Forgiving

泉野ジュール

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番外編

Let it Rain

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 The rain falls like a thunder, as I truly hate it.


 その夜、窓に打ちつけてくる雨を眺めながら、ケネスは無意識に眉をしかめていた。
 週末──ロンドンの街中はいつも騒がしい。喧騒より静寂を好むケネスは、この休日の夜を、外を出歩くより自宅のフラットでゆっくりと休息を取ることにして、のんびりと過ごしていたところだった。

 もちろん喧騒だけが引き篭もりの原因ではない。
 ケネスの腕の中で、まどろみながら映画のワンシーンを眺めている存在……あかねこそ、ケネスが週末フラットを離れたくなかった本当の理由だ。数々の誤解やすれ違いを乗り越え、恋人同士となった現在の二人は、かつてない幸せと平安を手に入れたといえよう。それほど最近の二人の関係は良好だった。
 イギリス人としても長身の部類に入るケネスにとって、華奢なあかねは本当に羽根のようで、そんな彼女を腕の中に包みながら過ごす週末の夜は、この世の至福になるはずだった。

 ──いや、確かに至福だったのだ。
 突然の強い雨が、降り始めるまでは。

「強い雨ですね。急だから、驚いちゃった」
 窓の外へ視線を移したあかねが、そう言って背後のケネスを振り返った。
 同時に、艶やかな髪がさらりと音を立てて揺れて、甘い香りを放つ。普段のケネスならここで、彼女の首元に顔を埋めてしまいたいところだ。あかね自身もそれを予想していたのか、振り向きながら少し肩をすくめてみせる。
 そんな仕草も一々が可愛らしい。

 しかし、ケネスはその時、湧き上がる愛情が、急に苛立ちにすり替えられるのを感じた。
 まるでカードを切るように、感情がスライドするのだ。
 原因は分かっている──雨だ。
 分かってはいるが、しかし、それを制御できるかどうかは、また別の問題だった。
「ああ」
 短く答えて、ケネスは、あかねを抱いていた腕をするりと解いた。
 ケネスは、ぱちくりと瞳を瞬くあかねをソファに残して立ち上がると、そのままキッチンのカウンターへ向かった。そこには上部に備え付けられた木製の棚があり、いくつかアルコール類の瓶が置かれている。あまり深酒をするタイプではないが、人並み程度には嗜むケネスだ。テネシーをショットグラスに移すと、それを一気に飲み干した。
「ケン……?」
 あかねが、不安そうな表情を浮かべながら、ソファから振り返ってこちらを見ている。
 ケネスは再び眉をしかめた。
 雨だ──雨、特に、嵐のような降り方をする、強い雨。

 二杯目をグラスに注ごうとしたとき、あかねはとうとうソファから立ち上がって、ケネスの前へ来ていた。白くてか細い手が、ケネスの腕に触れる。
「大丈夫? そんなに急いで飲んだら、後が大変でしょう?」
 それは、彼女の思いやりであり、愛情であり、歓迎すべきものだったのろう。ケネスはそれが分かっていたし、素直に受け入れるべきだと、頭の奥の理性は納得している。

(雨だ──だからだ)

 目下には、白いカシミアのセーターに身を包んだあかねが、瞳を揺らしながらケネスを見つめていた。まるで、無垢を象徴し、それを体現したような清純さが、彼女にはある。この夜も同様だった。
 普段なら、それが愛しくてたまらないのだ。しかし、この嵐のような雨の夜、ケネスの逆鱗に触れたのは正に、あかねのその雰囲気だった。
 彼女の手を振り払うようにして、そのまま二杯目も飲み干す。
 グラスをカウンターに戻すと、ケネスを見上げるあかねの瞳は、明らかに曇っていた。
「何だよ。何か、文句があるのか?」
 ケネスは、あかねに対し覚えている限り今までで最も不遜な物言いを、した。
 自覚はしていなかったが、余程不機嫌な顔をしてもいたのだろう。あかねは、ショックというより、怯えるような表情を浮かべていた。

 雨だ。雨のせいなんだ。やめろ。
 ケネスはそう自身に言い聞かせ続けたが、気を休めるつもりで飲んだアルコールが頭に回って、逆に自制心を削いでいく。気が付くと、ケネスの手は三杯目を求めてボトルを掴んでいた。
「だめです、そんなに沢山……っ」
 あかねが割って入ろうとして、ケネスの手に触れた。
 その時だ。雷が暗雲を貫くように、衝撃的で、発作的な怒りが、ケネスの中でカッと炸裂した。
(雨のせいだ……)
 そんな心の奥の声にも、耳を貸す時間はなかった。
 気がつくとケネスは、理性の制止にも関わらず、強くあかねの手を振り払っていた。そしてそれは、二人の、男と女の体格差をまざまざと示す結果となったのだ。
 あかねはケネスの腕にはじき飛ばされて、床に倒れて背を打った。
「あ……」
 と、小さく声を漏らしながら、あかねはケネスを見上げた。
 あかねだって、ちゃんと分かっている──わざと暴力を振るわれた訳ではない。ケネスはあかねの手を退けたかっただけで、彼女を突き飛ばすつもりなど微塵もなかったのだ。
 しかし、床に倒れたあかねは、衝撃でなかば呆然とケネスを見上げていた。
 そして、ケネスは──

「ケ、ケン……あの、」
 数秒、ケネスはあかね以上に驚いた顔で、彼女を見下ろしていた。
 両瞼を見開くケネスに、当のあかねの方が、オロオロとしてしまうほどだった。そう、こういう時、本当にショックを受けるのは、やってしまった方なのかもしれない。
 幸い、あかねは倒れた場所にはカーペットが敷いてあり、実際大した衝撃はなかった。
 ただ驚きは驚きであり、すぐには立ち上がれなかっただけだ。
 それをケネスがどう解釈したのかは分からない……驚愕の表情を浮かべる彼に、あかねはなんとか、よろよろと立ち上がって腕に触れようとした。『私は大丈夫』、そう、言いたかったのだ。
 しかし──
「ケン!」
 あかねがそう叫ぶより早く、ケネスは大股であかねから離れ、廊下の先にある書斎部屋の扉を勢いよく開けて中へ入ると、ものすごい音を立ててその扉を閉めた。
 フラットが揺れようかという強さで閉じられた、書斎の扉。
 呆然と立ちすくむ、あかね。
 そして、窓を叩くせわしい雨音だけが、その場に残された。



 あれは決まって雨の日ばかりだった──特に、こんな嵐のような降り方をする日は、最悪だった。
(だったら何だ! 俺は、何を……)

 書斎へ飛び込むなり、ケネスはマホガニーの仕事机を力任せに叩いた。机上に積み上げられていた書類が数枚、その揺れにしたがって、はらはらと床へ散っていく。
 ケネスは音がしそうなほど歯を食いしばり、正面の窓を見やった。リビングほどの大きさのものはないが、採光のための小さな窓があり、雨が打ちつけている。
 後悔がケネスを襲った。
 意図したことではないとはいえ、あかねに暴力をはたらいたのだ。男として、人として、許されることではない。
 おまけに、すぐに謝って彼女を助け起こせばいいものを……ケネスにはそれが出来なかった。そう、自分を見上げるあかねの澄んだ瞳に、また同じように怒りを爆発させてしまいそうな気がして、逃げ出したのだ。
 雨に濡れた窓は、表面にいくつものドット模様を作り、それを滴らせていく。
 ケネスはこれが嫌いだった。
 生前の母に暴力を振るわれたのが、決まって雨の日だったからだ。

 一条正敏に捨てられた後のケネスの母は、典型的なアルコール依存症に陥っていた。
 子供の頃は理解不能だったこの経過も、自身が大人になった今は、理解することが出来る。多分母は心の痛みから逃げ出したかっただけなのだ。一時の安楽を得るため。
 しかし、アルコールの恐ろしいところはここからで、最初は手段だったものが、次第に目的へとすり替わっていく。
 雨は彼女を憂鬱にさせた。
 あるいは、確かめた事はないが、一条正敏と別れたのが雨の日だったとか、そういった理由があったのかもしれなかった。とにかく彼女は雨になると鬱になり、酒の量も増え、家にいるケネスを叩くようになった。

 母子家庭育ちでもあり、幼い少年だった当時のケネスにとって、母親とは無条件で慕う相手であり……十歳を数える頃には、少なくとも肉体的には、反抗しようと思えば不可能ではなかったはずだが、少年のケネスにはそれが出来なかった。
 母一人、子一人がケネスの全世界だったからだ。

 殴られて、しかし、女性である母に反抗は出来ずに、家を飛び出し雨の夜をさ迷ったこともある。
 雨が降ると急に気温の落ちるロンドンの街で、何一つ持たずに、凍えながら、行く当てもなく──。それ以来、ケネスは雨を嫌悪していた。特に夜の雨を。小雨はまだいい。ロンドン独特の通り雨も、気分は良くないがやり過せる。ただ今夜のような本格的な雨だけは、時々我慢ならなくなるのだ……。

 ケネスは拳を握り、壁をガンッと叩いた。
 幼い頃の自分と、先刻のあかねの姿が重なって見えて、苦痛に顔を歪めた。
 一体何をやっているんだと自問自答しながら──大した答えは得られなかったが──興奮が冷めるのを待った。

 そうして、十五分ほど経ったころだろうか。
 ケネスはやっとある程度の落ち着きを取り戻し、書斎部屋の扉を開いて静かにリビングへ出た。何よりもまず、あかねに謝らなければ。しかし、そう思って彼女の名を呼んでみても、答えはない。
「アカネ?」
 再び呼んでみても、答えは同様になかった。
 すぐにバスルームやベッドルームを確かめてみたが、彼女の姿はどこにもない……。
 ────っ!
 ケネスは玄関へ向かった。クロークに掛かっていたあかねのコートが消えている。しかし、棚の上の彼女の携帯電話は手付かずで、そこに置かれたままだった。
「…………っ」
 何ということだ、ケネスは眩暈を感じて片手で頭を押さえた。
 同じことを──母があの頃自分にしたのと同じことを、俺は、あかねにしたのか?
 このひどい雨の夜の中を、彼女は、自分に投げ飛ばされたことのショックで、さ迷い歩いているのか……?
 身体から血の気の引いていくのを感じながら、ケネスは、コートを手に取って素早く羽織った。そのままフラットの階段を駆け降り、正面玄関へ向かと、勢いよく外へ出る。しかし、ケネスはそこである事に気がついた。
 彼女が、鍵を持って出て行ったかどうかが分からない。
 正面玄関がオートロックに出来ているお陰で、鍵がなければ、建物の中にさえ入れないのだ。
 降りしきる雨を前にしながら、ケネスは建物の前で立ちすくした。



 結果からいえば、あかねは、ショックで夜の街をさ迷っていたわけでも、家出を決行したわけでもなかった。
 それでも、約五分後、水色の傘を差したあかねが一ブロック先の角から現れたのを見たとき、ケネスは奇跡を目撃したような気分になった──。
 驚いたのはあかねも同じだったようで、つぶらな瞳を一生懸命に瞬きながら、雨に濡れたケネスが駆け寄ってくるのを見つめている。
 そのまま、道の往来で、ケネスはあかねを抱きすくめた。
 それも、あかねが狼狽してしまうほどぎゅっと、強く。

「ど、どうしたの……? ケン、もう、大丈夫なの?」
 長身のケネスに立ったまま抱きすくめられてしまうと、もう、あかねには周囲が見えなくなる。彼は明らかに濡れていた。
 あれから、まだ二十分も経っていないのに。
「あ、あの」
 戸惑いつつ、あかねはゆっくりと顔を上げた。すると、切ない表情のケネスと視線が絡み合った。あかねは短く息を呑む。傘は、いつのまにか手から落ちていた。

「I don't know how can I apologise」
 どう謝っていいのか分からない。
 雨の中、ケネスはそうぼそりと言って、さらに強くあかねの身体を抱いた。一滴の雨さえ二人の間には届かないような、固い抱擁で、あかねは危うく手にした荷物を落としそうになったほどだ。
 押さえ付けられたケネスの胸が、ちょうどあかねの耳元辺りに当たって、焦り打つ鼓動がいやに大きく聞こえる。
 あかねは微笑んだ。

「But you don't have to」
 でも、そんな必要はないのに。
「Yes I do」
「You don't」
「I do」
 そう、小さな押し問答が続いて、結局あかねが折れた。
「分かりました……。でも、それは家の中で……」



 あかねは、
「本当に、痛くもなんともなかったし、怪我もないし、気にしなくていいんだから」
 と言ってみたものの、今夜のケネスは過ぎるほど過保護に豹変していた。
 今キッチンに立っているのも、ケネスだ。あかねはソファに座らせられて、今夜は寝るまでそこから動かなくてもいい、とのことになっている。
「イライラしてたみたいだから、これを淹れてあげなきゃ──って思ったの。ちょうど切らしていたところだったから、買いに行ってただけで……」
 あかねはケネスが差し出す温かいカップを受け取りながら、そう言った。
 そう、あかねは歩いて数分のコーナーショップへ出向いていただけだったのだ。買ってきたのはハーブのティーバックで、根っからのコーヒー党のケネスが唯一好んで飲むブランドのものだった。

「おいしい……」
 と、カップに口をつけるあかねの横に、ケネスは腰を下ろした。
 しばらくあかねの顔を見つめてから、彼女の肩に腕を回して抱き寄せると、ケネスは小声でSorry、と呟く。
「こういう雨が降ると急に、意味もなく苛立つことがある。もし次、俺が同じことをしたら、張り倒してくれて構わないから」
「う、う~ん……」
 あかねがケネスを張り倒すとなると、武器でも使わなければ無理のように思えるのだが。
「……理由を、聞いてもいいですか?」
「下らないよ」

 ケネスはそう自嘲して、大まかな経緯をあかねに語りだした。
 母のアルコール依存症、雨になると彼女の機嫌が悪くなり、暴力を振るわれたこと。そのお陰で雨の屋外を当てもなくさすらった過去……。
 あかねは真剣な顔で全てを聞いていた。

「だからって俺のした事は正当化されない」
「もういいんです。わざとじゃないって、すぐに分かったから……あの直後のケンってば、すごい顔してたもの。こう、英語でなんて表現するんでしたっけ、本で読んだことがある……」
 視線を泳がせながら、あかねは言葉を探していた。そしてあっと声を上げると、手を打つ。
「そう、『間違って自分の子供を頭から食べてしまったような顔』!」
「……そんなに酷かったのか?」
「ふふ、少なくとも、怒る気にはならない顔でしたよ」

 あかねの笑顔につられて、ケネスもわずかに微笑した。
 自分はなんて幸福なのだろう。こんな女性と巡り合い、罪を許され、笑顔を見つめることができる。過去のわだかまりも、あの頃流した涙も、凍えた思い出も、今の幸福と天秤に掛ければ、軽いものだったのではないか……。そう思えるのだ。
「ただ……今夜、分かったことが一つある」
 ケネスは告白した。
「俺を叩いた後の、母の気持ちが。叩かれたのは俺なのに、いつも彼女の方が驚いて傷ついた顔をするんだ。あの頃はなぜか解せなかったが……今はなんとなく分かるよ。やりたくてやった訳じゃないんだな、多分。最悪の気分だった」
 指先であかねの髪を弄りながら、そう言って、彼女の首元に顔を埋める。
 あかねもケネスの髪に触れた。
「いいアイデアがあるの。次……こんな雨が降ったら、ご馳走にしたいなって」
「ごちそう?」
「例えば、ですけど。ケンの好きなものを沢山作って、豪華な食事にしたり、友達を呼んだり……何か楽しいことをするんです。そうやって少しずつ楽しい雨の日の思い出を作っていけば、いつか苛立ちも消えてなくなるんじゃないかなって、思って」
 こんなのは駄目? と、小首を傾げるあかねだ。
 ケネスは微笑んで、彼女のあごに手を当てると、ゆっくりとキスを落とした。

「Good idea」
 そう呟いて。



 その夜中、ケネスがベッドの上でふいに目を覚ますと、外はすでに静かだった。
 雨は止んだのだろうか。
 隣で小さく寝息を立てているあかねの額に、気付かれないような軽い口付けを残して、身体を起こす。ケネスはそのまま静かにリビングへ出た。
 窓を見やると、水滴の名残がガラスに残っていたが、雨自体は本当に止んでいたらしかった。
 ケネスが窓を開けると、冷えた空気が肌を撫でる。

 雨は止んでいた。

 雨雲も去り、夜空には星が浮かんでいる。遥か宇宙から宝石のように輝く星たち。緑の匂いを含んだ夜風。その時、この澄んだ空に向かって、ケネスは久しぶりに──本当に、数十年来の時を経て初めて、こんなことを思った。
(Let it rain)

 雨よ、降れ。
 嫌悪の対象でしかなかった雨も、これからは、あかねの笑顔と共に愛すべきものへと変わっていくのかもしれない。
 遠い夜空を見上げながら、ケネスは目を細めてもう一度思った。
 Let it rain.

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