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Fiery Night - 4

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 ベッドの上に座り込んだままのオリヴィアは、ひたすらで真剣なエドモンドの視線にとらえられて、喉がからからに乾いていくのを感じた。
 一秒一秒が嘘のように長く感じられて、まるで世界が、二人だけのために切り離されてしまったようだった。

 部屋の中央に立ったエドモンドは肩で荒い息をしていたが、それでも疲れのようなものは一切感じさせず、今からなにをしでかすのか分からない負のエネルギーのようなものを充満させている。

 オリヴィアは、夫の興奮に自分が関係しているのを、否応なしに感じ取った。
 なぜなら、オリヴィアが少しでも身動きしようとすると、エドモンドの強ばった頬がピクリと波打つからだ。これは……何かがおかしいと、オリヴィアは本能的に感じ取った。

 彼の目つきはまるで、オリヴィアをそのまま頭から飲み込んでしまいたくてウズウズしている飢えた野獣のようで、これから妻と親交を深めようと思っている夫のものには見えない。
 でも、そんな……。
 オリヴィアには持ち上げることさえできなかった火かき棒を、いとも簡単に放り投げて床に突き刺し、無惨に曲げてしまえるだけの力の差を目撃した後では、なにをされるか分かったものではない……。

 しかし、オリヴィアには覚悟があった。
 夫が望んでいるのが何であれ、それを受け止め、心から彼を愛し続ける覚悟が。
 もう我慢なんかできない。
 もう、物分りよく待っているだけの妻ではいられない——。

「ノースウッド伯爵……わたしは、わたしは、もう」

 そう、震えた声でオリヴィアが言いかけると、エドモンドは素早い動きで片手を上げて、それをさえぎる仕草をした。
 彼の表情は硬く、オリヴィア以上の覚悟に満ちている。

「なにも言わなくていい、マイ・レイディ。この地上のくず共どもがあなたに何をしたのであれ、あなたはわたしの妻だ。永遠に、なにが起ろうとも、誰もその事実を変えることはできない」

 永遠に。
 なにが起ろうとも。

 その、あまりに鮮明な告白に、オリヴィアは息を呑んでその場に佇んだ。今、エドモンドはまぎれもない宣言をしたのだ。火を見るより明らかで、一点の曇りもない、誠実な誓いを。

 まさにオリヴィアが望んでいた言葉だった。
 心の底からあふれてくる喜びのさざ波に、オリヴィアは胸を震わせ、大きな水色の瞳にわずかな涙をにじませた。


 ——再びあふれ出す妻オリヴィアの涙を目撃して、エドモンドの心は、這い上がってくる禍々まがまがしい怒りでどす黒く染まっていくのを止められなかった。また、止める気もなかった。
 これほどの怒りを感じたことは、未だかつてない。

 そして、これほどの愛を感じたことも、未だかつてなかった。
 ベッドの上に座っているオリヴィアの小柄な身体は、乱れかけた桃色のドレスに包まれて頼りなげに震えている。まるで暗闇を照らす唯一の光のように、エドモンドの視線を引きつけて離さなかった。

 そして、自分を見つめる、彼女の大きな水色の瞳……。
 いつも、表面では否定しながらも、魂の奥底では切望していた願いの答えが、そこには宿っていた。

 わたしの心。わたしの愛。わたしの……オリヴィア。

 この、愛と呼ばれる胸を焦がす想いは、たとえ形を持たなくとも、エドモンドの中にはっきりと存在している。
 エドモンドは、今ほど何かを守りたいと思ったことはなかった。

 短く息を吸ったエドモンドは、床に這いつくばる二人の男を交互に見下ろしながら、ざらつくような低い声でこう忠告した。

「そして、お前たちがわたしの妻にしたことを考えれば、わたしにはお前たちを殺す権利があるだろう」と言って、一歩前に進んだ。「ゆっくりと、時間をかけて、残酷に」

 二人の男たちは、怯えた子犬のように小刻みに震えだした。

「し、しかし……こ、行為はまだ……み……未遂で……」

 しかしエドモンドは、敗北者たちの言い訳には一片たりとも耳を傾けなかった。ただ、見るものを圧倒させる恐ろしい形相をたたえたまま、静かに窓辺にある燭台に近づいていく。
 ロウソクの明かりにくっきりと照らし出されたノースウッド伯爵エドモンド・バレット卿の顔は、まさに、怒れる中世の騎士が敵にとどめを刺そうとする瞬間のような、残虐さに満ち溢れていた。野外から雨が強く吹き付け、窓がカタカタと揺れている。

 雷鳴が二度とどろいた。

 ベルフィールド子爵とヒューバートは、もつれる足を必死にばたつかせながら、この修羅場から逃げようとしていた。
「ああ、外は雨が降っているな」
 と、エドモンドは逃げようとしている二人の男に穏やかに告げた。
 たったそれだけなのに、二人の男は、まるで幾千の呪いの言葉を浴びせかけられたような戦慄に襲われ、身震いした。これはなにかが起る……。
 それも、想像以上に恐ろしいなにかが。

 最初、エドモンドの動きは、静かで、どちらかといえばゆっくりとしたものでさえあった。
 無言のまま燭台に手を伸ばすと、エドモンドはそのままロウソクを一本持ち上げ、そしてすぐ隣にあったデカンターを別の手で掴んだ。

「もし、お前たちが、わたしの想像より早く走ることができれば、」
 大股の一歩で、エドモンドは男たちに近づきつつ、言った。「命くらいは助かるだろう」

 恐怖のせいで、ベルフィールド子爵とヒューバートの顔がいびつにこおりつく。
 その瞬間、エドモンドは目にも留まらぬ速さでデカンターを振り上げ、中の酒をベルフィールドの服の上に振りかけたと思うと、素早くそこにロウソクを投げ放った。

「ぎゃああ! 火が、火がぁ!」
 乱れた礼服は裾からまたたく間に燃えだし、ベルフィールドは狂ったように手足をばたつかせて燃え上がる火に抵抗しようとした。
 酔いは覚めたのだろう。
 しかし、酒のアルコールに勢いをえた火を消すことはできない。

 ベルフィールドの服はごうごうと燃え盛りはじめ、しばらく狂人のように踊り狂ったあと、屋敷中を震撼させるような怪奇な悲鳴を上げて部屋を駆け出した。
 階段を転げ下り——文字通り転げ落ちたようだった——身の毛がよだつような悲鳴を上げたまま、大広間、舞踏室を駆け抜ける。ガシャーンという派手な音がしたあと、ベルフィールドの悲鳴はやっと収まった。

 あまりの出来事を前に、オリヴィアはベッドの上で硬直したまま声を出せずにいた。

 それはヒューバートも同じだったが、オリヴィアとは違い、歯の根も合わぬほど震えていた。次は我が身だと、よく分かっていたからだ。

「そしてヒューバート、お前の罪はさらに重い」

 続くエドモンドの声はさらに低く、危険な響きを有していた。
 実際にヒューバートがしたことといえば、ベルフィールド子爵の悪事に手を貸そうとしただけだが、彼は屋敷の主人だったから、それだけ責任は大きくなる。
 獰猛な目つきのエドモンドに視線を向けられ、ヒューバートは縮み上がった。

 ま さ か ……

 エドモンドは、ベルフィールド子爵にしたのと同じように、恐怖で床から立ち上がれないでいるヒューバートの服にデカンターの残り全てを振りかけた。そして残りのロウソクをズボンの裾の上に落とす。
 エドモンドは、パッと燃え上がる炎を冷ややかに眺めていた。

「あああぁ、た、助けてくれぇっ!」
 下の方から勢いよく燃え上がる服に身を包まれ、ヒューバートはなんとか立ち上がり、ベルフィールドと同じように扉から外へ駆け出そうとした。外は強い雨が降っている。早く駈けつければ焼け死なずにすむかもしれない。

 しかし、今度のエドモンドは違った。
 素早い動きでヒューバートの先に回ると、扉を閉めて行く先を封じた。

「お前は奴とは違い、そう簡単には許さない」
 簡単に? 許したのか?
 疑問の多い台詞ではあったが、ヒューバートにそれを構っている余裕はなかった。
「じゃあどうしろと言うのだ! ああ、助けてくれ! 燃え死んでしまう!」
「そこに窓がある」
 エドモンドは、まるで小さな子供に諭すように、部屋の奥にあるガラス窓を指差した。「好きにするんだな」

 一体、ヒューバートに選択の余地などなかった。服は燃えている。火が、炎が、そのあまりに熱い熱気が彼の身体を恐ろしい速さで焼き尽そうとしている。
 ああ、くそ!
 ヒューバートは文字通り涙を流しながら、窓に向かって突進した。その動きはまるで、溺れている者が水の中でもがいているようでもあった。オリヴィアが蒼白になって凍りついている目の前で、ヒューバートはそのまま窓を突き破り、断末魔のような悲鳴をあげながら地上に落下していった。

 ガラスが砕ける鋭い音と、それに続くドサッという鈍い音。
 しばらくすると、「ああ、腕が、わたしの腕がぁ!」というヒューバートの叫びが、二階にいるオリヴィアのところまで聞こえてきた。つまり——とりあえず命だけは助かったようだった。

 しん……と。
 急に静まりかえった部屋の奥で、オリヴィアは息を飲んだ。
 そして、オリヴィアがなんとか首を動かしてエドモンドの方に向き直ったとき、彼の瞳はすでにオリヴィアをしっかりととらえていた。まるで飲み込むように、じっとオリヴィアを見つめている。

 破られた窓から雨を含んだ冷たい風が吹き込んできて、二人の髪を揺らす。

「オリヴィア……ああ、オリヴィア」
 エドモンドが呟いた。
 その声も、表情も、ついさっきまで二人の男を焼き殺そうとしていた凶暴な男のものとは思えないほど、穏やかになっている。

 オリヴィアはたまらなくなって、ベッドを飛び降りると、そのまま彼の胸の中に飛び込んでいった。
 そう、彼はオリヴィアを守ってくれただけなのだ。

 そして、エドモンドがオリヴィアを受け止めて大きな両腕に彼女を包み込んだとき、オリヴィアは、彼の身体がかすかに震えていることに気がついた。
 ノースウッド伯爵が震える……そんなことが、あるなんて。

 オリヴィアは顔を上げ、エドモンドの緑の瞳を覗き込んだ。そこには底知れぬほどの愛情と、渇望と、そしてそれと同じくらい深い不安が浮かんでいた。少なくとも、オリヴィアには、そう見えた。

「ノ……」
 オリヴィアが口を開こうとした時、エドモンドは急に人差し指を彼女の唇に当てて、シッと黙るように告げる仕草をした。
「わたしが今どんな思いでここに立っているか、あなたには想像もつかないだろう……」
 そう言って、心配そうにオリヴィアの頬に指の背を滑らせた。「奴らが言っていたことは本当なのだろうか……その、行為が未遂だということは……?」
 一瞬、何のことを言われているのか分からなくて、オリヴィアは二度大きな瞳を瞬いた。

 するとエドモンドは傷ついたような顔をした。「もちろん、何が起こったのであれ、わたしの決心は変わらない。あなたはわたしの妻だ」

 やっと意味が分かり、オリヴィアは慌てて首を振った。
「ち、違います。本当に……なにも、なにもなかったんです。その前にあなたが助けに来てくれたから——わたしは無事で」
 しかし、すぐに、ベルフィールド子爵が覆い被さってきた時の恐怖と嫌悪感が思い出されて、オリヴィアは身震いした。

 もしエドモンドが来てくれなかったら。来てくれるのがもっと遅くなっていたら。
 オリヴィアは舌を噛み切って死ぬ覚悟でいたのだ。
 その恐怖を思い出すのと、今、エドモンドの腕に包まれている安堵との落差に、オリヴィアは目頭が熱くなってくるのを止められなくなった。

「もし……もし、間に合わなかったら、死ぬつもりでいたんです。そうすれば、少なくとも、あなたの妻のままでいられると思って」

 オリヴィアがこう言ったときにエドモンドが見せた表情を、彼女は生涯忘れることができないだろう。
 驚きと怒りと、そして、深い後悔のようなものが混ぜこぜになって、今にも爆発しそうな激情を寸前で押さえているような顔……。
 オリヴィアは自分がした告白をすぐに後悔したが、それでエドモンドを止められるわけでもない。
 エドモンドは憑かれたようにオリヴィアを強く抱きしめ、彼女の首元に自分の顔をうずめて、しばらく動かなかった。その抱擁はまるで甘い牢獄のようで、オリヴィアは身動き一つできなかった。

 彼からは夏の湖畔のような湿っぽい匂いがした。
 オリヴィアは瞳を閉じ、ガヤガヤと人々が近づいてくる騒音を遠くに聞きながら、エドモンドの大きな胸と熱い鼓動にその身を寄せた。

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