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幕間 『離れていても』
26.
しおりを挟む『オフェーリア、我が妻へ
ついに二年を超える月日がわたし達を引き裂いている。
正確にはもうすぐ二年と四ヶ月……今夜で八百四十日目になる。
オフェーリア、わたしは時々、君のことは己の欲望が作った夢だったのではないかと恐怖しながら戦場で目を覚ます。いつもいつも、まるで手足をもがれるような恐怖だ。
君に会いたい。
戦況は完全に我が国が圧勝している。敵が降伏の白旗を上げるのも時間の問題と見られている。わたしはその時が待ちきれない。勝敗などもうどうでもいい。早くすべてを終わらせて欲しい。それだけだ。
君に会いたい。
わたしは疲れているのだろうか?
なるほど、わたしにかつての若さはもうない。朝から晩まで大砲の発砲音が耳をつんざく戦場で駆け回っていれば、そろそろブランデーを片手に安楽椅子に座り、豊かに燃える暖かい暖炉の前で、愛する美しい妻を胸に抱きながらゆっくり休みたいと思うようになるものだ。
君は笑うだろうか。
笑ってくれて構わないよ。君の笑い声を聞きたい。それがわたしを嘲笑するものでも、まったく構わないさ。
昨夜は君の夢を見た。
また今夜も君の姿を見られることを願いながら、筆を置く。おやすみ、オフェーリア。夢の中の愛しい妻。
ゴードン』
淡い瑪瑙色のガラスに囲われた卓上ランプの灯し火が、オフェーリアの持つ戦地からの手紙をはかなく照らし出す。手紙に使われている紙は薄く、ランプに近づけると明かりが透けて、インクの線が浮き上がった。
今朝、ウィンドハースト伯爵邸に届いたこの手紙を、オフェーリアはすでにチョーサーに五回も読んでもらっている。
「ゴードン……」
オフェーリアがささやいた夫の名は、ひとりぼっちの寝室に寂しく響いた。
いつもは、ゴードンの書き綴る熱烈な愛の言葉にオフェーリアをからかう執事も、今回ばかりは神妙な顔をして黙り込むばかりで、お得意の辛辣なコメントはひとつも残さなかった。
長い手紙ではない。
文面だけなら、比較的短い、事実を並べただけの単調なものだ。しかし、声に出して読むと、ゴードンの魂の叫びが聞こえてきそうなほど切羽詰まったものだった。
彼は本当に疲れている……。
具体的な戦場のようすをゴードンが書くことは珍しかったから、彼の任務がどれほど重いものなのか……実際に銃を担いで戦っているのか、司令官として安全なテントで座っているのか、オフェーリアには想像するしかなかった。
でも、この手紙でゴードンは、彼が大砲の飛び交う前線にいることを漏らしている。
考えるだけで胸が引き裂かれそうだった。
どれほど辛いものだろう。
どれほど怖いものだろう。
どれほど……。どれほど……。
長引く戦火に、人々や村々は辟易としはじめている。ゴードンのような将校が使える手紙の紙も薄いものに変わり、油や銀や食料の値段が高騰している。
オフェーリアは幸運だった。あらかじめゴードンが方々に様々な手を打ってくれていたおかげで、ウィンドハースト伯爵邸の暮らしはほとんど変化していない──少なくとも、経済的には。
オフェーリアが自主的に出費を控えたり、逆に近隣の村で、経営の苦しそうな店のものをまとめて買い上げてやったりはしたが、それらはあくまでオフェーリアが領主の妻として自ら進んでやったことだ。
今でも、オフェーリアはゴードンの愛に守られている。
それを毎日感じていた。でも。
「ゴードン……はやく、帰ってきて」
ツンと込み上がってきた涙は、すぐにひと筋の流れとなってオフェーリアのほおを伝った。
「わたしも……あいたい、から……」
この声が伝わればいいのに。
この身が空を飛べたらいいのに。
人はいつか、大砲を撃つ技術ではなく、愛する者の腕に風のような速さで飛び込んでいける方法を見つけるのだろうか? だとしたら、いつ?
オフェーリアは手紙を胸に押し当て、嗚咽した。オフェーリアだってゴードンに会いたい。あの低い声を聞きたい。あの皮肉っぽい表情の奥に隠された不器用な優しさに触れたい。
大きくて力強い、彼のものに貫かれたい……。
ひとしきり泣き終えると、オフェーリアは目尻を手の甲でぬぐい、ゴードンからの手紙を大切に保管しようとライティング・デスクの引き出しを開けた。
「あ……」
そして、ギクリとした。
そこには大粒のアメジストと小さなダイヤモンドを贅沢に使った細身の腕輪が収められていたのだ。
(これ……どうしよう……)
これは、ゴードンから受け取ったものではない。
ゴードンの親友である、隣の領地の伯爵家の次男……ハロルドがオフェーリアに渡したものだった。
ハロルドはゴードンと同年代であるにも関わらず、病弱なせいで徴兵を免れている男だった。加えて持病だった肺の病が最近とくに悪化していて、オフェーリアの素人目から見ても、彼は長くないのだろうと予想がついた。
このハロルドは、しつこくオフェーリアに懸想している。
最初は、戦地に行ってしまった親友の新妻を元気づけるため……他意のない友好的な訪問がはじまっただけだった。
まだ知り合いの少ない新天地だったこともあり、ゴードンとは正反対の穏やかなハロルドと楽しむ午後の紅茶とおしゃべりは、当時、心の晴れるものだった。
それが、いつしか、ハロルドはオフェーリアを誘惑しはじめたのだ。
オフェーリアに罪がなかったとは言わない。
当初、友情と誘いかけの境界線がわからず、曖昧な態度を取り続けてしまった。それがハロルドに間違った期待を抱かせる原因になったことを、なんとなく理解している。
もちろんオフェーリアは、ただの一瞬たりともゴードンへの誠実と貞節を破る気はなかった。今だってそうだ。
永遠に。
数日前、それをはっきりと告げたオフェーリアに、ハロルドは泣きながら食い下がってきた。
『わかった……君のことは諦めるよ。だけど、せめてこの腕輪を受け取ってくれ。我が家に代々伝わるものだ。未来の愛する妻へ贈るためのものだった……。しかし、どうやらわたしにそんな時間は残されていないらしいから……』
青ざめた、悲劇の英雄のような表情で、ハロルドはオフェーリアの前で崩れ落ちて懇願した。
『君が受け取ってくれないなら、わたしはこれをドブに捨ててしまう。ああ、見返りは求めないよ。受け取ってくれるだけでいいんだ……』
ハロルドは穏やかで、大抵において優しかったが、時々とても狡猾な影をちらつかせた。いつも、いつも、チョーサーの目を盗んでオフェーリアを誘惑しようとするのも、そのひとつだった。
痛々しく咳き込みながら懇願してくるハロルドに、オフェーリアは仕方なく腕輪を受け取ってしまったのだ。
──こんなことを考えるのは残酷だが、多分、ハロルドの余命は長くない。
彼が亡くなったら──神よ、ご慈悲を──そっとご家族の元へ返そう。
オフェーリアはそう思っていた。
もしオフェーリアに字が書けたら、このことをゴードンに相談していたかもしれない。
でも、オフェーリアはいつかゴードンに文字を教えてもらう約束を忠実に守っていた。
オフェーリアからゴードンへの手紙は、いつもチョーサーが彼女の口述を書き留めたものだったので、チョーサーに秘密でなにかを告げることはできなかったのだ。
意外にもチョーサーはハロルドを完全に信頼していて、時々彼とオフェーリアをふたりきりにさせても大丈夫だと考えていた。
加えて、日を追うごとに悲壮になっていくゴードンからの手紙……。
戦場で疲れ果てている夫に、心配させたくなかった。悩み事を書いて、それでなくても苦しんでいる彼の心に、さらなる負担をかけたくなかった。
(早く帰ってきて……)
オフェーリアは、その腕輪を引き出しの隅によけると、ゴードンからの手紙を慎重に前回の手紙の上に重ねた。もう数え切れないほどの手紙がここにある。そのすべてが、オフェーリアにとって、大切な大切な宝物だった。
目を閉じる。
短い祈りの一節を心の中でつぶやくと、オフェーリアは引き出しを閉めた。
(早く、あなたに会いたい……)
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