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第一幕 『なれそめ』

04.

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 あらためて見上げるとその男は、かすかに恐怖心を覚えるほど背が高かった。
 それだけではない……男の胸板は上着の上からでも分かるほど分厚く、肩はオフェーリアの視界をさえぎるほど広かった。それにひきかえオフェーリアは小柄で、胸が大きいのをのぞけば華奢な体型だったから、この男性と並ぶとその対比はまさに大人と子供だった。
 もしくは、猛獣とその獲物。

「ありがとう……ございます」
 とりあえずオフェーリアは、葉っぱを取ってくれたことに礼を言った。他になんと言っていいか分からなかったからだ。男はじっとオフェーリアから視線を離さないでいる。
 油断していたら、魂を焼かれてしまいそうなほど熱い視線だった。
 ──喉が乾いて、足が動かない。
 相手からなにか、しゃべったり動いたりといった人間らしい反応を期待していたけれど、それらはなかなか現れなくてオフェーリアはあせった。
 まるで青銅でできた彫刻のように、その男は不動だった。

「あの……不躾な質問かもしれませんが……あなたのお名前は? この屋敷の方ではないですよね? 今日いらっしゃる予定の伯爵のお付きの方ですか?」

 もしかしたら彼がその伯爵本人かもしれないという懸念はあったものの、オフェーリアは同時にその可能性をすぐ打ち消した。そもそもオフェーリアがここにひとりでいるのは、その伯爵が屋敷に上がったからで、今は叔父夫婦やキャスリンと挨拶中のはずだ。
 次に思い浮かんだのは、この男は伯爵の警護のために雇われた従者のような者ではないかということだった。男は伯爵というよりも、軍人かなにかの……手練てだれの者に感じられた。
 男はほんの少しだけあごを引いた。

「普段のわたしは」
 さっき聞いたのと同じ、畏怖を感じさせるほどのバリトンが、今度はもっと近くからオフェーリアの耳をくすぐる。
「女から三つも質問を受けて、それに全部答えるようなことはしない」

 オフェーリアは震えて身を引こうとしたが、その男の右手が素早く回ってきて腰をぐっと掴んだ。悲鳴をあげようとする前に、男はその大きな上半身をかがめてオフェーリアの顔に迫る。
 口づけを、されるのかと思った。
 しかし男は、息がかかりそうな距離で顔をぴたりと止めると、オフェーリアの腰を掴んだまま言った。

「だが、君は特別だ。わたしの名前はゴードン。この屋敷の者ではない。伯爵の付きの者? まぁ、そんなところだ」

 それだけ言い終わると、その男はオフェーリアの腰を支える手をゆるめた。
 決して離してはいないが、ある程度、オフェーリアに逃げるという選択肢を与えるような、曖昧な触れ方になったのだ。
 オフェーリアは悲鳴をあげて逃げるべきだったのに……できなかった。
 かわりにオフェーリアは不思議な引力を彼に向かって感じた。引きつけられて、離れようとすればするほど、かえってその力が強くなるような、言い知れない熱さを。
 反抗する気にはなれなくて、オフェーリアはある程度の尊厳を保つために姿勢を正し、ゴードンに向き合った。

「そのお付きの者が、伯爵と一緒にいなくていいのですか? きっと彼は、中で叔父夫婦と歓談中でしょう?」
「君はいつもそんなふうに質問ばかりするのか?」

 ゴードンは眉ひとつ動かさず、またたきさえしないでオフェーリアに見入ったままそう聞いてきた。
 初対面の女性に対して、なんとも無作法で、無遠慮な物言いと態度だ。相手がキャスリンだったら平手打ちを食らっていただろう。しかしオフェーリアに従姉妹のような気性の激しさはなく、高慢さもなかった。
 わずかに肩をすくめて、首をかしげる。
 その仕草がどれだけオフェーリアの純真な魅力を高めるかを、まったく意識せずに。

「父はいつも、わたしの好奇心は猫にも勝ると言っています」

 ゴードンの反応は、なにか聞き取れない単語を喉の奥で転がすように鳴らす、というものだった。そして、その時はじめて彼の顔に変化が生じた。皮肉っぽく唇の片方をあげただけではあるが、微笑んだのだ。
「そうだろうな」
 それは、一般的に考えられる親しみの湧く表情ではなかったけれど、どういうわけかオフェーリアにはそれが妙に温かく感じられた。
 思わずにっこりと微笑み返してしまう。
「それで、あなたは裏庭で小娘と遊んでいていいのですか? 伯爵は屋敷の中でしょう?」
 わざとしつこく質問口調にすると、その悪戯にゴードンは笑みを深めた。

「お堅い挨拶は好きじゃなくてね。貴族同士の歓談など時間の無駄だと思っている……伯爵は勝手にやるさ。わたしが裏庭で小娘と遊んでいていいのかという質問に対しては──」
 心なしか、ゴードンの瞳に鋭い光が宿ったような気がした。
「わたしは小娘と遊んでいるつもりはない。彼女を誘惑しようとしているんだ」

 これこそまさに、うら若きレディなら悲鳴をあげて逃げなければならない瞬間だった。もしくは世慣れした大人の女なら、そんな戯れはいけませんわ、と扇でも口元に広げて優雅に受け流さなくてはいけない台詞だった。
 しかしオフェーリアは……そんな都会の流儀は一切経験したことがない。

 オフェーリアは首をのけぞらせ、声をあげて笑った。
 その笑い声は木に留まっていた小鳥を空に羽ばたかせるほどで、明るく、無邪気なものだった。ゴードンが腰を掴む手に再び力を入れたが、オフェーリアはおかしくて、それには無頓着でいた。

「ずいぶん楽しんでいただけているようで、嬉しいよ」

 ゴードンの声はあまり嬉しそうではなかったが、その瞳には男らしい精気がみなぎっている。オフェーリアはなんとか笑いをこらえながら、笑いすぎたせいで目尻に浮かんだ涙を指で拭くと、姿勢を正した。

「あなたは……」と、そこまで言って、オフェーリアはもう一度彼をからかってみたい衝動に駆られた。「いつもこんなふうに女性を誘惑するのですか?」
「普段は成功する。君には通じないようだが」

 無骨な答えが返ってきた。
 オフェーリアは再び笑い、ゴードンは彼女の腰を掴む手にさらなる力を加えた。

 パン屋の息子や仕立て屋の跡取りに誘惑らしき言葉をささやかれても、このゴードンほどに胸が踊ったことはなかった。
 もちろん彼らはまだ少年と言ってもいいほどの若さで、ゴードンは……男だ。
 あまり年齢を意識させない独特の迫力あふれる容姿ではあるが、多分、オフェーリアのひと回りは年上だろう。三十代半ば。しかも、まるで世界の機知を知り尽くしたような洗練さが彼にはあった。
 オフェーリアとは住む世界の違う男だ。

「十分成功していますよ。こんなにどきどきしたのは生まれてはじめてです」
「どうしてかな。わたしには、まったくそんな気がしないのだが」
「それは誘惑の目的がなんなのかによります。わたしがよだれを垂らしながらうっとりあなたに見惚れているかどうかといえば、それは違いますけど……でも、とてもどきどきしています」

 この時、ゴードンの心中でどんな欲望が渦巻いているのか知っていたら、オフェーリアはこれ以上彼に近づこうとはしなかっただろう。しかし運命は別の腹積りをしていた。
 オフェーリアはなにも知らなかった。

 ゴードンの片手はオフェーリアの腰を掴んだままだったが、もう片方の手がゆっくりと伸びてきて、オフェーリアのほおにそっと触れた。大きくて筋張った荒々しい手が、羽根のように軽く、優しくほおをなでる。
 体中に甘い痺れが走り、オフェーリアは呆然としてゴードンを見つめ返した。

 ふたりの視線が熱を宿し、力強くからまる。
 オフェーリアは金縛りにあったように動けずにいた。もし……もし、ここでゴードンが口づけをしようとしてきたら、オフェーリアは拒まないかもしれない。そのくらい不思議ななにかの力が、ふたりを引き寄せていた。

「君のことは、後でゆっくり誘惑させてもらうことにしよう」

 けぶるような濃厚な声でそうささやくと、ゴードンはそっとオフェーリアから離れた。
 そして、名残惜しそうな視線をじっくりとオフェーリアにそそいだ後、素早く踵を返して、散歩道を引き返していった。ゴードンの黒い外套は、彼の大股な歩行に合わせてマントのようにはためき、やがて男爵屋敷の壁の後ろの消えていった。
 オフェーリアが立ち尽くしていると、風が吹いて木の枝が揺れ、再び紅葉した赤い葉っぱがあたりを舞った。



 その後すぐに、裏口から逃げるように自分の客室へ戻ったオフェーリアは、じりじりと夕食の時間を待っていた。
 ──ゴードン。
 寝台のふちを椅子代わりにして座り、裏庭での出来事を何度も何度も繰り返し思い返しながら、ひとりでそっと彼に触れられた部分を指でなぞる。ほお。腰。
 あんな灼熱のまなざしははじめてだった。
 あんなに力強いひとは。

 肉体だけではない。ゴードンには、そのたくましい体の奥から溢れ出るもっと根本的な強さ……迫力や尊厳がみなぎっていた。
 彼は伯爵のお付きの者だという。
 その伯爵はたいした金持ちだというから、雇った警護人ゴードンも当然、相当な実力者なのだろう。貴族の歓談を好きではないと一蹴いっしゅうする彼だから、夕食に現れるかどうかは謎だ。しかし彼も人間なのだから、食事はしなくてはならないだろうし、もしかしたら貴族ではない者同士……近くの席に座れるかもしれない。
 そう思うとオフェーリアは居ても立っても居られなくなり、珍しいくらい身だしなみに気を使った。
 持ってきた中で一番のドレスを着込み、丁寧に髪をとかしてから、細いリボンを使って蜂蜜色の金髪をうなじのあたりに軽く結いあげる。
 最後に鏡をのぞきこむと、オフェーリアは少し驚いた。
 なんだか、自分が自分ではないような気がした。いつもの無邪気な少女ではなく、恋をする年頃の乙女のような……大人の入り口に立った、甘い情熱を秘めた瞳の、ひとりの女が映っている。

 夕食の準備が整ったことを知らせるベルが一階から鳴り響き、オフェーリアは鏡の前から弾かれるように立ちあがって食堂へ向かった。

「オフェーリア、どうして今まで部屋にいたの? あなたが下りてくるのを待っていたのに!」

 食堂へ足を踏み入れると、まず駆け寄ってきたのは、例のフリルだらけのドレスを着たままのキャスリンだった。そして、素早くオフェーリアの両手を握りしめ、耳元に小声でささやく。
「例の伯爵はやっぱり曲者よ。とてもじゃないけど、わたしを相手にはしていないわ。冷淡で、ひどく……ひどく傲慢なのよ……」

 正直なところ、オフェーリアはその伯爵には興味がなかった。
 ただ、ゴードンはその傲慢な雇い主に仕えているのかと、少し気の毒に思っただけだ。オフェーリアはキャスリンの肩越しに食堂を見渡した。
 えんじ色の壁紙に覆われた食堂の中央には、マホガニー材の細長い楕円形のテーブルが置かれている。
 まずそこに、叔父夫婦がふたり、向き合って座っていた。
 そして……主賓のためとおぼしきテーブルの先端に、裏庭で見かけた時よりも立派な身なりをしたゴードンが、優雅に着席していた。
「え……」
 ゴードンの瞳は、すでにオフェーリアをとらえていた。髪と同色の赤みがかった濃い茶色だと思っていた彼の目は、その時は瑪瑙のような黄金に見えた。
 見つめるというより、にらんでいるといった方がしっくりくるような強い視線で、オフェーリアを観察している。定規を飲み込んだのかと思うほどまっすぐ座っている叔父夫婦とは対照的に、ゴードンはリラックスした姿勢で、わずかに背もたれに背を預けて座っていた。
「ゴードン?」
 思わずオフェーリアがつぶやいてしまうと、キャスリンは驚いて目を丸くして、肩越しにゴードンの方へ振り向いた。

 ゴードンはにやりと唇の端を上げ、まるで放蕩貴族のような放漫さで、ゆっくりと椅子から立ち上がった。叔父夫婦が慌てて一緒に立ち上がろうとしたが、ゴードンは片手をわずかにあげ、その必要はないのだと無言の命令をくだした。
 その単純な挙動にさえ、ゴードンには他人を従わせる威圧感があった。

「ウィンドハースト伯爵、ゴードン・ランチェスターです。お見知り置きを、ミス・オフェーリア」

 ゴードンの低い声が、オフェーリアに向かって穏やかにそう告げた。

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