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That's All I Want - 3
しおりを挟むエドモンドは、あらゆる嵐についての知識があるつもりだった。
にわか雨をともなう、じめじめとした重い嵐。暴風が吹き荒れて、大地を根こそぎにするような激しい嵐。一夜だけの嵐。そして、数日続く長い嵐。
北の大地の領主として。また、そこに生まれ育ち、そこに骨を埋めるつもりでいる一人の男として、エドモンドは幾つもの嵐を経験し、それに対する対処の仕方を学んでいた。
しかし、今、エドモンドの胸を荒らしている大嵐は、それらのうちのどれとも違う。
まるで、地鳴りのような不気味なざわめきと、激しく打ちつける雨のまっただ中に立たされているような不快な気分がまとわりついてくる。
——悪い予感がしてならない。
舞踏室と大広間はひどい騒ぎになり、混乱して制御不能の状態だった。この騒動に便乗して、刺激を求める若者たちが決闘騒ぎを起こし、あちこちで悲鳴が聞こえはじめてきているありさまだ。しかし、エドモンドの不安は、そんな舞踏会の騒ぎとは別のところにある。
オリヴィアを探さなくては。
あの可愛らしい伯爵夫人——そうだ、私の妻だ——が、こういった混乱を前にしてどんな行動に出るのか、エドモンドには想像もつかなかった。ぼおっとしているうちに飛んできた銀の食器に頭をやられたり、この決闘騒ぎを室内ゲームと勘違いして笑顔をふりまき、男たちに不要な誤解を招かせたり。
しそうだ。
いざこざで乱れた礼服の前ごろ身を両手で直したエドモンドは、断崖から荒れる海に飛び込もうとするような覚悟に満ちた瞳をぎらつかせ、群がる人々をかき分けて前に進みだした。
今のエドモンドには覚悟があった。
目標が。
目指すべきゴールが。
こうなった彼を止められる者は少ない。社交界でのノースウッド伯爵エドモンド・バレット卿は、その冷静沈着さと毅然とした態度で知られているが、胸の内には本人さえ知らない熱い感情が眠っている。彼は元来、激しい情熱を持った男だった。ただ、北方の男の典型として、滅多にそれを表に出さないだけだ。今、それが目覚めようとしている。
エドモンドは大広間を飛び出した。
しかしその先は、袋小路のようだった。ファレル家の屋敷は実用性に欠けた造りで、小さな回廊や書斎が迷路のように入り組んでおり、エドモンドが大股で三歩も進むとすぐ曲がり角に当たる。苛立つことこの上ない。
エドモンドは、窮屈に身を包む夜会用の礼服をも呪った。
普段の彼はもっとゆったりとした服装を好む。領地の管理に必要なあれこれに、一体どうしてフリルをあしらった襟元や、ほっそりとしたズボンが必要だというのか。クラヴェットでさえただの邪魔な飾りだと考えている彼に、ぴったりとした黒の礼服は鎖を掛けられているも同然だった。
なんでもいい、誰が相手でもいいから、怒鳴りつけてわめき散らしたい気分だ。
すると、申し合わせたように、エドモンドの前を小柄ですっきりした風貌の若者が横切った。
「止まれ、きさま!」
不運な若者は、本気の形相のエドモンドに二の腕をがっしりと掴まれ、ヒッと短い悲鳴をあげて凍りついた。その様子はまるで、ひきつけを起こした幼児のようだ。それだけ哀れを誘う風だったにも関わらず、エドモンドに彼を同情する気持ちはひとかけらも浮かんでこなかった。
「ノースウッド伯爵夫人を見ただろう。彼女はどこだ」
「は、は、伯爵夫人?」
勝手に断言されて、若者は凍りつき、なんとか呂律の回らない怪しい返事をよこした。「ど、どのどのような、おおおかたで?」
エドモンドが短い、しかしはっきりした舌打ちをしたので、若者はまたヒッという声を上げて目を白黒させた。
「彼女は黒髪に水色の目をしている。小柄で細身のくせに、女性であることを強調する首から下の部分は呪わしいほど豊かで、肌は白く柔らかいが張りがあり……」ここまで言って、エドモンドは我に返ったように頬を強ばらせた。「きさまはそんなことまで知らなくていい」
「そ、そうでしょうとも」
「薄い桃色のドレスに、緑色の宝石を身に着けている、まだ若い婦人だ」
エドモンドは出来るだけ客観的にオリヴィアを表現してみせた。
——柔らかい生地に包まれた豊満な胸に、思わず抱きしめたくなるほどの細い腰をした、私の妻だ。首はすっきりとしていながら官能的で、私の瞳と同じ色の首飾りをさせている。大きな瞳は千の宝石よりも輝かしく、夏の空ほどに澄んだ色をしていて、それを見つめていると……また、見つめられると、身体中の血が沸き上がるような気分になる。
そしてなによりもあの唇……あの甘い唇。
「小柄で細身で、少し子供っぽい顔をしている」
「そ、そうですか……お、お助けしたいのは山々ですが、僕は残念ながら……舞踏室をすこし離れていたのでなんとも……」若者はまごついた。
低いうなり声を歯の隙間から漏らしたエドモンドは、乱暴に礼服姿の若者を解放した。今夜はじめて袖を通したと思わしき若者の黒ジャケットには、くっきりと皺がついてしまっている。まるでエドモンドの焦りが焼き印を刻んだようだ。
これが初めての舞踏会のような風体の若者だ。もし本当に初めてなら、きっと生涯のトラウマにまってしまうだろう。舞踏会に出ると、恐ろしい形相をした大男の伯爵に襲われるのだ、と。
当の伯爵は、まだ震え上がっている若者をその場に残し、今にも走り出しそうな大股で歩き去っていっていた。
エドモンドは見るものすべてにオリヴィアの影が感じられるような気がして、今にも狂ってしまいそうな気分だった。
あの壁の影に、あの扉のむこうに、あの人垣の先に、オリヴィアがいるかもしれない。
そう思うと、屋敷中をすべて——いや、世界中をすべて、ひっくり返してしまいたくなった。そして実際、エドモンドはそれに近い行為をしていた。目につく物すべてをなぎ倒し、あらゆる扉をこじ開け、人々を押し退ける。
エドモンドが通った後は荒れ果てた戦場のような有様へとなった。
それでも進む彼に、幸運の女神は微笑まない。
オリヴィア。
祈るように名前を呼んでも、返事は聞こえなかった。
喉の奥から、なにか苦いものがじわじわと上ってくるような嫌な感じがする。身体の一部がゆっくりと失われていくような、恐怖に近い感情。
そしてエドモンドは気づいた。
もうずいぶんの間、こんなふうにオリヴィアと離れたことはなかったのだ……と。
あの結婚の日から今日まで、オリヴィアはいつも、エドモンドがその気になれば手の届くどこかにいた。別々の寝室で過ごした夜でさえ、もしエドモンドが望めば、彼女はすぐにエドモンドの腕の中に来てくれていたのだろう。
いつだって、彼女から逃げていたのは自分の方だった。
それが今、はじめて――オリヴィアに逃げられたのだ。
それはまったくもって、本当にまったく控えめにいっても、臓腑がちぎれるような痛みをエドモンドに与えた。自分はなんという阿呆だったのか。
逃げられるはずのないものから逃れようとし、道化を演じただけだ。
なにが欲しかったのか、なにが必要だったのか、エドモンドは自分をよく分かっていなかったのだ。激しい想いを持てあまし、バレット家の呪いを盾にオリヴィアを自分から遠ざけようとした。まるで、そうすれば全ては丸く収まるとでもいうように。
——なんと愚かなことか!
どれだけ逃げようとしたところで、人が人を愛する心が消えることなど、ない。
そんなものは愚か者のすることだ。たとえば、私のような。
しかし、エドモンドがただの愚かなろくでなしと違うのは、自分の間違いを認め、それを改める覚悟があることだった。次にあの水色の瞳と向かい合うことができたときは……そう考えるだけで、エドモンドは少年の頃でさえ感じたことのない、激しい高揚を胸に抱いた。
あの口づけの続きをしよう。
そうだ、あれはまだ終わっていない。始まってさえいないのだ。エドモンドのような男が本当に女性を——特に、自分の妻を——愛し、それを認めたときに何が起るのか、それは彼自身も想像がつかなかった。ただ、それはひじょうに、激しいものとなるのは確かだ。誰一人思い浮かべなかったほど。
オリヴィアめ。
君の望んだものを与えよう。
ただし、私が望んでいるものの方がずっと大きく激しく執拗であると、今に気付くはずだ。
いつの間にか、エドモンドは白く塗られた大きな枠つきのガラス窓を抜けて、テラスに飛び出していた。
テラスは中庭に面しており、石造りの柵に囲まれてかなりの広さがあったが、雨のせいで無人だった。
当初のにわか雨から、大粒で重い雨に変わっていた夜の空は、すぐに容赦なくエドモンドを濡らす。しかしエドモンドは、さらに雨の中を進んでテラスの中央に出た。そして振り返り、外から屋敷を見上げる。
ファレル家の屋敷は、シャンデリアの光で、雨と霧の中に浮かんだ楼閣のようにぼんやりと輝いていた。遠くから室内音楽が聞こえるが、雨音がそれを邪魔している。
エドモンドが目を凝らすと、屋敷の明かりは一階に集中していたが、二階、三階にもちらちらと明かりがあるのが見える。
そうだ、と、エドモンドは思い出した。
バレット家の人間たちのための部屋が、上階に用意されているはずだった。まだ通されてはいないが、普通に考えれば、エドモンドとオリヴィアの部屋、それからローナンの部屋と、使用人用の小さい部屋か相部屋があるはずだ。
オリヴィアは下階にはいなかった。
それはつまり、上階にいる可能性が高いということだ。
あの世話のかかる我が妻は、重ねた椅子から落ちたり、肌をむき出しにして街に出たがったり、エドモンドの欲望をこれでもかとかき回し続けるだけでは飽き足らないらしい。舞踏会が行われている最中の屋敷の上階といえば、当の舞踏室や大広間よりもずっと華やかな宴が繰り広げられているものだ。みだらで、危険な宴が。
くそ!
エドモンドは焦燥のあまり、雨で濡れたテラスを足で蹴った。
本当に。
次にあの水色の瞳と向き合うことができたときは……覚悟をしておいたほうがいいようだ。
私も、彼女も、その周囲の人間も。
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