死者の恋

泉野ジュール

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第二章 君という名の星

運命 3

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 ──デラールフ15歳、ローサシア7歳──


 七歳頃になると、ローサシアは急に大人びてきた。
 さらさらと流れるまっすぐな黒髪。透き通るような白い肌に、少女独特の細身な体はしなやかで、蝶のように軽やかに動き回る。
 そして息を呑むほど美しい、薄い水色の瞳……。

 集落の男たちは早くも、ローサシアを未来の花嫁にと、夢想しはじめていた。

 対するデラールフも声変わりを迎え、大人への階段を着実に上りはじめていた。
 ──さまざまな意味で。


 * * * *


「デラールフ、どうして入らないの? 今日は元気ないのね。またお腹すいているの?」

 それは春の終わり、初夏を迎える手前の晴れた日の午前中で、ふたりはいつもの森の奥にある、小さな泉のほとりにいた。
 切り立った岩肌がそびえる高い崖から、細い滝が流れている場所がある。その滝の下にはささやかながらも泉ができていて、泳ぐことができた。

 ここはふたりの秘密の場所だった。
 毎年気候が暖かくなると、ふたりは下着一枚でいつまでも泳ぎ回り、戯れ合い、笑い合った。しかし……

「ローサシア」
 警告を込めた声で、デラールフは少女を呼んだ。「今日は……俺は入らない。向こうで仕事をしているから、なにかあったら呼ぶんだ」

 薄いワンピース型の下着一枚で泉に入り、水面をたゆたっているローサシアは、顔だけ水面から出してデラールフの様子をうかがう。
 デラールフは彼女に背を向けていた。
 向けるしかなかったのだ、今は。

「そんなに大事なお仕事があるなら、わたしも手伝うわ。水から出てもいい? 温めてくれる?」
「ローサ」
 デラールフは低くうなって、それ以上なにも説明しなかった。ローサシアは肩をすくめるとクルリと背を向け、水泳に戻った。

「変なデラールフ。いいもん。もう少し泳いだら出るから、そうしたら温めてね」

 デラールフとローサシアは幼なじみで、兄妹で、親友同士で、家族で、お互いの運命の相手だった。誰になにを宣言したわけでも、特別な告白があったわけでもない。
 ただ、そうだという事実が、どんな物理的証拠より確かにあるだけだった。

 ローサシアはデラールフの声色や仕草から彼の心を読み取ることができる。だから、ふたりの間で、言葉はあまり重要ではなかった。

 ふたりきりでいる時、デラールフは他の者に対するよりもずっと饒舌だった。が、だからといって口数が多いわけではない。ローサシアはそれを理解している。
 今、デラールフは言外に『なにも聞くな』と伝えているのを、ローサシアはよくわかっているのだ。

 パシャパシャと水面をかき分ける軽やかな水音を聞きながら、デラールフは掌に火を召喚し、それを剣のように鋭利に整形した。
 この歳になると、この程度の術の施行で頭痛に悩まされることはなくなっていた。

 デラールフの《能力》は年々力を増していく。
 その真の威力を知っているのはローサシアだけだった。

 腕を前に伸ばす。「ハッ」と小さい掛け声を漏らすと、剣の形をした炎は宙を飛び、見る間に一本の大木の幹を襲った。
 木が炎に敵うはずがない。
 百数年の樹齢を誇ると思われる大木はデラールフの炎剣に屈し、メリメリと悲鳴のような音を立てながら大地に倒れた。

「あんまりたくさん切り出しても、持って帰るのが大変になっちゃうのに」
 ローサシアはすいすいと泳ぎながらつぶやく。

 彼女にとって、デラールフのこの程度の《能力》を目にするのは、日常茶飯事だった。だから驚きもしない。口数だけではなく《能力》に関しても、デラールフはローサシアの前以外ではほとんど使わなかった。
 逆に言えば、ローサシアの前では、遠慮することはなかった。

「いいんだよ。俺のやることに口を挟んでいる暇があったら、家に帰って勉強でもしたらどうだ?」
 泉に背を向けたまま、デラールフは言い返す。

 ローサシアは読み書きを教える女学校に通いはじめたばかりだったが、そのせいでデラールフと過ごす時間が減ると、何度も不満をこぼしていた。
 どうも勉学も好きになれないらしい。教師が偏屈で、能力者であるデラールフと親しいローサシアに、嫌味を言ってくるとか……。

「いじわるデラ!」
 可愛い悪態をつくと、ローサシアは滝が水面を打つ場所へ向かう。滝は細く、水流は穏やかなので、ローサシアのような少女でも滝に打たれるのを楽しむことができた。

 デラールフは炎を刃のように操り、大木を作業しやすい大きさと形に切り出していく作業に熱中した。──少なくとも、熱中しようと努力した。

 デラールフは十五歳になっていた。
 大人の入り口だ。
 この頃、ローサシアを前にすると時々、下半身のある部分が過剰に反応して固くなることがあった。この衝動の正体をデラールフは理解している。そして嫌悪していた。
 当然だ──ローサシアはまだ七歳で、妹で、家族で、親友なのだから。

 しばらくすると、切り出された大量の木材の山と、泳ぎ疲れたローサシアがデラールフの前にできあがっていた。

「もう疲れちゃった。少し寒いし、出てもいい?」
 寒い、という訴えを聞いて、デラールフは素早く振り返った。
 濡れそぼった下着がぴたりと肌に張りついたローサシアが、水面から上半身を出してデラールフを見つめている。

 水色の瞳はデラールフにいつも通りの『炎』を期待して、揺れていた。

 ──くそ、くそ、くそ。
 ローサシアはたった七歳の少女だというのに、一人前の女のようにデラールフの心を乱した。いつか彼女がもっと成長して、年頃にでもなったら……デラールフはどうなってしまうのだろう。大陸中に生き恥をさらすような羽目になる気がしてならない。

 それでも……ローサシアを愛するのをやめることは、できそうになかったけれど。

「……わかったよ。ただ、先にタオルで体を拭いて、巻きつけておくんだ」
「どうして? いつもこのままなのに?」
「今日からはずっとそうしてくれ。お前はもう赤ん坊じゃないんだ。俺だっていつまでも子供じゃない。慎みくらいは持ってくれ。気色悪いから」

 最後のひと言は余計だった。
 ──わかっている。ただ、愚かで若すぎるデラールフは、他に器用な言葉を見つけられなかったのだ。
 ローサシアは傷ついたように息を呑んだあと、唇をとがらせてねてみせた。が、大人しくデラールフの言に従い、白いタオルで肌を拭くとそのまま胴に巻きつけて、泉のほとりに立った。

 デラールフは彼女と向き合った。

 ふたりの身長差は頭ふたつ分近くある。ふたりには八年の年齢差があるうえに、デラールフはすでに大人と変わらない長身で、ローサシアは年齢のわりに小柄だった。

 口の中に湧いてくる唾をごくりと呑み下したデラールフは、胸の前に両手を差し出した。
 掌の中にポッと火が生まれると、それは大きな卵のような楕円形になって、ふわりと宙に浮く。ローサシアはその様子を静かに眺めていた。
 そして、小さくうなずいた。

 火の卵はすぐにローサシアの全身を包んだ。赤かった紅炎はじょじょに色を落とし、薄い桃色の光となって柔らかく少女の肌を温める。
 デラールフが作り出した炎の繭の中で、その肢体から緊張をほどいていくローサシアは、神々しいほど美しかった。

 この技はかなりの集中力を要したが、文句を言ったことはなかった。
 冷えたローサシアの体を温めるだけの火力と、彼女の肌を傷つけないようにする緻密さと。

 わずかな頭痛が襲ってくるが、ローサシアの髪と下着が完全に乾くまで、デラールフは耐えた。まだ初夏と呼ぶにも心許ない季節で、濡れたままでは体を冷やしてしまう。そんなことは耐えられなかった。

 本来なら、ほとんど時間はかからない術だ。
 しかし、自分の紡ぎ出す熱にうっとりと身を寄せるローサシアをいつまでも見つめていたくて、デラールフはしばらく彼女を炎の殻の中に閉じ込めていた。
 その時。

「熱……っ」

 小さな声が聞こえて、デラールフは我に返った。
 同時にパチンと弾けるように炎が消え、乾いた髪と下着、そして火照った肌のローサシアが目の前にいた。パニックがデラールフを襲った。

「火傷をしたのか?」
「え、う、ううん。してないわ。どうして?」
「『熱い』と言っただろう」

 ローサシアに駆け寄ったデラールフは、赤ん坊の頃そうしていたように、彼女を片手で持ち上げて腕に座らせる。
 むき出しの細い手足。透き通るような白い肌。人形のような顔立ち。
 彼女に火傷がないことを確認しながら、そういった誘惑に目を向けないのは至難の技だった。畜生。

「違うの……。すごく気持ちよくて、ヒリヒリするくらい温かかったから、声が出ちゃっただけよ」
 ローサシアの手が、デラールフの髪を梳く。

 誰もが気味悪がるデラールフの白髪を、ローサシアはいつも愛しんだ。この髪色は悪魔の血のせいだとか、すべてを焼き尽くすデラールフの罪を象徴しているだとか、悪しざまに噂する者は多い。しかし、デラールフのローサシアは違った。

 肩までの長さのある白髪に唇を寄せると、ローサシアは『兄』の首に両手を回して抱きついた。そしてささやく。

「でも、デラールフの炎にだったら、焼かれてもちっともかまわないのよ」

 ──このままでいいはずがない。
 ──このままでいいはずがない。わかっている。

 しかし、ローサシアはまだ七歳だった。デラールフだって、まだ本当の意味での大人ではない。だから今は……。
 今だけはまだ……。

 デラールフはしがみつくローサシアを抱き返し、彼女のまっすぐな黒髪からわずかにただよう、炎と森の香りを吸い込んだ。
 そして目を閉じ、この瞬間が永遠になることを願った。

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