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第三幕 『誤解』
31.
しおりを挟むその日のウィンドハースト伯爵邸は、朝から上へ下への大忙しだった。
伯爵と伯爵夫人が共だってはじめての舞踏会へ出席するのだ。馬車が磨かれ、衣装の最終確認が行われた。
会場となるのは、馬車に揺られて二時間ほどの政界の実力者の邸宅だという。
すでに二ヶ月……オフェーリアだけが使っている主寝室に届けられた舞踏会用のドレスは、オフェーリアの瞳の色が映える薄い水色のクラシカルなものだった。
襟は大胆ながらも上品な半楕円形に開けていて、肩にはあまり装飾がなかったが、袖口には柔らかいレースが幾層も重なって揺れている。スカートの広がりは控えめだったが、腰の後ろに大きなリボンが垂れていて、長く後ろに流れていた。
(綺麗……)
ゴードンとの仲がこんな状況でなければ、オフェーリアは大歓喜しただろう。そもそも、ドレス選びにだって精を出したはずだ。
でも、オフェーリアは今日まで、流されるままに過ごしてきた。
このドレスを目にしたのも今日がはじめてだった。
侍女がやって来てオフェーリアの着付けを手伝い、髪を結いはじめた。ドレスの色に合わせた白に近い淡い水色のリボンを波打つように結い込み、うなじの辺りに緩やかなシニヨンを作ってもらう。
化粧を施し、ローズウォーターで香りを足した。
鏡をのぞき込むと、若く美しい貴婦人がそこにいた。
自分は……まだ、ゴードンに愛されているのだろうか。
そんな究極の疑問が、オフェーリアの胸に広がる。
ゴードンが激しやすい男性であることを、オフェーリアは結婚前から知っていて、それを承知で彼の求婚を受け入れた。
彼の不幸な生い立ちも、それゆえにオフェーリアに強く誠実を求めていたことも、覚えている。そして、彼は戦場から帰ってきたばかりで……。
「とても、お美しいです、オフェーリア様。まるで……天使みたいです」
櫛やブラシや香料油を片付けながら、侍女がオフェーリアを賞賛した。
「ありがとう、スージー」
オフェーリアはなかば、ぼうっと無意識にそう返していた。スージーはオフェーリアより数歳だけ年上で、普段はおしゃべりとは無縁の物静かな赤毛の侍女だ。
それが、しばらくたっても、なにか言いたげにオフェーリアの斜め後ろに立っている。オフェーリアは不思議に思って振り返った。
「どうしたの? なにか、変なところがあるかしら……。素直に言っていいのよ」
スージーは真っ赤になって両手を振った。
「い、いいえ! 変なところなんて、ひとつもありません! 奥様は完璧です! ウィンドハースト伯爵が、む、夢中になるのも当然で……」
「スージー……」
胸に矢が刺さったように痛んだ。
スージーに悪気はない……多分。わかっている。
「ウィンドハースト伯爵は……もうずっと、わたしとは寝室を別にしているのよ。それを一番知っているのはあなたでしょう?」
やんわりとそう指摘したが、スージーは同じように真っ赤になったまま手を振って、続けた。
「で、でも、ロージーのところもそうなんですよ? ロージー……あたしの姉です。洗濯女の。彼女の旦那はここの庭師で、伯爵より少し前に戦争から帰ってきたんです。最初は……喜んでましたけど、夜になるとあの呪わしい戦争の悪夢を見て……一度、間違えてロージーを殴りそうになっちゃったんです。それ以来、寝台をわけています。ひと部屋しかないから、同じ部屋ですけど……」
「そんな……」
知らなかった。
自分の不幸に頭がいっぱいで、現在の城内の状況などかまっていられなかったのだ。
でも、オフェーリアの知らないところで、そんな戦争の爪痕が残っていただなんて……。
「だから、あたし……伯爵ご夫妻のところも、なにか……そんな感じの理由があるんだろうって、わかっています。心ない噂をする連中もいますけど……あたし、信じてます。それに……」
普段は無口なスージーが紡ぐ言葉は、とつとつとしていて流暢ではなかったけれど、その分ひと言ひと言に重みがあった。
「そうじゃなければ、伯爵はあんなに……奥様が、熱を、出されていた時……」
そこまで言って、スージーははっと口をつぐんだ。
オロオロと視線を泳がす侍女を見て、オフェーリアは首をかしげる。
「わたしが熱を出していた時……?」
「な、なんでもないです! なんでもありません! 言うなって、奥様には言うなって、何度も言われて……あたし……っ」
スージーは慌てて、別に乱れているわけでもない寝台のシーツを整えるふりをはじめた。オフェーリアも……そんな彼女が気の毒で、それ以上、無理に聞き出すのは気が引けた。
でも……。
でも……。
「スージーは……ウィンドハースト伯爵はまだわたしのことが好きだと……思う?」
そう、間接的にたずねた。
スージーはオフェーリアに背を向けたままぴくりと静止した。
「あ、あの……あの……あたしが、言ったって……絶対に言わないでください。絶対……」
「大丈夫よ」
オフェーリアが保証すると、スージーは肩越しにちらりと伯爵夫人を振り返り、またシーツに視線を戻した。
「奥様が伏せってる間中……伯爵は……ずっと、その、扉の前にいらっしゃったんです……。朝も、夜も。ずーっと」
「え……」
「夜は、そこの廊下で寝てました。まぁ、その、本当に寝てたかどうかは……わかりませんけど……とにかく、ずっと……この部屋の入り口から、離れなかったんです」
──現実に、なにが変わったわけではない。
ゴードンは相変わらずオフェーリアを避けていて、ハロルドの嘘を信じている。オフェーリアは寂しくて、辛くて、孤独だった。
でも。
希望は、どこかに隠れているのだろうか?
オフェーリアはそれを、探さなければいけないのだろうか……探せば、見つかるのだろうか……。厚い雪に埋もれた地面に花の種が隠れているように。
いつかまた春が来ると、信じていいのだろうか。
この愛は──ふたりは──散りきったわけではないと、信じても……。
オフェーリアは再び鏡をのぞき込んだ。
過去。
戦争。
誤解。
湖のような深い青の瞳が、鏡を通してオフェーリアを見つめ返している。一瞬、まるでそれが自分ではないような気がした。
それから、仕事を済ませたスージーが主寝室から出て行っても、オフェーリアはしばらく鏡の前に座っていた。
どのくらいの時間が経ったのだろう。でも、まだ昼になる前の、朝の遅い時間だった。
ノックの音もなく、静かに主寝室の扉が開いた。
オフェーリアはゆっくりと扉の方へ顔を向けた。扉を開けた人物も、ゆっくりとした動きで、扉枠に肩を預け、両腕を胸の前で組みながらオフェーリアを見つめている。
「ゴードン……」
ゴードンは答えなかった。
礼儀に則った黒の礼服姿は、大柄な彼には少し滑稽なほどだった。でも、レースのない白のクラヴェットを巻いた彼の首元は、男の色香に溢れている。窮屈そうに上着の中に押し込まれたたくましい上半身を……オフェーリアは知っている。
琥珀のような金色の瞳が、オフェーリアの全身を呑み込みんでいた。
「悪くないな」
ゴードンはぼそりとつぶやいた。
「あなたは……とても素敵です」
オフェーリアは諦めなかった。ゴードンの眉がぴくりと反応する。ふたりはそのまま見つめ合ったが、それ以上の会話は続かなかった。
秀でた額、彫りの深い顔立ちに代表されるゴードンの男らしい輪郭は、今もオフェーリアの心をときめかせる。
悪魔の大群の来襲を受けた後のように、ゴードンは暗い目をしていた。
その奥に、生きたままの悪魔の喉を食いちぎってしまいそうな獰猛さと、ハロルドの嘘を信じてしまう繊細さが、同居している。それがゴードン・ランチェスターだった。
オフェーリアの夫。
「玄関で馬車が待っている」
それだけ告げて、ゴードンは踵を返した。
妻を迎えに来た夫らしく、オフェーリアの腕を取ろうとはしなかった……が、オフェーリアがゆっくり近づいてくるのを、辛抱強く待っていてくれた。
ふたりは手をつながずに、でも隣り合って、馬車の待っている玄関まで一緒に歩いた。
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