い声が聞こえた。

 ──失礼な。この人たちは、戦場に礼儀というものを忘れてきてしまったんだわ。

 声にこそ出さなかったものの、そんな抗議を込めてキッと毅然にふたりの男を睨むと、マイケルの方がついに声を上げて笑い出した。
「想像以上に可愛らしい奥方だな! 君が抱えていたあの手紙の山も納得できる。しかもこんなに若いとは……もっと妖艶なタイプかと思っていたんだ。なんせ君は毎晩のように……」
「黙っていろ、ハミルトン」
 軍隊がそうだったからなのか、彼らはファースト・ネームでも爵位でもなく、ラスト・ネームでお互いを呼ぶ。でもそれが他人行儀にはならない。
 不思議な感じがした。
 細かいことはわからないが、舞踏会へ招待されているところを見ると、マイケルも上流社会の一員なはず……。そして、ふたりは部隊を共にした戦友なのだ。
 ──オフェーリアの知らないゴードンを知っている人だ。
「少し……ランチェスターとふたりで話をしたいんだが、いいかな?」
 オフェーリアに向かって、マイケルが慇懃に聞いてきた。
「ええ、もちろん……」
「駄目だ」
 即答したのはゴードンだった。
「オフェーリアをこの中にひとりにはできない。彼女はこれがはじめての社交界で──」
「そして、多すぎる男たちが彼女の美しさの虜になっているから、だろう? それはわかっているんだけど、そこをどうにか……そうだ!」
 マイケルは急に肩越しに振り返って、「ジョセフィーヌ!」と声を上げた。

 マイケルの視線の先、数人の貴婦人が世間話に興じている群れから、ひときわ優雅で背の高いすらりとした女性が振り返った。
 一見、気の強そうな感じがするのに、マイケルを見て微笑んだ彼女はとても優しげだった。ジョセフィーヌと呼ばれたその女性はマイケルに近づき、自然な仕草で彼の腕を取った。
「はじめまして、ジョセフィーヌよ。マイケルはわたしの夫なの」

 大胆ではあるが、同時に上品でもある、つかみどころのない魅力のある女性だった。年齢は、ゴードンやマイケルより若いが、オフェーリアよりはずっと上そうだ。
 マイケルは、ゴードンとオフェーリアをジョセフィーヌに紹介してから、妻に向けていたずらっぽい笑みを浮かべた。
「実は、こちらのウィンドハースト伯爵閣下のお話を伺いたいんだが、伯爵は可愛い奥方の行方を案じておられる。すまないが、しばらく伯爵夫人を守ってやってくれるかい?」
「まぁ」
 ジョセフィーヌはからからと笑って、仏頂面のゴードンと困惑気味のオフェーリアを交互に観察した後、
「もちろんよ。退屈な醜聞には飽き飽きしていたの。レディ・オフェーリアね。一緒に美味しい飲み物を探しに行きましょう?」
 そう言って、オフェーリアの腕に手を添えた。

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