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第一幕 『なれそめ』

14.

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 燦然と輝く数々の紀章と、将校の位を表す正肩章に飾られた軍服姿のウィンドハースト伯爵ゴードン・ランチェスター卿を前にして、平常心を保てる人間は少ないだろう。
 ましてや……なんの予告もなしに、年頃のひとり娘が家に連れ帰ってくる相手として、ゴードンはあまりにも常軌を逸していた。

「ま……まぁ、ようこそ……いらっしゃいました……」
 目をどんぐりのように丸くしたキャシーを隣に従えた母が、なんとかそう声を振り絞って客人を迎えたのを見て、オフェーリアはこれからはじまる喜劇……もしくは悲劇を思って、気を失ってしまいたい気分になった。

 オフェーリアの家の玄関先に立ったゴードンは、あまりにもそぐわなくて、小人の家を前にした大男といった風情にしか見えなかった。

「歓迎を感謝する。そう固くなる必要はない。誰も取って食いはしないよ」
 と、ゴードンは穏やかに言ったが、あまり説得力はなかった。

 玄関口をくぐる際、ゴードンは片手で二角帽子を脱いで胸元へ押し付けた。礼儀だったのか、それともそうしないと戸枠に頭が引っかかってしまうためだったのかは、わからない。
 それでもゴードンは紳士に徹した。
 まずはオフェーリアを先に通し、居間兼食堂の狭い部屋に移っても、女性陣が座るまでは立ったままでいた。
「こ、紅茶にしますか? それとも、こ、紅茶を……いえ、違いました! なにか、お、お、お酒を用意しますか?」
 キャシーの声色は裏返り、腰回りのエプロンをもじもじといじる手は小刻みに震えていた。
 オフェーリアも危機を察した……この家には食卓用ぶどう酒以外の酒は置いていない。それも酸味をふくんだ甘ったるい中級のもので、まさかゴードンのような男に堂々と供せる代物ではなかった。
 いや、それどころか、普段のゴードンがこのような席で求める飲み物は、オフェーリアなら匂いだけで酔ってしまうような強いブランデーの類だろう。

 しかしゴードンは使用人に向かって軽く首をかしげると、「紅茶を。砂糖は入れないで」と優しく答えた。

 目に見えて安堵したキャシーは、そのまま飛ぶようにして台所へ逃げて行った。

 紅茶と焼き菓子が出てくるまでのあいだ、オフェーリアの家の居間兼食堂では、オフェーリア、母のマーガレット、そしてウィンドハースト伯爵が食卓を囲んで座っていた。
 厳粛にして、緊張感をはらんだ空気に包まれながら。
「それで……ウィンドハースト伯爵、とおっしゃいましたわね? その、いったい、うちの娘と……どういう経緯で知り合いになられたのかしら……?」
 さすがに母はキャシーよりも落ち着いていた。
 もちろん声には不安がにじんでいたけれど。
「どうか、ゴードンと呼んでください」
「ま、まぁ……」
「ミス・オフェーリアとは男爵邸で一緒に食事をさせていただきました。月並みですが、彼女の……愛らしさに心を奪われましてね」
 ゴードンはちらりと緊張した面持ちのオフェーリアに視線を流して、意味ありげに微笑んでみせた。
「そんなわけでこうして、『紳士が、好ましい婦人を見つけた時に行う、ごく普通の礼儀正しいこと』をしてみようと決意した次第です」

 ゴードンにからかわれているのだとわかった瞬間、オフェーリアは顔を真っ赤に上気させた。彼は、ふたりのあいだで交わされた秘密の会話をちらつかせて、オフェーリアが慌てたり、恥ずかしがったりするのを見越して冷やかしているのだ。

 軍服姿の彼がこれほど偉丈夫に見えなければ、怒りしか感じなかったかもしれない。

 しかし実際のゴードンは、古くて野暮ったらしい食卓の椅子に座っていても、計り知れないほどの男らしさと尊厳を四方に放っていた。
 琥珀色の鈍い輝きを秘めた彼の瞳に見すえられると、いやが応にも心拍数が跳ね上がる。まるで夢の中にいるような気分だった。
 それが良い夢なのか、悪夢なのかははっきりしない。

 気丈にもマーガレットはここまでの道程などについてをゴードンに尋ね、ゴードンは感心するほど丁寧に夫人の質問に答えていた。
 しばらくすると、絵付けされた木製の盆に紅茶を乗せたキャシーが静々とやってきて、震える手で客人にカップを差し出した。
 意外にもゴードンは、
「ありがとう」
 と、キャシーに短く礼を言った。
 残念ながらキャシーはそれを冷静には受け止められず、ヒィッと細い悲鳴をあげて跳びのきそうになっていたが、それはゴードンのせいではない気がする。
 ゴードンはそれにも気を悪くするふうではなく、軽く肩をすくめてみせるだけだった。

 例によって例のごとく、前に座るマーガレットと会話をしながらも、ゴードンはつねにオフェーリアに熱い視線を送っていた。
 ふとした瞬間にふたりの目が合い、オフェーリアが息を呑むと、ゴードンは楽しげに微笑む。オフェーリアは照れて、つい子供のように下を向いてしまった。
 マーガレットは探るように目を細めて、そんなふたりの声なきやり取りを観察していた。

 ゴードンがオフェーリアに並々ならない関心を持っているのは明らかだった。そしてゴードンは、一見、見るものを怯えさせる屈強な容姿をしているが、その礼儀作法は正しく、マナーは紳士だった。
 オフェーリアがゴードンを怖がっているようにも見えない。
 それどころか、恋する乙女のように恥じらいながら、ちらちらと彼の様子を伺うその仕草には、彼への敬意と愛情のようなものがうかがわれた。
 だから、出された紅茶を呑みきったゴードンに、
「では……娘さんにこの界隈を少し案内してもらってもいいだろうか。自然が美しいと聞きましたよ」
 娘を散歩に連れ出したいことをほのめかされると、マーガレットは反対しなかった。
「そうね、オフェーリア。閣下に通りをご案内なさいな。北のはずれに遅咲きの薔薇が綺麗に咲いているわよ」

 オフェーリアは一瞬だけ助けを求めるような目で母を見やったが、優雅に席を立ったゴードンのエスコートに従い、居間を出ていった。
 優れた体躯の伯爵の横に立つと、小柄なオフェーリアはまるでドーベルマンに守られた生まれたばかりの仔猫のようだ。しかし、どういう訳か自然としっくりくる組み合わせでもあった。
「粗相のないようにね」
 マーガレットは去ろうとするふたりの背中に向けてそう忠告したが、それが娘に向けたものなのか、伯爵に向けたものなのかは判然としない。
 多分、両方だろう。

 ふたりが玄関から出ていってしまうと、台所に縮こまって身を隠していたキャシーがマーガレットの横に現れた。
「びっくりしましたね。なんていうか……不思議な殿方ですね。怖かったり優しかったり、ころころ変わるというか、全部が一緒くたになっているみたいな……」
「そうかもしれないわね」
 マーガレットはキャシーの言葉を吟味しながら、曖昧に答えた。
「でも、オフェーリアお嬢さんに首ったけなのだけは間違いありませんね。あんなに熱っぽい瞳で女性を見る殿方を、はじめて見ましたよ……」
 その指摘に関しては、マーガレットも心から同意するしかなかった。


 * * * *


 ゴードンは万華鏡のような人だと、彼の横を歩きながらオフェーリアは思った。少し角度を変えるだけで、今までとまったく違う側面が見られる。
 信じられないほど傲慢で自分勝手な人だと思えば、寂しがり屋の孤独な少年のような側面もある。オフェーリアを見つめる視線は不躾そのものなのに、母に対する礼儀は完璧だった。

 今もそうだ。

 今までの彼の言動から、オフェーリアは玄関を出た途端にゴードンに唇を奪われてしまうのではないかと危惧していた。
 それが、もう半時間近く田舎道をふたりきりで散歩しているのに、ゴードンは唇どころか指の先さえも触れようとしない。ただ、時々、歩きにくい砂利や轍があると、オフェーリアをかばうように腰の後ろにそっと手を置いてエスコートしてくれたが……それが不謹慎な触れ合いに進展することはなく。
 それを少し残念に思っている自分がいることに、オフェーリアは戸惑っていた。

 ふたりの散歩は言葉少なく、ただ互いが隣にいることを味わうためだけのようなものだった。
 オフェーリアはその静寂に心地よさを感じた。
 ゴードンもまた、同じように感じてくれているのではないかと思える、穏やかな表情をしていた。

 やがて町を一周し終わると、一軒の寂れた食堂兼宿屋タバーンの前に繋がれた目を見張るほど立派な黒馬が現れて、ゴードンはそこに近づいていった。
 艶やかなたてがみを揺らす牡馬は、ゴードンに向けて嬉しそうに首をよじった。
「それは……あなたの馬ですか? 馬に乗って来たんですか? 馬車ではなくて?」
 ゴードンは馬のおねだりに応え、首元をなでてやりながらオフェーリアに向き直った。
「その方が早いからね」
「ま、まぁ……」
「さあ、君を家まで送ろうか。今日は母上にしか挨拶できなかったが、次はお父上がご在宅の時を狙おう」

 ゴードンは言葉通りにオフェーリアを家まで送り、短い挨拶を済ますと颯爽と馬にまたがり、消えていった。
 ただ最後に、オフェーリアの耳元に「あと二回だ」とだけ、熱のこもった声でささやいて。

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