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Deep In A Room - 2
しおりを挟む実際のところ、マーガレットの仕立て屋はさまざまな意味で気の利いた店だった。
採寸室の端にはクルミ材でできた腰までの高さの華奢な台があって、その上には魅惑的な琥珀色をした飲み物で満たされたクリスタルのデキャンターが置かれている。
丁寧にも、その横には小ぶりの銀杯が二つほど、婦人の採寸に付き合わされて辟易している夫たちの機嫌を少しでも良くするために並んでいた。
確かに今のエドモンドの機嫌はいいとはいえない。
しかし、強い酒をあおって正気を失うようなことになるには、あまりにも危うい状況に身を置いているのをよく分かっていた。酒には人一倍強いエドモンドだったが、今日ばかりは自信がない。
デキャンターから目を離したエドモンドは、今度は板張りの床を凝視する作業に熱中することにした。
あるいは、自分の革靴を。
あるいは、埃を。あるいは……くそ、なんでも構わない! オリヴィアでさえなければ!
花のようなオリヴィアの笑顔と、彼女から受けた賞賛のような言葉に、エドモンドは途方にくれて毒づいていた。
一体自分が何をしたいのか、エドモンドには分からなくなってきている。珍しいことだった。彼はいつだって明確に目標をかかげ、忠実にその道を進む男だった。
彼女を引き離したいのか、それとも妻として受け入れたいのか。
もちろんエドモンドの真の願いは、オリヴィアを受け入れることに他ならない。太陽の光の下で彼女の耳元に愛をささやき、夜の帳に隠れて二人ですべてを分かち合いたかった。しかし、その後にくるであろう悲劇を思うと、エドモンドは足元から凍りついてしまう。
『バレット家の呪い』に科学的な証拠はなにもなかったが、エドモンドにとってこれは、肌の下にまで染み込んでいる『真実』だった。現実、といった方が近いのかもしれない。呪いが本当に存在する証拠はどこにもなかったが、かといって存在しない証拠もまた、どこにもないのだ。たとえオリヴィア自身が納得しているとしても、そんな不確かな賭けに彼女の命を賭けるわけにはいかなかった。
問題は──かといって、オリヴィアを他の男に渡すこともできないと自覚してしまったことだった。
ローナンの腕に彼女の胸元が触れそうになった瞬間。そして、ヒューバートの軽薄な唇が彼女の手にふれた瞬間も。
我慢できなかった。
我慢がなんたるものであったのかさえ、ほとんど忘れかけていた。
そして、法律で成り立っているだけの夫の権利を主張して、彼女を自分のものだと公言しているのだ。
エドモンドは世界の全てのものからオリヴィアを守る準備があった。──ただ一つ、彼自身からオリヴィアを守ることだけが、あまりにも難しかった。
*
背の高い夫の影が、カーテンから漏れる光によって板張りの床に投げかけられている。
オリヴィアは居たたまれない気持ちを抱えたまま、その影を目で追っていた──手には、エドモンドが選んだ桃色の生地があって、それだけがオリヴィアにわずかな勇気を与えてくれる。
いまのところエドモンドは険しい顔で彼自身の足元を凝視していて、オリヴィアと目を合わせることを極力避けているようだった。
しかし、今日の彼はいつもに増して気まぐれだったから、次に何をしだすか予想がつかない。
彼は、情熱的な恋人にもなれるし、傲慢な夫にもなれるようだった。
エドモンドが仕切りのカーテンの前に築いた椅子と足台の山に視線を移したオリヴィアは、生来の前向きさの助けを借りながら、いいことだけを考えてみようと試みた。
今日、エドモンドは街中でオリヴィアを妻だと公言して回ってくれた。
レースのドレスは気に入らないようだが、一緒に街を散策してくれたし、オリヴィアが好きだといった花の色を覚えていてくれた。
近く催される舞踏会の招待にも、夫婦でといって受けてくれたようだ……。
仕立て屋の女主人はオリヴィアの足元にひざまずいて、あれこれと忙しく採寸を行っている。一見、エドモンドとオリヴィアのやりとりには無関心を装っているが、二人の間で繰り広げられる感情や言葉のやりとりを一つでも見逃すまいと興奮しているのは、明らかだった。
この女主人に提供できるものがあったらいいのに、とオリヴィアは思うが、残念ながらエドモンドはオリヴィアよりも床のほうに興味があるようだし、むっつりと黙ったままだ。
しばらくしてから、ひざまずいていたマーガレットが立ち上がって、台の上のオリヴィアに向き直った。
「ドレスを脱いでいただけますか、マイ・レイディ?」
と、満点の笑顔で言う。
ずっと床を凝視していたエドモンドが、目を見開いて顔を上げた。
──彼は驚愕といっていいような顔をしていた。
「下着とペチコートは付けていらっしゃるでしょう? ノースウッド伯爵、どうかレディの髪を持ち上げていていただけませんか? すぐに終わりますわ」
エドモンドは、是とも否ともつかない謎の短いうなり声を上げた。
戸惑いながらも、オリヴィアはすぐ、言われたとおりにした。
マーガレットは手馴れていて、さっそく胸囲の採寸に取り掛かる。オリヴィアの背後にゆっくりと回ったエドモンドは、なにも言わずに流れる黒髪を持ち上げた。彼は後ろに立っているので、オリヴィアは直接その表情を伺うことはできなかった──が、その手がかすかに震えているのをオリヴィアは感じ取った。
ああ、小娘のドレス作りの手伝いをさせられて、男のプライドが傷付いているのだろうか!
まずいことだ。
とても。
しかし、彼の怒りがどの程度なのか知りたくて、オリヴィアは恐る恐る目の前の鏡をのぞいた。
背後にいるエドモンドの姿が、目の前の三枚の全身鏡にあらゆる角度で映っている。あらゆる……魔よけのガーゴイルのような恐ろしい顔をしたエドモンドが。
オリヴィアは恐れおののき、緊張しながら、なんとか必死で謝罪の言葉を考えだそうとした。
「ごめんなさい、ノ、ノースウッド伯爵……」
と、震える唇で、ゆっくりと提案する。「あの……ローナンに代わってもらいましょうか?」
ガーゴイル、もとい、エドモンドの反応は凄まじかった。オリヴィアは彼の額に青白い血管が浮き出るのを見たほどだ。
今夜は眠れないだろう。
「いいや、マダム──」
地の底から響いてくるような低い声で、エドモンドは答えた。
「その必要はない」
それから、採寸が終わって服を着直すまでの時間が、あり得ないほど長く感じられた。
すべてが済んだマーガレットは機嫌がよく、布地のほかに模様に使うビーズの種類をいくつか選んでそれをスケッチに加えると、仕切りのカーテンを勢いよく開けた。エドモンドが積んだ椅子は横にどけられて、小さな山となっている。
「では、私は上でお針子たちに説明をしてきますわ。ええ、舞踏会には必ず間に合わせてみせますとも。お知り合いになれて嬉しかったわ、オリヴィア。どうぞお好きなだけ店内を見て回ってくださいな」
そう言って、マーガレットは小さな螺旋階段を上がって上階へ消えていった。
──残されたオリヴィアは、いまだに険しい顔を崩そうとしない危険そのものの夫と二人きりにされて、どうするべきか分からずに立ち尽くしていた。
──解放されたエドモンドは、薄いレースのドレスに身を包んで水色の大きな瞳を潤ませながら自分を見つめている魅力的な妻を見下ろして、同じく、どうするべきか分からずに立ち尽くしていた。
時間はまたゆっくりと過ぎた。
太陽が傾きかけ、店の正面のガラス窓を通して明るい黄色の光が差し込んでくる。その光を浴びて、沢山の商品のせいで埃っぽくなっている店内の空気はきらきらときらめきを帯びた。
二人は立ち尽くしたままだった。
「どんなことになるか、あなたはまったく分かっていないんだ」
ぽつり、と。
エドモンドは言った。「分かっていれば今すぐにでも荷物をまとめて逃げているだろう。手遅れになる前に。私が今なにを考えているのか分かったら……」
大陸や東方から届いたのであろう、鮮やかな布の洪水の中に取り残された二人は、静かに向き合っていた。オリヴィアは少し疲れている。
エドモンドの胸は、興奮した深い呼吸のせいで盛んに上下している。
彼が、なにを考えているのか分かったら……?
たしかにオリヴィアは彼の胸の内を完全には理解していないのだろう。
でも、分からないけれど、
私は逃げないわ。
オリヴィアは思った──たとえ手遅れになっても。
「でも、教えて下されば、なにかお手伝いできるかもしれません。なにを考えているの?」
行儀よく前に両手を組んだまま、オリヴィアは夫に尋ねた。本当は彼の腕に手を触れたかったが……そうはせず。
答えを予想するのは簡単ではなかったし、そもそも答えてくれるかどうかも定かではない。しかし、なんでもいい、できることなら何をしてでも彼の力になりたかった。
エドモンドはしばらく黙ったまま深い呼吸を繰り返していたが、オリヴィアは辛抱強く答えを待っていた。
どのくらい待っただろうか。
多分、実家にあったバラ園を一周できるくらいの時間だ。
エドモンドは一度、口を開いてなにかを言おうとしたが、すぐに飲み込んでしまった。そして今一度大きく息を吸って止めると、今度はゆっくりと言葉を選びながら、吐き出すように言った。
「──文明人には許されないようなことだ、マダム。あなたに理性がひとかけらでも残っていたら、想像もできないようなことを」
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