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『思慕』
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しおりを挟む『今だけお許しください』
どれだけこの台詞が自分の心と外れたところにあるのか、景は気が付いていた。
そして、これほどまでに鼓動がはやる理由が、今ここで、景の隣を歩いている男だということにも、薄々気が付いていた。
義母が現れてからというもの、景の人生は色を失い、すべてが灰を被ったように重苦しいものになっていたから、こんなふうに誰かに心をそそられる体験は本当に久しぶりだった。どこの誰だか知らないが、景を襲おうとした暴漢に、ほんの少し感謝したいくらいだ。あの時は本当に恐ろしかったが、千代を尋ねたあと、景は落ち着きを取り戻していた。
そして、鬼の存在に安らぎを見いだしていた。
暴漢そのものと同じように、鬼はまったく予想のつかないところから、いきなり稲妻のような早さで景の前に現れた。そして戦った。
景に詳しい剣術の知識はなかったが、それでも鬼が素晴らしく強いのだけは分かった。
彼の着物の衿からのぞく首はそれだけで力強く、袖から出ている腕のなんとたくましいことよ。濃い紺の着物はそれなりに上質のもののように思えたが、彼の強靭な肉体を隠しきれてはいない。
そして、彼の瞳。
彼の声。
彼はあまり喋る人ではないようだったが、沈黙ですべてを語るような、とらえどころのない存在感を放っていた。景はそれに恐れを感じるよりも、安心を見いだしているのだ。どうしてか理由は分からないが。
鬼、とは難儀な名前を与えられたものだ──しかし、景が心惹かれたのは、その名を口にしたときの鬼だった。
恥じ入ることもなく。
おのれを憐憫するでもなく。だからといってその名を高々と自慢するわけでもなく。ただ、おのれにはそういう名があるのだと淡々と告げた鬼には、他の人間にはない特別な心があるように思えた。高貴で、誇り高い、そんな。
名前などを越えた、その堂々とした姿。
それに、景は憧れを感じた。
自分もこれくらいに強かったら、これくらいに堂々とできれば、あの屋敷での生活ももっと明るいものになっていたかもしれないのに。もっと自由なものに、なっていたかもしれないのに、と。
そこまで考えて、景ははっとし、その考えを振り払うように頭を振った。
いくら命を助けてくれた恩人とはいえ、鬼に憧れを抱くようなことをしてはいけない。もちろん鬼だけではなく、他のすべての男性にも、だが。
景はすうっと息を吸い込み、頭の中に溢れていた鬼への関心を整理し、横にどけようと試みた。しかしその時、ふと鬼へ視線を戻すと、彼の瞳がじっとこちらを見下ろしているのに気が付いた。
景はそれに魅入った。まるで夜の闇のような瞳だ。
ひどく暗いのに、じっと目を凝らして覗き込めば、小さな星が幾千も輝いているのが覗けそうな深さがある。景はこんな瞳を持つ者を他に知らなかった。知らなかったのに、なぜか懐かしいような気もした。
「どこか痛めたのか」
と、鬼は唐突に尋ねてきた。
景がしばらく黙って考え込んでいたのを、なにかの痛みに苦しんでいるのだと勘違いしたのだろうか。慌てて、景は首を横に振った。
「いいえ、大丈夫です。わたしは転んだだけですから……あなたこそ、どこかお怪我はありませんでしたか?」
言いながら、景はまったく鬼のことを案じていなかった自分に恥じ入った。
鬼はあまりにも堂々としていて、まるでなにも起こらなかったかように冷静で、暴漢と戦ったあとも一つの焦りさえ見せなかったから、景はすっかり失念していた。本来なら、助けてもらった景よりも、暴漢と死闘を繰り広げた鬼のほうが心配されるべきであるのに。景はなんと思慮の足りなかったことか。
景がじっと鬼から目を離せずにいると、鬼はなにか、顎のあたりを固くした。それは──景の直感が正しければ──鬼流の、驚きを表す表情のように思えた。
「ない」
鬼は短く答えた。
それでも景は、心配げに鬼を見つめ続けた。
「ない」
鬼はもう一度繰り返した。そのとき景は、鬼がなにかに堪えるように、ずっと拳を強く握り続けているのに気が付いた。
ふたりが屋敷にたどり着いたとき、時刻はまだ昼前で、門の前には何人かの使いの者たちが忙しくしているところだった。ひとりが、鬼と景を見とめると頭を下げる。
「お父さまは屋敷にいらっしゃいますか?」
景が聞くと、使いのひとりはええ、と答え、うなづいて門の先を視線で示した。景は礼を言い、鬼と一緒に門をくぐった。いつもこの門をくぐるときは心が深く陰るのに、今日はそれがない。
隣に鬼がいるという、それだけのことが、景に強さを与えてくれているのだろうか。
名前以外ろくに知らない彼が、こうして景を助けてくれているのは皮肉なことだ。景の父はなにもできないというのに。
「景です、お父さま。ただいま帰りました」
玄関から入り、庭に面した廊下を静かに歩き、父がいるはずの間にたどり着いた景は、閉じられた襖の前で正座をしてそう告げた。
答えてくれるのが父でありますように。
義母では、ありませんように。
景は重い気持ちでそう祈ったが、聞こえてきたのは甲高い女の声だった。
「入りなさいな」
これが、いかにも偉そうな命令口調に聞こえてしまうのは、景の心がひねくれているからだろうか? この義母の言うこと成すことすべてに胸が痛むのは、父を取られたという嫉妬からくるのだろうか?
景は、もうずいぶん長い間苦しんできたので、痛みを意識しなくなってきていた。しかし赤の他人である鬼が隣にいる今、景はほんの少しだけ、違和感を感じた。胸がちくりと痛む。
景が正座をしたまま襖を開けると、中には帳簿のようなものを前にした父と、それに寄り添う義母・おきくがいた。
「まぁ、お景さん、ずいぶん長くお出かけなさっていたことね」
「申し訳ありません。道中、少し、事故にあったのです」
「まあ、事故」
おきくはケタケタと笑っていた。
「それはずいぶんと不注意だったことね。それで、そちらの殿方はどなたかしら? さしずめ、あなたが着物を汚してしまったお侍さんというところかしら?」
我慢しなさい、景。
景は、そう自分に言い聞かせながら深く頭を下げたあと、隣にたたずむ鬼を見上げた。彼は立ったままで、正座していない。まだ実際に聞いた訳ではないが、鬼は刀を携帯しているのだから、武家の出だろう。商人の景たちに敬意を見せる必要はないのだ。
景が事情を説明しようと口を開きかけた、そのとき、
「お前たちの娘は、何者かに命を狙われている可能性がある」
と、鬼が横から口を挟んだ。
いままで黙っていた父が目を剥き、「なんだと?」と声を上げた。しかし、父以上に驚いたのは景本人だった。
「彼女を襲った暴漢は、間違いなく彼女だけを狙って刀を抜いていた。その腕といい、やり方といい、裕福そうな人間を狙っただけの通り強盗などではない。最初から彼女を殺す目的を持った玄人の仕業としか考えられぬ」
あんぐりと口を開けたままの父に、緊張した顔を見せるおきく。
景も呆然として口を開きかけたままでいた。
鬼だけがひとり冷静で、彼の声は、まるでこの場に響く唯一の音であるかのように支配的だった。鬼の鋭い視線が、景の父、そしておきくへと移る。
穏やかでない空気が四人の間に流れた。
「とにかく、中に入りなさい、景。そしてそちらは……」
なんとかそう告げた父は、鬼の顔に視線を向けて、彼をどう呼んでいいのか躊躇していた。景も、わずかながらに緊張した。たとえ景自身は鬼の名前に親しみを持っていたとしても、他の人間がこれをどう取るのかは分からない。特に、義母のような意地の悪い人間は。
「鬼と申す」
鬼は短く名乗った。濁りのないはっきりした声で、表情も変えない。
そして、
「──偶然、この娘が襲われそうになるところに出くわした」
とだけ言い加え、ちらりと景の方へ視線を落とした。
「そ、そうです。彼がわたしを救ってくれたのです。襲われそうになったところを、彼が刀を抜いて暴漢と戦ってくださいました」
景は慌てて姿勢を正し、鬼が言い及ばなかった彼の英雄的行為を説明した。
きっと鬼は、声高に自分の武勇伝を語る男ではないのだろう。そんな気がしていたし、実際に鬼は千代にもなにも語らなかった。
父はそんな鬼の気高さに関心したようで、「入りなさい、入りなさい」と鬼と景のふたりをうながした。鬼は景が立ち上がるのを待ち、ふたりは並んで部屋の中に入った。鬼が後ろ手に襖を閉める。
ふたりが父の前に座ると、おきくは居心地悪そうに姿勢を正し、さらに父にすり寄りながら景に恨めしそうな視線を流した。なるほど、おきくは美しい女だろう。しかし景を見るおきくの目は憎悪を隠しきれていなくて、まるで妖のようだ。
鬼はそれに気が付くだろうか。
気付いて欲しいと、なぜか景は願っていた。
「それで、その暴漢の輩はどうなったのだろうか」
そう尋ねる父の声には、鬼がもうその不埒な輩を成敗してくれたのではないかという希望が込められていた。そうだったら良かったと景も思う。しかし暴漢は逃げた。
「無傷だ。かなりの腕前だったゆえ、仕留めることは叶わなかった」
抑制のきいた声で鬼は答える。
父はうなり声のようなものを漏らし、立ち上がった。
「つまりその輩はまだ城下をうろつき、わたしの娘の命を狙っている可能性がある、と」
「そういうことになるだろう」
「どうするべきだろうか?」
父は優秀な商人であり、景のことを愛してくれている。少なくとも、彼なりには。しかしおきくがどれだけあからさまに景を嫌悪していても、『我慢おし』の一言ですべてを片付けようとする、気の弱さがあった。
まさか刺客に命を狙われているかもしれないひとり娘に我慢しろとまでは言わないだろうが、どこまで真剣に景を守ってくれるのかは未知数だ。景はなにか言うべきだと分かっていたが、上手い言葉が見つけられないで黙っていた。
すると、おきくが先に口を挟んだ。
「まぁ、あなた、気のせいということもあるではありませんか。やはりただの通りの強盗だということも。お景さんはうっかりしていらっしゃるから、そこを狙われただけなのかも」
景はきゅっと唇を噛んだ。
おきくは続ける。
「しばらく屋敷から出ないようにすれば、それでいいではないですか」
鬼も黙っている。
彼は怖いくらいに無表情だった。まるで能面のように動かない顔つきは、一体、彼は心というものを持っているのだろうかと疑わせたくなるほどの冷たさを放っている。しかし、景は感じていた。
彼の心は冷ややかな瞳の下に眠っている。
ドクリドクリと生々しく脈打ちながら、目覚めの時を待っている。きっと感情をあらわにしたときの鬼は、想像もつかないほど激しい人なのではないだろうか。
しかし、偶然助けただけの商人の娘に、鬼がその心を動かしてくれるわけもなく。
「そうだろうか、だがしかし……」
口元に手を当てて、難しい顔をした父はそう呟いていた。
おきくはさらに一押しする。
「不用意に外に出たりするからそんな目にあったのですよ。屋敷にいればなにが起るというのです? 警備もおりますわ」
「警備」
「そうですわ。何はともあれ今回は無事だったのですし、今後しばらく屋敷から出なければいいのです」
おきくが、景を屋敷に引き止めておきたがっているのは周知の事実だ。
景姫と呼ばれ町人たちに慕われている彼女を、おきくは強く嫉妬している。景など屋敷の奥の日の当たらない暗い部屋に閉じ込めておいて、時期が来ればどこぞの商人と政略結婚をさせて儲けようと思っているのだろう。
「警備、そうか」
やっと父の口調に生気が戻ってきた。
「鬼殿と仰ったか。貴殿は武士であられるか」
「下士ではあるが、左様」
「ここ数年、この藩に戦争はない。仕事にあぶれている浪人も多いと聞く」
「お父さま!」
妙なほうに話が進みはじめ、焦った景は声を上げた。
鬼には礼金を渡して礼を言えばそれで終わりだったはずだ。そのために鬼はここまで付いてきてくれたのではないか。これ以上、彼を巻き込むべきではない。
しかし父は続けた。
「黙りなさい、景。鬼殿、賃金は言い値を出そう。ほとぼりが冷めるまで、景の警護をして頂けないだろうか」
景は唖然として息を呑んだ。
おきくは顔を強ばらせ、言葉を失っていた。
鬼は──鬼は、やはり能面のように冷たく父を見据えたままでいた。
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