Lord of My Heart 〜呪われ伯爵は可愛い幼妻を素直に愛せない〜

泉野ジュール

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Breakout - 3

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 奇跡は、願うよりも前に、それもさも当然のように起こった──。

 オリヴィアは水色の瞳をぱちくりさせながら、食卓を挟んで目の前にいる夫を見つめなおした。エドモンド・バレットかくありき、という感じの厳つい顔がこちらをじっと見ている。
 冗談をやっている雰囲気ではなかった。
 本気だ。
 エドモンドは本気で、オリヴィアを森へ誘っているのだ。
 正確なところ『誘い』とは違うのだろうが、とにかく、一緒に森へ行こうという趣旨のことを言っているのには違いない。

「私……」
 と、オリヴィアは震える声を絞り出した。
「嬉しいです。昼前に厩舎へうかがえばいいのですか?」
「私が玄関まで迎えに行こう。マギーに言って、昼食のバスケットを用意させておきなさい」
 エドモンドは唸るように答えた。

 昼食のバスケット! それを用意しろということは、つまり、オリヴィアの理解が正しければ、一緒に森で昼食を取ろうという意味であるはずだ。素晴らしい……突然、絶望の谷からすくい上げられて、天国の雲の上にぽんと乗せられたような気分だった。
 オリヴィアは頬を紅潮させ、仕掛け人形のように何度もうなづいた。
「ありがとうございます、ノースウッド伯爵」
 言葉の最後は、叫び出しそうな勢いだった。

 隣のローナンが不機嫌な顔を崩し、にやにやとしだしたのにも気付かないくらい、オリヴィアはすっかり興奮していた。
 いつのまにか──もしかしたら、オリヴィアはエドモンドの関心を掴むのに少し成功していたのかもしれない。まぁ、それは大袈裟だとしても、今から大きな一歩を踏み出そうとしているのは確かだ。
 オリヴィアはもっとお喋りしたい気分になった。
 どんな準備をすればいいのかとか、森の中にはこんな美しいものがあるだろうというような、何気ない会話をエドモンドと交わしたかった。
 しかしエドモンドはゴブレットに注がれていた果汁を一気に飲み干すと、素早く席を立った。

「では、失礼する」
 そう言って、ノースウッド伯爵エドモンド・バレット卿は食堂をあとにした。





 エドモンドは今朝の自分の判断について、間違っていたかもしれないと結論を出さずにはいられなかった。
 ──オリヴィアは馬に乗ることができた。
 それだけでも十分驚きだが、きちんと鞍まで付けられると言う。

「私は都会育ちですけど……」
 オリヴィアは言った。「乗馬だけはきちんと習いました。決まったコースしか駆けたことはありませんが、障害物飛びもしたことがあるんですよ」

 約束通り、昼前に屋敷を出たエドモンドとオリヴィアは、半時間もしないうちに森の辺縁に辿り着いていた。
 エドモンドは黒鹿毛の大きな雄馬にまたがり、オリヴィアは繊細な栗毛の牝馬に乗って、ゆったりとした常足で草原を駆ける。いくら乗れるといっても、オリヴィアの乗馬ペースはエドモンドのそれよりずっと遅かったが、それでも女性としては上出来なほうだ。当然、エドモンドはオリヴィアのペースに合わせて駆けた。

 朝露が乾き、芳しい緑の香りに包まれた森へ、二人はゆっくりと入っていく。
 平原に広がるこの高い杉の森は、妖精がさまよっていそうな神秘的で爽やかな森とは程遠く、どちらかといえば恐ろしい人食いゴーレムが奥でうごめいていそうな薄暗い雰囲気ではあったが……エドモンドにとっては幼い頃から親しんできた落ち着ける場所だ。
 エドモンドが馬の歩みを緩めて後ろを振り返ると、オリヴィアはきょろきょろと忙しく周囲に見入っていた。

「マダム、きちんと前を見て乗りなさい」
「えっ、あ、は、はい」

 慌てて手綱を握り直すオリヴィアは、白のブラウスに栗色のスカートという素朴な装いだった。
 縁が大きく取られた白い帽子をかぶっていて、木の葉のあいだからちらちらと漏れる日光から繊細な肌を守っている。例のハーブが採れる辺りまで入っていくと、エドモンドは馬を止めた。

 オリヴィアも、それにならって馬を止める。

 エドモンドは素早く馬を降りて、手綱を近くの木の枝に結ぶと、オリヴィアの側に颯爽と進んだ。そして彼女に手を差し伸べる。オリヴィアは驚いたように背筋を伸ばし、ぱちぱちと大きな水色の瞳をまたたいた。
 そして──ゆっくりとエドモンドの手を取る。

 二人は湿った柔らかい土の上に降り立った。
 バレット家の敷地内であるこの森に、他人が入ってくることは滅多にないから、ここは二人きりの世界だ。

 オリヴィアはまっすぐにエドモンドを見上げて、「ありがとうございます」と丁寧な礼を言った。




 ハーブ狩りは黙々と行われた。
 エドモンドがたいして喋らないのは今に始まったことではないが、オリヴィアが静かなのは珍しい。

 実は、オリヴィアは今朝からあまり具合がよくなかった。
 あまり食欲が湧かなくて、朝食も果汁を少し飲んだだけで終わらせていたし、時々意識がぼんやりとかすむのを感じていた。慣れない仕事を続けてきた疲れが溜まったせいだろうと、なんとなく分かってはいるが、かといって熱が出るほどではないので頑張れる。

 それでも、馬で駆けたそのさらに後で、気難しい夫との会話をひねくり出せるほどの気力は残っていなかったのだ。

 エドモンドは素晴らしい速さでハーブを摘んでいった。
 器用に雑草をかき分け、目ぼしいハーブを見つけると素手で取って、軽く土を落とすと綺麗に束にしてまとめる。エドモンドが手首ほどの太さの束を一つ作るあいだ、オリヴィアはハサミを使って二、三本取っている、という感じだ。
 オリヴィアは魔法でも見るように感心しながら、エドモンドの一挙一動を見つめていた。
 それに気がついたエドモンドが、ふと、静かに顔を上げてオリヴィアを見る。
 目が合うと、エドモンドは手の動きを止めてオリヴィアの全身をじっくりと眺めた。そして、しばらくの沈黙の後、ぽつりと言った。

「今日は、ここへ来るべきではなかったようだ」
「え……」
 すぐに言葉の意味が飲み込めず、オリヴィアは小さく口を開いたまま呆けた声を出した。
「あ……あの、ノースウッド、伯爵?」
 エドモンドは軽く頭を振って続ける。
「あなたはぼぅっとしているだけで、動いていない。さっきから精々、数本取っただけだろう」
「それは……」

 オリヴィアは焦ってもじもじと手を動かした。
 何か答えなくてはと思うのに、思考がおぼつかなくて答えがスムーズに出てこない。エドモンドが自分を責めている──そう思えて、オリヴィアの心臓はバクバクと高鳴りはじめた。
「それは……もちろん、ノースウッド伯爵ほど手際はよくありませんけど……」
 オリヴィアは手にしていたハサミをきゅっと握り締めた。「きちんとやっています。初めてだから、少し時間が掛かるだけで」
「マダム、私はそんなことを言っているのではない」

 ──『そんなことを言っているのではない』?

 オリヴィアは息を呑んだ。では、この人は一体、何をオリヴィアに期待していると言うのだろう。彼と同じ速さでハーブを摘めというのだろうか。それとも、野豚のように土に鼻を突っ込んで幻のトリュフでも探し出せというのだろうか?

 オリヴィアは頑張っている。
 少しくらい具合が悪くても、エドモンドに喜んで欲しくてここまで来たのだ。
 それを、ちょっと仕事が遅いからといってこんな風に責められるのは心外だし、だいたい理不尽にも程がある。オリヴィアが野良仕事の達人ではないことくらい、彼は結婚前から承知のはずだ!

 なぜか無性に悔しくなったオリヴィアは、興奮と疲れとでくらくらとする身体を叱咤して、ハサミを掴んだまま真っ直ぐに立ち上がると、声を上げた。

「ノースウッド伯爵……もう、沢山です! 私は、あなたの知性を、う、疑います!」

 声が上ずったが、オリヴィアは続けた。

「もちろん、私を追い出したくてわざと意地悪を言ってらっしゃるなら、素晴らしい手腕だわ。確かに実家に帰りたい気分になります。でも今は、ただハーブ狩りに来ただけです。私たちは協力するべきだわ! そんな頭ごなしに叱るのではなくて、やり方くらい教えて下さってもいいじゃないですか!」

 そして、持っていたハサミをパシッと土の上に投げつけた。
 目頭の辺りが急にじんじんとして、涙が出そうになるのをこらえるために何度も目をしばたたいたが、効果はなかった。大粒の涙が次から次へと流れてきて、オリヴィアの青白い肌を濡らしていった。

 ──もう嫌だ。
 最近、ずっと泣いてばかりの気がする。

 オリヴィアは元から気の強い性質とは違ったし、人よりも涙腺の弱い自覚はあった。たとえば飼い猫が病気になったとか、大切にしていたバラの木が枯れてしまったとか、悲しい物語を読んだりしたとかだけで泣いてしまう。昔からそうだ。
 しかし、楽天家でもあった。
 こんな風に毎日毎日泣き続ける生活なんてしたことがない。いつだって、悲しみの中に希望を見つけることができた。でもエドモンドにはそれが通用しない。
 どれだけオリヴィアが頑張っても、こうして端から否定するばかりで──。

「あなたは、何も教えてくれないわ! それは、すごく……馬鹿みたいなことです。誰のためにもならないんですから!」

 もう終わりかもしれないと、オリヴィアは思った。
 ついに、彼が与えてくれた一月の猶予と機会を、自分で壊したのかもしれない──。

 でも今は我慢することが出来なかった。身体の具合が悪いのにくわえて、久しぶりの乗馬、はじめての森。オリヴィアの理性を乱す理由がいくつもあった。おまけに、エドモンド自身が森まで付き合ってくれるということで、過剰な期待をしていたのだ。

 愛を語り合うとまではいかなくても、二人きりで、自然の中で穏かに過ごせるのではないかと。それをエドモンドときたら、まるで誰かと競争でもしているかのように黙々と仕事をするだけ。おまけに、オリヴィアの仕事が遅いと、まるで使用人に対するように責める。

 悪魔だ!

 エドモンドはしばらく棒立ちになっていた。
 土で汚れた手をはたきもせず、立ち尽くしたまましくしくと涙を流すオリヴィアを、離れて見つめていた。
 泣いているオリヴィアはいつもより一回り小さく見えて、儚げで、エドモンドの胸の中を大きくかき乱した。

 ──この小娘は何もわかっていない。

 まるで傷つけられたのは自分だけだというように泣いて、言いたいことだけを言って、エドモンドを責めている。
 違う、違う、違う──。
 エドモンドは、オリヴィアを傷付けたくないだけだ。何も言わないのではなく、言えないのだ。
 オリヴィアは可愛い。オリヴィアは美しくて純粋で、夫に尽くそうと一生懸命努力している姿は、強く彼をそそる。だから、いけないのだ。バレット家の呪いに、彼女を傷付かせるわけにはいかない。
 それなのに彼女は──。

「私は……あなたがぼうっとしているのは、具合が悪いからだろうと言いたかっただけだ。朝もほとんど食べていないだろう」
 エドモンドは食いしばった歯の間から押し出すような低い声でそう言った。
 オリヴィアはぴくりと肩を震わせ、涙を止めて瞳を大きく見開いた。
「え……?」
「この先にゆっくり休める場所がある。そこへ行こうかと言いたかっただけだ」
 そして、エドモンドはオリヴィアに背を向けると、足元に転がっていたハーブの束を持ち上げて、馬に乗せていた布袋にそれらを乱暴に詰め込んで──そのまま動かなかった。

(……え……と)
 オリヴィアも動けなかった。

(朝? 見ていて……くれたの……?)
 朝、オリヴィアがほとんど食べられなかったのは、ローナンでさえ気に留めていなかっただろう。ローナンなら、気付けばそう言って心配してくれるはずだ。
 食事時は、エドモンドとオリヴィアが顔を合わせる数少ない機会の一つで、エドモンドはいつも厳しい顔をしてオリヴィアを睨んでいるだけだった。だから、オリヴィアの様子や具合を心配してくれているようには、とても見えなかったのだ。

 しかし、ローナンでさえ気付かなかったことを、エドモンドは気付いていた。

 もしかして……。
 もしかして、だが、あれは別に睨まれていたわけではないのだろうか。そう、例えば、エドモンドは視力に問題があるとか……。

「ノースウッド、伯爵……」
 と、オリヴィアはエドモンドの背中に声をかけた。
 どこか孤独にも見える大きな背中が、さらに強張り、オリヴィアの声に反発するように固まる。──ああ、これだ、とオリヴィアは思った。

 エドモンドは時々、とても寂しく見える。
 背が高くて、逞しくて、アポロンを思わせる精悍で鋭い顔をしている、北の大地の若き領主さま。それなのに彼は、時々、迷子になった子供のように寂しそうにみえる。

 そのたび彼は、オリヴィアの心をくすぐるのだ。どうしようもないくらい強く。

「実は……昼食のバスケットは、私が用意したんです。マギーじゃなくて……」
 オリヴィアは言った。
 エドモンドは、やはり、動かなかった。
「変なことを言ってごめんなさい。許してくださるなら……その、休める場所へ行って、一緒にお食事をできたらと思うのですけど……」

 すると、エドモンドはついに視線を足元に落として、何かオリヴィアには聞こえない台詞を呟いていた。
 オリヴィアは辛抱強く答えを待った。
 しばらくすると、やっと、「分かった」というエドモンドの声が聞こえた。渋々、という感じではあるが、肯定には違いない。オリヴィアは涙の名残を手で拭うと、鼻をすすりながら、エドモンドのそばにゆっくりと近寄った。

「行きましょう、ノースウッド伯爵」

 オリヴィアの手がエドモンドの腕に触れると、彼は振り返ってオリヴィアを見下ろした。
 ノースウッド伯爵、エドモンド・バレット卿──その緑の瞳が、どこか潤んで見えたのは、森が見せた幻想だったのかもしれないけれど。

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