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第一幕 『なれそめ』

08.

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 その夜、オフェーリアは空が白むまで眠りにつくことができなかった。
 ひとり寝台に横たわりながら天井を見つめ、ゴードンから受けた熱い視線を思い出す。彼の声を。彼の過去を。ふたりの邂逅を。
 考えれば考えるほど、思い出せば思い出すほど、彼に対するオフェーリアの気持ちは深まっていった。

 多分、彼は寂しい少年時代を送ったのだろう。
 生母から遠く離れ、かつては自分を殺そうとしたという義理母の元で、彼自身の言葉を借りれば「使用人同然」の扱いを受けて育った。とはいえ彼の言葉遣いは無愛想だが教養を感じさせるものなので、多分、伯爵の息子としてある程度の教育は受けていたはずだ。しかし、愛情に溢れた子供時代ではなかっただろう。
 そして、その後の十年におよぶ軍隊経験。

 ウィンドハースト伯爵ゴードンが岩のように頑強で、愛想がなく、冷たい人間となったのは必然とさえ言えた。

 彼は氷の鎧をまとい、冷淡な口調と態度を武器に自身の心を守ってきた……戦士だ。

 しかし、ゴードンの氷の仮面の下には、のぞき見るだけで火傷してしまうほどの熱い炎が燃えたぎっている。あの瞳に見つめられて、それが痛いほど分かった。
 彼が人を愛するとき、きっと、その想いの深さには果てがない。ロマンチックではないかもしれないが、天地を溶かすほどの情熱を持った、一途な恋人になるのではないだろうか。
 もし……そんなふうに彼に愛されたら……。

(な、なにを考えているの? 馬鹿みたい……!)

 シーツを頭のてっぺんまで引き上げたオフェーリアは、真っ赤になってひとりで狼狽した。そんなことはありえない。期待すれば裏切られる。忘れなくちゃ。忘れなくちゃ。忘れなくちゃ……。

 明け方になってやっと訪れた浅い眠りの中で、オフェーリアは短い夢を見た。

 純白の花嫁衣装に身を包んだオフェーリアは、荘厳な教会の中央通路をゆっくりと進む。周囲にひとの気配はなかった。ただ、背の高い男性がひとり、祭壇の前にたたずんでオフェーリアの一歩一歩を見守っていた。
 オフェーリアが祭壇にたどり着くと、ぼんやりとしか見えなかったその男性の輪郭が少しはっきりしてくる。男性的なあごの線。彫りの深い顔立ち。太くてしっかりした眉。
 そして、魅惑的な琥珀色の瞳。
 手を差し出そうとすると、男はそれを掴んで素早く強引にオフェーリアを引き寄せた。薄い純白の布に包まれたオフェーリアの体が、男の胸元にぴったりと寄り添う。男はすかさず、さらに力を込めてオフェーリアを抱きしめた。
「もう離さない」
 男はオフェーリアの耳元にささやいた。
「お前はわたしの妻だ。なにがあろうと、そのことを忘れるな──」

 ゴードンの声だった。


 * * * *


 目を覚ましたとき、太陽はすでに高くのぼり、窓ガラス越しのまぶしい光を室内に投げ入れていた。オフェーリアは細かいまばたきを繰り返し、気だるげに寝返りを打つとシーツの下で伸びをして、ゆっくり上半身を起こした。

 夢を、見た気がする。ゴードンの夢を。
 でもその記憶は、明るい陽の光を浴びていると、太陽に照らされた雪の結晶のようにあっけなく溶けて消えていってしまった。どうしてだろう。ひどく重要な夢だった気がするのに、思い出せないなんて。

 仕方がないのでオフェーリアはのろのろと立ちあがり、客用の小さな化粧箪笥の上にある鏡を覗き込んだ。まだ寝間着をまとったままの自分がぼんやりこちらを見つめ返している。
 寝癖のつきやすい柔らかな金髪は、日に透かした蜂蜜のような色をきらめかせながら柔らかいウェーブを描いている。オフェーリアの瞳は深い青だ。空よりは湖を思わせるような、濃い蒼。その瞳を飾る長い長いまつ毛。小さくて少しつんとした人形のような鼻。
 いつまでも童女のような、丸みを帯びた輪郭……。

 多分、オフェーリアは醜くはない。

 それどころか、少なくともオフェーリアの暮らしている小さな社会の人間はみな、口を揃えてオフェーリアを「まるで天使のような」容姿だと褒めそやした。
 それが、ゴードンのような華やかで大きな世界に属する人にどこまで通用するかは謎だが、とにかくある程度は見られる造形だと認めてくれている……と、思いたい。彼の熱い視線を思い出すと、そんな希望に胸が膨らんだ。

 オフェーリアは寝間着を脱ぎ、白地に水色の線が入ったデイ・ドレスを着込んだ。きっとゴードンはもう出掛けてしまっているはずだ。もしかしたら日暮れを待たずに男爵屋敷を発ってしまうかもしれない。
 そうしたらもう……二度と会えない人だ。
 きっと、オフェーリアには手の届かない人。

 だから後悔はしたくなかった。これから先、夜毎よごとに、ふとした瞬間に、あらゆる時に思い出すであろうけぶった琥珀色の瞳の伯爵を、思う存分この目に、心に、刻みたいと思った。

 切ない決心を胸に一階へ降りていくと、食堂へ向かおうとしたところで叔母に会った。
 普段はうなじの辺りでシニヨンにされているだけの髪を綺麗に頭のてっぺんで固めた叔母は、上質のドレスを着込んでいたが、その瞳はどこか寝不足のようにくぼんでいた。
 オフェーリアに気がつくと、叔母はじっと姪に視線を注いだ。
「おはようございます、叔母様……」
「おはよう、オフェーリア。よく眠れましたか?」一応、質問の形をしていたが、そんなはずはないと言いたげな口調だった。「少しこちらにいらっしゃいな。話があります」
「はい……」
 緊張して、気分は沈んだが、断るわけにはいかなかったのでオフェーリアはうなずいた。

 叔母がオフェーリアを連れ込んだのは、居間の隣にある男爵の書斎だった。
 男爵はゴードンとともに出掛けてしまったのだという。叔母は入り口の扉を閉め、他の人間の影がないかどうか用心深く探してから、オフェーリアに向き直った。
 普段の叔母は優しい人だ。
 少し潔癖性のきらいはあるが、キャスリンに会うために遊びに来るオフェーリアを毎回温かく迎えてくれる。ただ今朝ばかりは……彼女にその優しさを期待するのは難しい気がした。
 せっかく娘をウィンドハースト伯爵に取り入らせようと努力したのに、彼が異様なほどの興味を示したのはオフェーリアの方だったのだから。少しばかり恨みがましい気持ちになっても、それはごく人間らしい反応だろうと思えた。オフェーリアは小言のひとつやふたつ、甘んじなくてはならない覚悟をして背筋を正した。

 しかし予想に反して、叔母は表情を崩し、オフェーリアに近づくと彼女の手を取った。
「昨夜、ウィンドハースト伯爵があなたに並々ならない興味を抱いていたのは分かっていますね?」
 オフェーリアは一瞬答えにつまった。
 答えが分からないからではなく、他人の口からまるで当然のようにそれを告げられることに、戸惑いと驚きを感じたのだ。──そこまで、あからさまだったのだろうか?

「は、はい……なんとなくは……」
「もし『なんとなく』しか分からなかったのなら、あなたの目は節穴ですよ、オフェーリア。殿方があれだけ露骨に不適切な女性への興味をむき出しにするのをはじめて見たわ。伯爵は野獣そのものでした」

 オフェーリアは再び答えにつまり、困惑の瞳で叔母を見あげた。不適切、という言葉に胸がちくりと痛む。
「伯爵は今朝、出掛ける前に主人に問いました」
 叔母の手に力がこもった。
「あなたについて、できるだけ細かく教えろと言われたそうですよ。あなたに求婚者はいるのか、実家はどこなのかということも質問されたそうです」
「それで叔父様は……答えたのですか?」
「相手は国でも指折りの裕福な伯爵ですよ。断れるはずがありません。もちろんお答えしましたとも。あなたの親に爵位がないことも、まだ一七歳であることも教えました。それでも伯爵の興味が薄れるような兆しは見られなかったとのことです。それがどういう意味か分かりますね?」
 分からない。
 なぜか、分かりたくない気がした。オフェーリアは否定に首を振った。
 叔母の目に同情があふれ、オフェーリアを憐れむような皺が額に刻まれる。

「それは……伯爵閣下はあなたを不埒な戯れの対象として狙っておられる、という意味ですよ。もし真剣に求愛や結婚を考えておられれば、あなたの身分を知った時点で諦めるはずです」

 オフェーリアの瞳孔が大きくふくらみ、一気に血の気が引いていった。
 たわむれ──。
 もし真剣なら、オフェーリアなど選ばない──。
 急に生理的な嫌悪に襲われ、オフェーリアは叔母に掴まれていた手を乱暴に引き抜いて一歩下がった。

『わたしは……身分など気にするほど紳士ではないよ』

 ゴードンの声が脳裏にこだまする。その言葉にしがみつきたい子供じみた自分と、彼はこの後すぐに身分を偽ったという事実を引き合いに出して、信じるに値しない戯れ言だったのだと納得している冷静な自分とが、心の中でせめぎ合う。
 でも、答えは分かっていた。
 オフェーリアの涙腺がつんと痛む。泣くのを我慢するために下唇をぐっと噛んだ。

「もし、そういった戯れにちたいのなら、わたくしはなにも言いません。でも、あなたはいい子だわ。いくら相手が高貴な身分とはいえ、愛人に身をやつすなどあってはならないことです。だからわたしの忠告をお聞きなさい……これ以上、あの方に近づいてはいけません」

 叔母の声がひどく遠くに聞こえた。

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