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第二幕 『蜜月』

21.

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 オフェーリアはもがき、なんとかその手から逃れようと抵抗した。
 しかし、とてもではないがオフェーリアが敵う力ではなかった。暴れようとすればするほど、きつく抱き寄せられて、身動きが取れなくなる。
「…………っ!」
 怖かった。
 わけがわからず、怒りと絶望に涙がこぼれそうになる……。しかし、その時、オフェーリアの耳元に魅惑的な低い声がささやかれた。
「悪い子だな、妻よ。勝手にひとりで寝台から抜け出したうえに、こんな場所を探索しているとは」
 ゴードン!
 オフェーリアは抵抗するのを止めた。

 同時にゴードンも、オフェーリアを拘束する力を緩める。動けるようになって、くるりと振り返ると、そこには肌けた白いシャツに寝癖のついた髪のゴードンが、片眉をつり上げながら立っていた。
 緊張から解放された安堵で、燭台を持つオフェーリアの手がふるふると震える。

「ど、どうやって……わたしがここだとわかって……」
「ここはわたしの屋敷だよ。まぁ、今は『わたし達』の屋敷だが、ここで生まれ育ったのはわたしだ。ついでに言えば、使用人のひとりが、奥様は古い城の方へふらふらと歩いて行ったと教えてくれたのでね」
「そう、でしたか……」

 オフェーリアがしょげ返ると、ゴードンは震える彼女の手から燭台を取って、横にかかげた。
 とりあえず安心したが、次にオフェーリアの心をもたげてくるのは、勝手にこんな場所へ入ってきてしまったことへの罪悪感だった。特に禁止されていたわけではないけれど、許可されたわけでもない。
 地下牢などという場所の性質から考えて……こんなふうに無断で立ち入られたくはなかったはずだ。
 オフェーリアはすがるような瞳でじっと夫を見つめた。
 彼の黄金の瞳が、ロウソクの炎に照らされて意味ありげに細められる。

「質問がありそうな顔だな」
 ゴードンは静かに言った。「それも、少なくない質問が」
「したら、答えてくれますか?」
「もちろんだとも。好奇心旺盛な我が妻に、隠せることは少ないようだから」
「勝手に入ってきてしまったことは、ごめんなさい」
 オフェーリアは素直に謝った。とりあえず、ゴードンが怒っているようには見えない。それどころか、彼の口元は楽しそうな曲線を描いていた。

「ここの床は均一でないうえに固い石畳で、かなり濡れているから滑りやすい。暗いうえに寒い。大切な妻が万一、怪我をするようなことがあっては辛いのでね、勝手に入ったことはあまり嬉しくないが……怒っているわけではないよ。城のこの部分も含め、ここは君の住まいでもあるのだから」

 実演してみせるように、ゴードンは靴のかかとで石の床をコンコンと蹴った。
 オフェーリアも足元を注意して見つめる。
 独房を探索するのに夢中で気がつかなかったが、確かにでこぼこの床は湿っていて、積った埃と水が混じってヌルヌルしていた。ここに来るまで、転んで頭を打たなかったのが不思議なくらいだ。

「ここは……地下牢なのですね」
 オフェーリアが指摘すると、ゴードンは静かに「いかにも」と答えた。

「なんのために、あるのですか?」
「わたしが造らせたわけではないよ。もし疑っているのなら」
 からかうような口調だったので、オフェーリアはつい小さく笑ってしまった。
「疑われても仕方がないような、心当たりがあるのですか? いいえ、あなたが造ったわけじゃないのは、わかっています……。でも、どうしてとってあるの?」
 ゴードンは肩をすくめた。
「時々、ぶどう酒の樽を保存したりするのにちょうどいいんだ」
「そして、使用人が悪さをしたら、ここに入れるぞと脅すためにですか?」
 冗談のつもりで言ったのに、ゴードンはどこかオフェーリアの背後へ視線を泳がせて、ぼそりと答えた。
「そういうことは、義母が得意だった。わたしの父も。その父親……つまり、わたしの祖父も。聞いた話によれば、わたしの兄がウィンドハースト伯爵位を継ぐまで、ここはそれなりに……機能していたんだよ」

 普段はじっとオフェーリアの目を見て喋るゴードンが、この時だけは目を合わせようとしなかった。
 その理由が思い当たり、オフェーリアは息をひそめた。

「まさか……お義母様や、お父様が……あなたのことまで……?」

 ゴードンは答えなかった。それが、答えだった。

「そんな……」
「過ぎたことだ。実際、夏場は涼しくて気持ちよかった。わざと義母のドレスに悪戯をして、ここに繋がれるように仕組んだくらいだ」
「ごめんなさい……知らなくて、無神経なことを」
 ゴードンは頭を振り、ゆっくりとした放漫な動きでオフェーリアに視線を戻した。
「謝らなくていい、オフェーリア。言った通り、ここに繋がれること自体はそれほど辛いとは思わなかった。嫌だったのは、この奥の独房にある趣味の悪い道具だけで」
「道具……?」
 ゾッとして、オフェーリアは最奥の独房にある……ゴードンの言葉を借りれば『趣味の悪い』……用具や設備を見つめた。
 ただ、木材や鉄や革を使っただけの器具の数々が、意思を持った不気味な怪物のように見えてくる。
 オフェーリアにその使用方法がわかるものは少ない……。
 しかし、ゴードンは身をもってその使い方を知っている、と……そういうことなのだろうか。
「まさか……ご家族があなたのことを……?」

 ゴードンは得体の知れないけぶった瞳でじっとオフェーリアを探っていた。

「わたしは義母を家族だと思ったことはないから、家族にやられたという感覚はないな。ただ、わたしは扱いにくい子供だったことは確かだ。思わず痛めつけてやりたくなるような、ね」
「そんなのは言い訳になりません。ひどいわ」
「それに、腹違いの兄はよく助けてくれた。気の弱い人だったので、義母が飽きて、いなくなってから、こっそりとだけどね……」
 それからゴードンは、ふと思い出したように続けた。
「それから隣の領地の伯爵の息子……友人のハロルドがね、こっそり合鍵を作ってここからわたしを出してくれた。兄と違って、彼はまだ生きている。落ち着いたら君にも紹介しよう」

 ゴードンの声は平静を装っていた。
 オフェーリアだって、あれだけ体を重ねて心を通わせた後でなければ、ゴードンは平然としていると勘違いしたかもしれない。
 でも。
 彼の瞳の奥には悲しみの闇があった。
 辛い半生を彼なりの方法で生き抜いてきた、勇気ある男性の、心の奥に秘められた暗闇。

 オフェーリアは思わず手を伸ばして、ゴードンの腕に触れていた。

「あなたは、とても勇気のある人だわ。尊敬します」
 一瞬だけ、腕に触れたオフェーリアの手を見下ろしたゴードンは、穏やかに微笑みながら顔を上げた。
「どうしてそう思っていただけたのかな、妻よ?」
「そんな目にあったら、きっと多くの人は心を病んでしまうわ……。人生を諦めて、死んだように生きることでしょう……。でも、あなたはこうして、まっすぐ前を向いて生きているもの。誰にでもできることではないと思います」
「へえ……」
 黄金の瞳に、鋭い輝きが宿る。
「まっすぐ、かどうかは疑問だと思うけどね。わたしの曲がった性格は、君もよく知っているだろう」
「す、少しくらいはいいんです。誰にだって欠点はあるわ。とにかく、わたしはあなたを尊敬していると言いたかったの……」

 急に、カタンと音を立てて、ゴードンが手にしていた燭台を床に置いた。
 ハッとしたのも束の間で、気がつくとゴードンの両手がオフェーリアの顔を包み、覆い被さるように目の前に立っていた。

「君はわたしの天使だ」
 ゴードンは厳かに告げた。
「……そして、君はわたしの悪魔だ。君といると、世界一の善人になって君を幸せにしてやりたいとも思うし、この心の闇をすべて解き放って、残酷に抱きつぶしてしまいたいとも思う。滑稽だな」

 言葉を失い、オフェーリアは大きく目を開いて、ゴードンを見つめた。

「それでも、わたしは『尊敬できる人』かな、オフェーリア?」

 ゴードンの表情に、はじめて会ったばかりの頃のような皮肉な笑みが浮かぶ。オフェーリアは本能で悟った。
 彼が欲しいのは、保証……安心……そういったものなのだ、と。
 たとえ彼の暗い過去を垣間見ても、オフェーリアが変わらず彼を愛し続けていてくれるという、ある種の信頼、そして自信が、必要なのだ。
 遠くない未来に、離れ離れにならなくてはならないふたりにとって、大切な一歩でもあった。

「はい。ゴードン……あなたのすべてを尊敬します」
 オフェーリアは答えた。

 彼はそのままオフェーリアの唇を奪った。息を奪い取るように激しく、魂を飲み込もうとするように深く。オフェーリアはあえいだが、反抗はしなかった。
 ゴードンのすべてを受け入れたかった。

「証拠を……見せてくれるかな、オフェーリア」
 荒い呼吸の合間に、ゴードンがそうささやいた。

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