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第一幕 『なれそめ』

06.

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 居間から離れるのに成功したオフェーリアは、台所の横にある裏口からそっと外へ顔を出した。
 途端に冷たい風が吹きなぶり、オフェーリアの火照った素肌を冷ます。
 夜空を見上げると、満月にほど近い大きな月がふっくらと輝いている。オフェーリアはドレスを抱きしめるように胸の前に腕を回して、裏庭におりていった。

 ぼんやりとした月明かりと、男爵屋敷の窓から漏れるロウソクの光に助けられ、オフェーリアは散歩用の砂利道をとぼとぼと歩いた。

 例の紅葉した木はすぐに見つかり、オフェーリアはそこで静かに足を止めた。
 夜の薄闇でも分かる、見事な緋色が風にそよいでいる。日中に目にしたときは、あれほど華やかだと感じたのに、今はまるで血の色のようだと不吉なことを連想してしまった。

 濃い赤。ゴードンの赤みがかった濃い茶色の髪を思わせるような、激しさと華やかさの混じった不思議な色。

 オフェーリアの心には重い後悔がのしかかっていた。
 ──自分は、ゴードンに惹かれている。
 手の届くはずのない相手なのに。オフェーリアの純情をあざ笑った男なのに。傲慢で、人を人とも思わないような、ひどく年上の伯爵なのに。得られるもののなにもないこの気持ちは、こうして彼から離れてみても、しぼむことはなかった。
 彼に触れられた腰やほおは、まるで焼印を押されたかのようにまだ熱を持っている。
 彼から注がれたあの熱い視線は、いまだにオフェーリアをからめとって離さない。
 こんな気持ちははじめてだった……まだ、ひととなりもよく知らない、知ったとしても手の届かない相手に、オフェーリアは生まれてはじめての思慕を覚えはじめている。

(馬鹿みたい……わたし、のぼせて……)

 それとも、これはゴードン一流の手練手管なのだろうか。
 彼のような男にあれだけ熱心に視線を向けられれば、たとえどんな大人の女性でも、なんらかの動揺を感じずにはいられないだろう。ましてやオフェーリアが初心なのは誰の目から見ても明らかだ。
 だとしたらゴードンは、こうしてオフェーリアを翻弄して、なにがしたかったのだろう。
 手篭めにすること?
 オフェーリアに詳しい知識はまだなかったが、男が女に求める「とても親密な」行為というものが存在するのは知っている。女性はそれを結婚するまで差し出してはならないのだ。しかし、時には不道徳な輩もいて、その親密な行為を婚前に求めることもある……と。

 悲しくなって、オフェーリアは風に揺れる頭上の木の葉を見つめながら、ぽろりと小さなひと粒の涙を流した。

「君はよほどその木を気に入っているのか──」

 突然、後ろから声を掛けられて、オフェーリアは弾かれるように声のした方向に振り返った。
 髪の色に合わせた濃い茶色のフロックコートに、金糸の刺繍が入った同色のベストを着込んだ、いかにも伯爵然としたゴードンがそこに立っていた。オフェーリアの心はさらに重く沈んだ。
「ウィンドハースト伯爵」
「それとも、わたしのことを思い出してくれているのか、教えてくれ」
「閣下、お戯れはやめてください」

 ゴードンの髪が風になびき、後ろに撫でつけられていた前髪がいくらかひたいに垂れる。すると彼の容姿が今までより少し若く見えた。
 ゴードンは飽きもせず、はじめてオフェーリアに会った時から繰り返していることを続けた。じっと……燃え盛るような瞳でオフェーリアを見つめるのだ。今度はオフェーリアもじっと彼を見つめ返した。
 しばらくすると、ゴードンはふと片手をポケットに突っ込み、細い葉巻を取り出した。
かまわないかいウッジュー・マインド?」
 最初、なにについて聞かれているのか分からなくて、オフェーリアは目を丸くした。
 心なしか、ゴードンの顔が優しげに崩れる。
「ここで葉巻に火をつけてもかまわないかな、ミス・オフェーリア」
 安堵と、どういうわけか一抹の落胆を感じながら、オフェーリアは首を振った。
「どうぞ……外ですし、構いませんよ」

 ゴードンはにやりと皮肉っぽく微笑んでみせると、手のひら大の銀の箱からマッチを出して器用に葉巻に火をつけて、ゆっくりと最初の一服を吸い込んだ。
 たいして美味しくもなさそうな顔で煙を吹き出し、再びオフェーリアを見据える。その姿がなんとなく滑稽な気がして、オフェーリアはつい聞いてしまった。
「葉巻、吸われるんですね」
 ゴードンの片眉が高く上がる。
 紳士が葉巻を嗜むのは当然のことなのに、なぜかオフェーリアの中ではゴードンと喫煙が結びつかなかったのだ。失礼な発言をしてしまったかもしれないと慌てるオフェーリアに、ゴードンはかぶりを振った。

「普段は滅多に吸わない。ただ、外で葉巻を吸いたいという口実で席を外したのでね、少しは吸うふりをしないと」

 ゴードンがおどけた口調で言ったので、オフェーリアは日中と同じく、思わず声をあげて笑ってしまった。
 ゴードンの方も、相変わらず冷淡な感じではあるが、オフェーリアの笑顔を見て微笑んでいる。しばらくしてやっと笑いが収まった後、オフェーリアはひとつ咳払いをして、なんとか真面目な表情を作った。
「叔母の策略はやはり通じなかったんですね。あからさま過ぎたもの」
 軽く頭を振りながら、ゴードンは答える。
「君の叔母上など可愛いものだ。三十五歳の独身の伯爵でいることがどれだけ難しいか、君には想像もつかないだろう。四六時中、魑魅魍魎がわたしの首に縄をかけようと手ぐすねを引いている。わたしがただの将校だった頃には見向きもしなかった連中が、ね」

 その言葉に、オフェーリアはいくつかの事実を学んだ。
 ゴードンは三十五歳なのだ。キャスリンが言っていたとおり独身で、彼との結婚を求める女性達をあまり快く思っていない。
 そして、彼は軍人だったのだ。
 爵位も元々は受け継ぐ予定ではなかった……らしい。
 ゴードンはもう一度、まるで義務のように眉を寄せて軽く葉巻を吸い、そして夜空に向けて煙を吐き出した。オフェーリアはその仕草に見惚れた。

「でも……いつかはご結婚なさるのでしょう? せ、選択肢が増えるのは、悪いことではないのではありませんか?」
「出たな。君と、君の猫にも勝る好奇心が」
 ゴードンはうっすらと微笑んでいる。その姿は魅惑的だった。
 たくましい体つきはたしかに貴族のそれではなく、数々の修羅場をくぐった武人を思わせる。言葉遣いは丁寧ではあるが無骨で、無愛想で、華やかな社交界よりは厳しい戦場が似合いそうだった。
 ──不思議なひとだ。

「では君の好奇心を満たしてあげよう。答えは、わたしは結婚するつもりはない。だから選択肢など増えようと減ろうと、わたしの知ったことではない」

 葉巻の先端でけぶる火が、蛍のようにゴードンの手元でわずかな光を漏らしている。
 オフェーリアは下を向いた。
 頭が混乱して、どう感じていいのかはっきりしない。
 キャスリンと──もしくは他の誰かと──結婚する気がないという彼の言葉に喜んでいる自分がいる。しかし、彼に結婚の意思がないのなら、オフェーリアに対する彼の戯れはただの不純な遊び心に過ぎないのだ。
 それは悲しかった。

「少し気は強いですけど……キャスリンはとてもいい子です。叔母は良かれと思って……」
「言ったはずだ。わたしに、結婚する気は、ない」
 苛立たしげに単語と単語を区切り、ゴードンは一歩オフェーリアに向かってにじり寄った。足元の砂利が音を立てる。唐突に燃え上がった怒りが、ゴードンの全身からあふれ出るのが分かった。

「そして君は、『良かれと思って』あのロバート坊やに愛想を振りまいていたのかな、ミス・オフェーリア。今後もあの坊やの頭が胴体にくっついていて欲しかったら、わたしの目の前であの男に近づくのはやめてもらおう」

 不穏なほどざらついた低い声が、オフェーリアの横っ面を引っ叩いたような衝撃を与えた。いったいなんの権利があって、ゴードンはそんなことを言うのだろう?
 彼がオフェーリアのものではないのと同じくらいに、オフェーリアだって彼のものではない。
 突然のゴードンの怒りの炎が、オフェーリアにもわずかに移り火したのかもしれない。オフェーリアはキッと反抗的な上目遣いでウィンドハースト伯爵ゴードンをにらみつけた。
 当然ながらゴードンは、これっぽっちもひるんだりはしなかった。

「あの男が君にすり寄るたびに、どうやって殺してやろうかと考えていた。そして、忠告しよう、オフェーリア。わたしは長年戦場にいた。あの程度の坊やのひとりやふたり、素手で地獄へ送る方法をいくらでも知っている」
「あ、あなたにそんなことを言う権利は、ありません……っ」
「権利などというものは過大評価されている」
 ゴードンはしれっと続けた。「綺麗事を言っても得るものはなにもない。わたしは事実だけを言う。君が他の男に近づくのを見るだけで虫唾が走る」
「だ……っ」オフェーリアは言葉を失って、しばらく口をぱくぱくと動かした。「だからって……」
「どうするかは、君の自由だ」

 これほど傲慢な人間と会話をするのははじめてだった。そもそも会話する価値があるのだろうか? ゴードンは言いたいことだけを言い、その結果は君の好きにしろと言い捨てる。
 さらに始末の悪いことに、オフェーリアはそれでもゴードンに惹かれていた。
 だから、彼のひと言ひと言が、オフェーリアにとっては宝石のような価値があるのだ。無視はできない。背を向けることはできなかった。

 ゴードンは最後にもう一服だけ葉巻を吸って、煙をふっと横に吐き出すと、足元に捨ててブーツの先端で火をもみ消した。
不味まずい」
 と、ゴードンは短く文句を垂れた。

 その不味い葉巻を、オフェーリアと顔を合わせる口実のために吸ってくれたのだ。オフェーリアが他の男に近づくのを嫌がり、とりあえず、キャスリンと結婚するつもりはないという。
 ──悪いことばかりでは、ないのかもしれない。

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