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プロローグ

01.

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 ウィンドハースト伯爵ゴードンは、底冷えのする北風が吹き荒れる真冬のある朝、重い足取りを引きずりながらひと月ぶりに自分の屋敷へ帰ってきた。
 ──呪われてしまえ。
 そびえ立つおのれの中世屋敷を前にしたゴードンは、このひと月……いや、この数ヶ月、ずっとたぎらせてきた暗い願望にふたたび飲み込まれていった。

 呪われてしまえばいい。
 すべて燃え崩れて灰となり、風に吹かれて消えてしまえばいい。この屋敷も、この身も、いまだに散りきらないこの想いも。

 ウィンドハースト伯爵ゴードンの赤みがかった濃い茶色の髪は、普段は貴族の端くれらしく上品に後ろになでつけられていたが、今はまるで浮浪者のようにひどく乱れきっている。
 放浪中、なんどか着の身着のまま決闘をしたので、元は美しかった漆黒の外套はすっかりすり切れ薄汚れていた。

 ゴードンは陰鬱に目を細めておのれの屋敷を見上げた。
 かつて王家にゆかりのあった者が隠居のために建てたという石造りの中世屋敷は、五代前のウィンドハースト伯爵が買い取るまでは幽霊さえも怖れをなして近づかないような荒れようだったという。それを大改築した上に、長年にわたって数度の増築を繰り返し、城壁や堀など時代に合わなくなった部分を取り壊したために、独特の迫力を放つ珍しい建築物となっていた。
 この屋敷を見てどう思うかは、見る者によって大きく異なった。
 計算された複雑な造形に見惚れる者は多い。しかし、それと同じくらいの数の人間が、この屋敷は威圧的すぎると萎縮したし、なかには倦厭する者さえいた。
 そう、この屋敷はまるで、ゴードンそのひと、そのもののようだった。

 ゴードンが敷居をまたぐと、突然の主人あるじの帰還に屋敷中が慌てふためいた。
 広間の暖炉に火が起こされ、ゴードンは必要ないと断ったのに、あちこちにロウソクが灯され、スープやお茶が用意されてざわめいた。
 その歓迎は奇妙なものだった。
 屋敷内を行き来する誰もが、とにかくゴードンの注意を引かないように必死だった。頭を低く下げ、足音が響かないようにこそこそと歩き、挨拶をする際でさえ顔をあげようとしない。
 確かにゴードンは冷淡で皮肉屋で、おまけに癇癪持ちの性格で、みなから怖れられていた。
 ゴードンに親愛の情を抱いてくれているのは、彼が生まれた当初からずっとウィンドハースト伯爵家に仕えている筆頭執事のチョーサーくらいなものだ。他の召使いはそろって『触らぬ神に祟りなし』とばかりに、できる限り遠巻きにゴードンに仕えている。
 しかしその朝は、そのチョーサーでさえもゴードンによそよそしく、呼ばれない限りどこかへ隠れていて姿を現さなかった。
 ゴードンの苛立ちはすぐに募っていった。
 長旅帰りの伯爵の機嫌を取るため、召使いが急いで温めたブランデーを、ゴードンはまるで水のように一気に飲み干した。
「チョーサー! 今すぐその尻をここへ持ってこい!」
 大広間。暖炉で燃え盛りはじめる炎を前に、ゴードンは叫んだ。
 凍りかけてパリパリと音を立てていた黒革の手袋が、暖炉の火のおかげでやっと柔らかさを取り戻している。それと同じように、屋敷に足を踏み入れるまで感じていた重い不安と深い怒りが、ゴードンの中でゆっくり懐柔されていくような気がしていた。

 やり直せるかもしれない。
 誰にでも……誰にでも、一度や二度の間違いはあるものだ。

 ゴードンはこのひと月の旅で、時には命さえも危険にさらすような無茶にその身を晒し、どうにかして『彼女』の影を消し去る努力をしてきた。
 無人の荒野で走り潰すほど馬を駆った。浴びるほど酒を飲んだりもすれば、水一滴さえ口にしないで何日もひとりで宿屋の部屋に篭ったりもした。決闘。野宿。手を染めなかったのは阿片アヘンくらいのものだろう。
 すべては無駄な努力だった。
 ゴードンにとってのオフェーリアは、三年前に結婚した妻というだけの単純なものではなくなっていたのだ。多分、最初から。ゴードンにとってのオフェーリアは、血であり、肉であり、魂であり、すべてだった。
 生きた人間からすべての血を絞りあげることができないように、ゴードンの中からオフェーリアを追い出すことはできなかった。

 夫がひと月ぶりに屋敷に帰ってきても、彼女はまだ姿を見せないでいる。それについては仕方のないことだとゴードンは納得していた。
 ──ひと月前、ゴードンは口にするのもはばかられるような方法でオフェーリアを傷つけた。
 彼女が夫の帰りにおびえ、自室の隅で小さくなって震えていても不思議ではない。ゴードンはあの蛮行について心から謝罪するつもりだった。

「お呼びでしょうか、ゴードン様。お久しぶりでございます」
 つまった喉から無理やり押し出しているような陰気な声が廊下からして、やがてぬっとその主が姿を現した。チョーサー……初老の執事はまだ寝間着姿のままであった。
「お変わりありませんで。ご旅行はいかがでしたか」
 執事は義務的な棒読みでたずねた。
「お前のユーモアのセンスは日に日に磨きがかかっているようだ。は・は・は」
「どういたしまして」
「妻はどこにいる」
 ゴードンは琥珀色と称される黄金の瞳をぎらつかせた。
 チョーサーは肩をすくめる。
「たしか、ひと月前……あなたにはもう妻はいないとおっしゃったはずですが」
「あの時のわたしは怒り狂っていて、正気ではなかった。それはお前も、妻も、分かっていたはずだ。今は話がしたい。あれはどこにいる」
「たしかに……わたしは分かっておりましたとも。しかし、奥様のご意見は違うものでした」
 短く繊細なゴードンの堪忍袋の緒は、簡単にぷつりと音を立てて切れた。
 どんと拳でマントルピースを激しく叩きつける。
「さっさとオフェーリアをここに連れてこい! さもなくばわたしが彼女の部屋へ上がるぞ! そうすればまた、なにをしてしまうか分からない。呼んでこい!」

 空気を震わせるような怒声に、空になったブランデーの杯を片付けようとしていた小間使の女が短い悲鳴をあげて逃げていった。
 よくある、ウィンドハースト伯爵家の光景だった。

「そうしたいのは山々なのですが、できません。奥様はこの屋敷から消えてしまわれました」
 もともと細い目をさらに細めながら、チョーサーは淡々と告げた。まるで何日も前からこの台詞を練習していたのではないかと思えるほど、抑揚のない喋り方だった。
「なんだと?」
 対するゴードンの声は、動揺に震えていた。
 動悸がして、背筋が冷え、頭から血の気が引いていくのが自分でも分かった。
「いつ? どこへ?」
 呆然としたゴードンの質問を執事は予見していたようだ。再び練習の成果を披露するようななめらかさで、静かに答える。
「あなたが屋敷を飛び出した次の朝、必要最低限の小さな荷物をまとめて、マリー・スーに乗って行ってしまわれました。どこへかは存じません。もちろんたずねましたが、わたしは知らない方がいいと突っぱねられまして」
 執事は寝間着の前身頃を整え直すふりをした。
「まぁ、つまり早い話が、は知らない方がいいという意味でしょう」

 絶望がゴードンの視界に真っ黒に垂れ込めてきた。
 ウィンドハースト伯爵ゴードンはふらふらと暖炉の目前を離れ、並べられた長椅子のひとつにどかりと腰を下ろして、両手で顔を覆った。
「くそ……」
 屋敷は静かだった。
 かつてこの広間で──いや、ゴードンの生活すべてにおいて──天使のような笑い声を響かせながら微笑を浮かべ、ゴードンの荒みきった心を癒してくれた女性はもうここにはいない。

 いや、違う。
 そんなものはもう、数ヶ月前に彼女の裏切りを知らされた時点で失っていた。

 ただ、もしかしたら許せるかもしれない。
 許し合えるかもしれないと、そう……。
 このひと月で、たとえ血の涙を流しても消せない想いがあるのだと思い知らされ、ゴードンは彼女とやり直せる道があるのではないかとかすかな希望を抱きはじめていたのだ。

 オフェーリアは他の男に抱かれた。
 それも、ゴードンが心を許していた親友こそが、その不貞の相手だった。
 しかし状況は戦下で、ゴードンはすでに将校として二年以上も屋敷を不在にしており、オフェーリアは若く経験が少なかった。

 やり直せるかもしれない。
 誰にでも……誰にでも、一度や二度の間違いはあるものだ……。

「奥様からの伝言があります。元・奥様と呼ぶべきかもしれませんが」
 チョーサーの言葉に、ゴードンは心臓を鷲掴みにされたような気分になった。のっそりと顔を上げ、陰気に執事をにらみつける。
「オフェーリアは今もわたしの妻だ。わたしの息の根が止まるまで、永遠に」
「それをわたしに言われましても」
「分かっている。わたしはこれから彼女を探し出し、深く謝罪するつもりだ。彼女のしたことも……許したいと、思っている」
 これが他の男の台詞なら、誰もそれほど驚くことはなかっただろう。
 しかし彼はウィンドハースト伯爵ゴードンだった。
 愛は不可能を可能にするという。ウィンドハースト伯爵ゴードンの口から謝罪が出るとなると、それは本当に、相当に、偉大な変化だった。

 チョーサーはもったいぶった咳払いをひとつして、背筋を伸ばしながら両手を後ろに組んだ。
「『愛するゴードン』。ああ、奥様は文字が書けませんから、手紙を残す代わりにわたしに記憶しておくように言われたのです」
「続けろ。お前の御託を聞いていられるほど、わたしは忍耐強くない」
 早く先が聞きたくて、ゴードンは苛立った。

「存じております。では。『愛するゴードン。最後まであなたがわたしを信じてくれなかったことを、本当に悲しく思います。なんど繰り返しても、もう無駄だと理解しましたが、最後にもう一度だけ、わたしとハロルド卿の間にはなにもなかったことを誓わせてください。わたしが愛したのはあなただけです。抱かれたのも、あなただけ』」

 まるで朝廷音楽のように、チョーサーは滑らかに続けた。
 ゴードンの背筋が凍てつく。
 手にじっとりと汗がわいた。

「続きもお聞きになりますか?」
 表面上、執事は平静を装っていたが、心の内ではゴードンの反応を楽しんでいるのではないかと思えてならない。これは横暴な主人への復讐なのだろうか?
「この場で鶏のように首を絞められたくなければ……続けるがいい」
「では、続けます。『あなたの怒りはいつか消え、誤解を解くことができるのではないかと、ずっと願っていました。でも、昨夜』……あの夜のことですね……『わたしは理解しました。わたしがあなたのそばにいれば、互いに傷つけ合うだけで、あなたのためにならないことを。今まで去れといくら怒鳴られてもここに残り続けていたのは、一秒でも長くあなたの近くにいたいと願う、わたしの我がままのためでした。ごめんなさい』」
 ここまでくると、ずっと冷静さを保っていたチョーサーも声を震わせはじめた。

 チョーサーはオフェーリアを可愛がっていた。
 ついでに言えば屋敷のほとんどの者が、オフェーリアを慕い、オフェーリアも彼らに愛情を持って接していた。
 ──くそ、戦場で命を懸けて戦っている間に妻に裏切られたのはわたしだというのに、まるで自分が悪者になったような気がしてくる。
「続けて……くれ」
 ゴードンは力なく懇願した。
 命令、ではなく。

「『わたしは去ります。どこへかは、言いません。それがお互いのためだと思います。どうか幸せになってください。わたしを探さないで』」

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