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第二章 君という名の星
亀裂 3
しおりを挟むハイデン……。
狡猾で、それでいて臆病者な、デラールフの実兄だ。
センティーノ兄弟は似ても似つかない。ハイデンの髪は豊かな黒で、背もそれほど高くはなく、どちらかといえばほっそりとした優男風情だった。
デラールフの白髪、戦士のような屈強な体躯、触れたら焼かれてしまいそうな厳格なたたずまいとはすべてが真逆だ。
「……なにをしているんだい、ローサシア?」
弟を無視したハイデンは、猫なで声でささやく。
デラールフは立ち上がった。笑うのをやめて真顔になったローサシアが、安楽椅子の上で背筋を伸ばして座り直す。
「遊んでいただけよ」
と、ローサシアは短く答えた。
「へえ? デラールフのような気狂いの化け物と遊んで、楽しいことなんてあるのかい? 遊び相手が欲しいなら、こんなボロ屋じゃなくてうちに来ればいいんだよ。僕がもっと楽しいことを教えてあげる」
ハイデンの声には皮肉がたっぷり込められていた。
──あまりの嫌悪に、寒気がした。
たしかに両親とハイデンの暮らしている母屋は、増改築を経てかなり見栄えのする建物になっている。しかしそれは、あくまでもデラールフの労働の賜物だった。もっと努力すれば……もっと貢献すれば、認めてくれるかもしれないと……虚しい希望を抱いていた過去のデラールフが築いた、愚かしい努力の結晶。
くわえて、ローサシアのそばから離れられないでいるデラールフは、今もその道化役を演じ続けている。
それを両親とハイデンはさも彼らの手柄のように誇り、デラールフを冷遇し続けていた。
それ自体はどうでもいい。
しかし、それをローサシアの前で口にされるのは、また別の話だった。
兄の前に向かおうとするデラールフを遮るように、ローサシアが立ち上がった。そして鋭くハイデンを睨む。
「口に気をつけた方がいいわ、ハイデン。お父さんがいつも言っているもの。悪口は鏡そのものだって。ひとの悪口を言うと、自分がその悪口そっくりになっちゃうのよ」
お前も『気狂いの化け物』になるんだと匂わされて、ハイデンは顔を歪めた。
ローサシアの態度は堂々としたものだったが、しょせん彼女は十歳の少女で、ハイデンは二十歳を超えた成人男性である。
怖くないはずがない。その証拠に、ローサシアの手は関節が白くなるほどきつく握られていた。
ハイデンはフンと鼻を鳴らし、横目でちらりとデラールフをねめつける。
「ローサシア。君はもう十分大きくなったんだから、こんな場所にひとりでいたら評判に傷がつく。それこそ君のお父上も、望んでないことじゃないかな」
言葉の上ではローサシアに向けての指摘だったが、ハイデンの真の標的はデラールフだ。
自惚れでもなんでもなく、デラールフは知っている──デラールフと一緒にいられるなら、ローサシアは評判など気にしない。
しかし、デラールフは、ローサシアの『評判』を気にする……。
彼女が自分のせいで周囲から冷遇されるのは、耐えられなかった。そんなふうにローサシアの足枷になるのは、許せなかった。
「わたしは評判なんて気にしないわ。お父さんだってわかって──」
案の定、ローサシアはハイデンに反論しようとした。
「ローサシア」
ローサシアの肩をつかんだデラールフは、彼女を背後に押しやった。こんな時は、自分の大柄な体がありがたかった。
「……そろそろ女学校に行く時間だろう。家に戻るんだ」
素っ気なく、ボソボソとした低い声でささやいただけにもかかわらず、ローサシアはバネに弾かれたようにデラールフの言に従った。エプロンを丸めて、ハイデンをすり抜けて玄関から出ていく。
そう……ローサシアはデラールフの心を読むことができた。
彼は本気だと、彼女はきちんと理解したのだ。
パタンと乾いた音がして玄関が閉まり、居間にはセンティーノ兄弟が残された。
次にどうやって弟をいたぶろうかと計算しているハイデンの目は、毒蛇そのものだった。ハイデンは醜男ではない。しかし、こういう表情をした彼は醜悪だった。
「どんどん綺麗になっていくな、あの子は」
舌舐めずりせんばかりのねっとりとした口調で、ハイデンは指摘した。
「この集落でも、町でも、あの子を狙ってる男は多い。イーアン・サリアンは変わり者の学者崩れで持参金もたいしてないだろうから、もう少し成長したら娘を馬みたいに競りにかけるんじゃないかって噂もあるよ」
肌の裏を、どす黒い怒りが駆け巡る。
それでもデラールフは黙っていた。これはただの挑発だと、わかっていたからだ。イーアンは娘の幸せのためながらどんな犠牲でも払うだろう。デラールフがそうするのと同じように。それを誰よりも知っているのはデラールフだった。
だから、動じたりはしない。
しかし……。
「そういうことになったら、ぜひ僕も名乗りをあげたいね。僕はなかなか有利じゃないかな。なんせすぐ隣の家に娘が嫁ぐんだから」
ハイデンは毒蛇だ。普段は草むらに隠れて表に現れないくせに、ひとが隙を見せると、鋭い歯で噛みついてくる。
──イーアンはまるでデラールフを実の息子のように可愛がっている。
裏を返せば、イーアンがデラールフに求めているのはあくまで、ローサシアの『兄』なのだ。決して『夫』ではない……。
「ほらほら、そういうトコだよ」
ハイデンは口元に手を添えて、くつくつと笑う。
デラールフの瞳は赤く発光しはじめていた。《能力》を最大限に強めるとき、そして感情がひどく高ぶったとき、デラールフの瞳は不穏な炎の色に光り出す。
昔からそうだった。
家族がデラールフを受け入れられないのも、イーアンがデラールフに求めるのはあくまで娘の庇護者であって、伴侶ではないのも……よく考えれば当然のことだ。否、考える必要さえない。誰にとっても、結局、デラールフは道化にすぎないのだ。
道具。
──ローサシア以外の、すべての者にとって。
「なんだよ。そんなふうに凄んで、どうするつもりなんだ? 母さんの手みたいに、僕のことも焼くつもりかい?」
ピシリと音を立てて、デラールフの心に乾いた罅が入る。
カアサンノ テ ミタイニ。
ボクノ コトモ。
……ローサシア ノ コトモ。
己のなにを捨てれば、この《能力》という名の重荷から解き放たれるのだろう。怪しい光を放つ目をくり抜き、火を灯す手を切り落として、この心臓を貫けば、すべてが止まるのだろうか。
ただ、少しばかり歳の離れた幼なじみの少女を愛しているだけの、平凡な男になることが……できるのだろうか。
デラールフが十分に傷ついたことを確認したハイデンは、勝利の薄笑みを浮かべて小屋を出ていった。
ひとりきりの空間で、デラールフは拳を握る。
天に祈ることは、もうとっくに放棄していた。
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