Dear You

泉野ジュール

文字の大きさ
上 下
23 / 25

23. The First Letter

しおりを挟む


 アナトールは苦痛が治まるのを待っていたが、いつまでたっても痛みは静まるどころか、徐々にその勢いを増していき、彼の全身を巣食いはじめていた。
 だんだんと視界が青のような緑のような非現実的な色に染まりだし、心臓が反乱を起こしたように激しく打ち続けて、そのせいで息をするのが億劫になる。
 アナトールの唯一の救いは、この忌々いまいましい毒のおかげで、興奮状態にならずにすんだことだ。
 もし、噛まれずにすんだとしたら、今度はアナトールは内なる悪魔と戦わなければならなかっただろう。
 こんな人気のない洞窟にエヴァと二人きり、彼女が他の男と結婚してしまうという考えとともに、高ぶったアドレナリンを静めるのは、今与えられている以上の苦痛を強いられるものだったかもしれない。

 ──いや、違う、とアナトールは自分の心の声を否定した。
 エヴァは奴と結婚しないと言った。

 そうだろう?
 あれは蛇の毒が作り上げた幻聴だっただろうか? そんなはずはない。アナトールは確かにエヴァの声を聞いた。そして、彼女の告白を。
 エヴァは奴とは結婚しない。
 理由はなんだったか……くそ、よく覚えていない。毒のせいで頭が石を入れられたように重くて、考えをまとめるのが難しかった。しかし重要なのは、エヴァが奴と結婚してどこかへ行ってしまうことはない、という事実だった。
 それがそのまま、エヴァが自分のものになったという意味ではないのは分かっていたが、少なくともわずかな機会がアナトールの手元にも残っているという訳だろう。おそらく。
 そのためにも、彼女に真実を知ってもらう必要があった。
 どこから話すべきか、毒にやられた頭で考えるのは容易ではなかったが、心はもうずっと前から決まっている。
 エリオット牧場にたたずむ、彼女を一目見た瞬間から。

「戦争が始まってすぐ、」
 アナトールは時々遠くなる意識を手放さないように努力しながら、記憶をたぐりよせるのと同時に、エヴァの身体をぎゅっと抱きしめながら話しはじめた。
 俺は毒蛇に噛まれて死にそうなんだ、慈悲深き聖母よ、このくらい許してくれてもいいだろう。
「俺の入れられた部隊は、最北部の最前線に送られた。俺を含めてほとんどの歩兵は招集されたばかりの新人で、人なんて殺したことのない連中ばかりだった」
 エヴァの瞳はじっとアナトールを見つめている。
 いつも、この茶色の瞳に見つめられると、アナトールの心は燃え上がった。「のちに、北の大虐殺だとか、歩兵の墓場だとか、そういう呼ばれ方をする大激戦だった。敵も見方も生き残ったのはほとんどいない。俺が最初に昇進を受けたのも、そのせいだ。他に誰も残っていなかったんだ」
 アナトールは当時を思い出そうとした。
 重い灰色の空から、にわか雨が降っていた朝。
 四方からつんざく銃撃の音に、どこから飛んでくるのか分からない砲撃の恐怖、飛び散る足下の泥には、必ず誰かの血肉が混ざっていた。戦闘は開始から終わりまで、アナトールの記憶が正しければ、二日かかった。

「終わったあとの援軍も、食料の補給も、ほとんどなかった。死体の山に囲まれて、残った俺たちは自力で生き抜いて、帰らなければならなかった」

 あの数日の記憶は、いまでもアナトールの中で、手に取るように生々しく息づいている。あるのは飢えと、悪臭と、疲ればかりだった。
 この時点ではまだ、悲しみは湧いてこなかった。
 嘆き悲しむことができるのは、一種の贅沢なのだと、アナトールはとっくの昔に学んでいたけれど。
「なんでもした。エヴァ、俺たちは生き残るために、なんでもしたんだ。聞いたら、きっと君は二度と俺に触れようとはしなくなるだろう。そんなことまで」
 エヴァは小さく首を振った。
 そしてアナトールの胸元にそっと手を触れた。
 アナトールはなぜか、急に目頭が熱くなって、そこからなにかがこぼれそうになるのを我慢しなければならなかった。蛇の毒め……とアナトールは内心悪づいたが、どこかもっと意識の奥底では、この涙には別の理由があると、きちんと気が付いていた。
「二日目の夕暮れ、俺は死体の一つの軍服を調べていた。確か、敵のだったと思う。もう一々考えるのはやめていたから、その辺はうろ覚えだが」
 そう言って、アナトールは深く息を吸った。
 肺が痛んで苦しかったが、エヴァの指先だけは冷たく、心地いい。
「相手は、俺と同じ年くらいの男だった。育ちの良さそうな顔で、眠っているような死に顔だったよ」
 そしてアナトールは、肩で息をしながら、なんとかエヴァから腕を放し、濡れたズボンの内ポケットの中を探りはじめた。
 エヴァは驚き、手伝いたさそうにまごついていたが、アナトールは自分で探し物を取り出すことに成功した。
 出てきたのは、雨に濡れにくいワックス紙の間に挟まれた、一枚の紙きれだった。
 アナトールはそれをエヴァに差し出した。
「読んでみてくれ」
 エヴァはアナトールを見つめたまま、無言で紙切れを受け取った。
 そして、エヴァがその紙に書かれた文字を読んでいるあいだ、アナトールは地面に落ちた枯れ葉をながめていた。あるいは、土の上に転がっている小石を見つめた。
 要するに、なにかエヴァでないものを見ていなければならなかった。
 エヴァが息を呑むのが、聞こえる。
 アナトールは顔を上げた。

「これは……」
 エヴァの声は震えている。
 無理もない。しかしそれは、彼女がこの手紙をよく覚えていてくれた証拠でもあった。
「これは、あなたの手紙だわ、アナトール……最初にあなたが送ってくれた手紙」
 アナトールはなにも答えず、ただじっとエヴァの姿に魅入った。

 ──あの時、誰がこんな結果になると想像しただろう。アナトールはただ必死だった。魂の奥から飢えた悪魔の群れのように次から次へと湧いてくる罪悪感を、どうにかして追い払いたいばかりだっただけだ。

「一文字、一文字、ぜんぶあなたの言葉と同じよ」
 つぶやきながら、エヴァは紙切れとアナトールを交互に見つめる。「宛名と署名以外は、すべて」
 アナトールはうなづいた。
 今エヴァが持つ紙切れには、始まりに『親愛なるマリーへ』。そして最後にアナトールとは違う男の名前が綴られている。
 誰か、家族がいて、帰りを待つ女性がいた男の名前が。
「胸のポケットから、それを見つけた。そばには写真もあった……それは、遺体と一緒に残してきたが」
 アナトールは顔を歪めながら語った。「最初のうちなにも感じなかった。感傷に浸っている余裕はなかったんだ。しかし、その夜にまた、なぜかこの手紙を読み返したんだ……そうしたら、いても立ってもいられなくなった」

『雨はいつか止む。
 いつか私は君の土地にもどり、この愛のために尽くそう』

 愛? 土地?
 アナトールにはなにもなかった。
 家族もいない。彼の帰りを待つ恋人もいない。帰りたい場所もない。アナトールが死んでも、悲しむものはこの地上に誰一人いなかった。そしてもっと悪いことに、アナトールには、死んで悲しくなるような相手さえ一人としていなかった。
 しかし神は、この罪深きアナトールを選んだ。

「俺はずっと一人だった。母はある金持ちの愛人で、囲われの日陰者で、酒だけが人生の慰みだった。俺が8歳の時にその愛人が──俺の父親が、死んで、一文無しになって路上に投げ出された。流行病で、母はすぐ死だ。俺は生きていくためならなんでもした。墓掘りもした、酒場の用心棒もした、法に触れるようなことも」

 吐き出されるアナトールの独白に、エヴァの目がゆっくりと潤んでいく。
 エヴァの泣き顔を見ることほど今のアナトールに苦しいことはなかったから、アナトールは一旦言葉を止めざるをえなかった。
 しかし、「やめないで」とエヴァはささやいた。
 アナトールは一度深く息を吸い、続けた。
「エリオット牧場にたどり着く前、俺は賞金目当ての拳闘をしてた。この街まで流れてきたのは、そのせいだ。隣の街で試合があった」
 アナトールは毒で重苦しくなっている頭をなんとか奮い立たせ、当時のことを鮮明に思い出そうとした。

 ふらりと立ち寄った食料品店に張り出されていた、質素な求人の紙。
 アナトールがそれを破り取ったとき、頭の中にあったのはただ、毎晩のように殴り殴られなくてもベッドと食事が与えられるという贅沢のことだけだった。

 エヴァが指で涙を拭いている。
「面接のとき、君を見た」
 本当なら、アナトールは自分の手でエヴァの涙を拭いてあげたかった。人を殴ることばかりだったこの手が、銃を構えるために使っていたこの手が、それ以外のこともできるのだと、彼女に証明したかった。
「でも君は、俺には近寄らず、外で馬の世話をしながら、小さな女の子のようにチラチラと俺とヴィヴィアンの方を見ていた」
 エヴァは恥ずかしそうに微笑んだ。
「そんな君が忘れられなかった。どうしてかは分からない……ただ、どうしても説明しろと言われたら、多分、一目惚れというやつだったんだろう。そんな安っぽい言葉で片付けたくないが……」
 エヴァの瞳が見開かれる。
「あの夜、この手紙を読んでいたとき、どうしようもなく空しくなった。自分がなんのために生き残ったのか分からなかった。なんのために、生きてるのか……」
 エヴァが首を横に振っていた。
 エヴァは、エヴァの、エヴァが。視界がどんどん暗くなってきて、アナトールはエヴァのこと以外考えられなくなってきていた。
「嘘でもいい……俺にも、死んでいった奴らと同じくらい……生きる理由があるんだと思いたかった。そのとき、君の顔が浮かんだ。でも、くそ、俺は君の名前さえ知らなかった。君の姉の名前も。唯一覚えていたのは、苗字だけだ」

 だからの、「親愛なるあなたへ」だった。
 宛名はただ、ミス・エリオットとした。それをどういうわけかエヴァが、ヴィヴィアンへと勘違いしたのだろう。
 返事などまったく期待していなかった。
 しかし数週間後、一通の手紙がアナトールの元へ送られてくる。優しい労りの言葉と、アナトールへの励ましが綴られていた。
 そのときの感動は今でも忘れられない。アナトールは生まれてはじめて、血と死と恐怖にまみれた戦場にいながら、生きる理由を見つけたのだ……。
 誰かのために、生きることを。
「君からの手紙を読んでいる時間だけ、俺は人間に……一人の男になれた。名前なんてどうでもよかったんだ。そもそも俺は、君を思って最初の手紙を送った」
 アナトールは告白を終え、力尽きたようにエヴァの肩に寄りかかった。
 まぶたが鉛のように重くなり、視界が完全に黒くなっていく。アナトールは肩に回されたエヴァの腕の温もりを感じて、ああ、こんなふうに死ぬのも悪くないと思いながら、ゆっくりと意識を手放していった。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

城内別居中の国王夫妻の話

小野
恋愛
タイトル通りです。

私ってわがまま傲慢令嬢なんですか?

山科ひさき
恋愛
政略的に結ばれた婚約とはいえ、婚約者のアランとはそれなりにうまくやれていると思っていた。けれどある日、メアリはアランが自分のことを「わがままで傲慢」だと友人に話している場面に居合わせてしまう。話を聞いていると、なぜかアランはこの婚約がメアリのわがままで結ばれたものだと誤解しているようで……。

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

猛禽令嬢は王太子の溺愛を知らない

高遠すばる
恋愛
幼い頃、婚約者を庇って負った怪我のせいで目つきの悪い猛禽令嬢こと侯爵令嬢アリアナ・カレンデュラは、ある日、この世界は前世の自分がプレイしていた乙女ゲーム「マジカル・愛ラブユー」の世界で、自分はそのゲームの悪役令嬢だと気が付いた。 王太子であり婚約者でもあるフリードリヒ・ヴァン・アレンドロを心から愛しているアリアナは、それが破滅を呼ぶと分かっていてもヒロインをいじめることをやめられなかった。 最近ではフリードリヒとの仲もギクシャクして、目すら合わせてもらえない。 あとは断罪を待つばかりのアリアナに、フリードリヒが告げた言葉とはーー……! 積み重なった誤解が織りなす、溺愛・激重感情ラブコメディ! ※王太子の愛が重いです。

王宮医務室にお休みはありません。~休日出勤に疲れていたら、結婚前提のお付き合いを希望していたらしい騎士さまとデートをすることになりました。~

石河 翠
恋愛
王宮の医務室に勤める主人公。彼女は、連続する遅番と休日出勤に疲れはてていた。そんなある日、彼女はひそかに片思いをしていた騎士ウィリアムから夕食に誘われる。 食事に向かう途中、彼女は憧れていたお菓子「マリトッツォ」をウィリアムと美味しく食べるのだった。 そして休日出勤の当日。なぜか、彼女は怒り心頭の男になぐりこまれる。なんと、彼女に仕事を押しつけている先輩は、父親には自分が仕事を押しつけられていると話していたらしい。 しかし、そんな先輩にも実は誰にも相談できない事情があったのだ。ピンチに陥る彼女を救ったのは、やはりウィリアム。ふたりの距離は急速に近づいて……。 何事にも真面目で一生懸命な主人公と、誠実な騎士との恋物語。 扉絵は管澤捻さまに描いていただきました。 小説家になろう及びエブリスタにも投稿しております。

【完結】伯爵の愛は狂い咲く

白雨 音
恋愛
十八歳になったアリシアは、兄の友人男爵子息のエリックに告白され、婚約した。 実家の商家を手伝い、友人にも恵まれ、アリシアの人生は充実し、順風満帆だった。 だが、町のカーニバルの夜、それを脅かす出来事が起こった。 仮面の男が「見つけた、エリーズ!」と、アリシアに熱く口付けたのだ! そこから、アリシアの運命の歯車は狂い始めていく。 両親からエリックとの婚約を解消し、年の離れた伯爵に嫁ぐ様に勧められてしまう。 「結婚は愛した人とします!」と抗うアリシアだが、運命は彼女を嘲笑い、 その渦に巻き込んでいくのだった… アリシアを恋人の生まれ変わりと信じる伯爵の執愛。 異世界恋愛、短編:本編(アリシア視点)前日譚(ユーグ視点) 《完結しました》

【完結】夫もメイドも嘘ばかり

横居花琉
恋愛
真夜中に使用人の部屋から男女の睦み合うような声が聞こえていた。 サブリナはそのことを気に留めないようにしたが、ふと夫が浮気していたのではないかという疑念に駆られる。 そしてメイドから衝撃的なことを打ち明けられた。 夫のアランが無理矢理関係を迫ったというものだった。

裏切られた令嬢は死を選んだ。そして……

希猫 ゆうみ
恋愛
スチュアート伯爵家の令嬢レーラは裏切られた。 幼馴染に婚約者を奪われたのだ。 レーラの17才の誕生日に、二人はキスをして、そして言った。 「一度きりの人生だから、本当に愛せる人と結婚するよ」 「ごめんねレーラ。ロバートを愛してるの」 誕生日に婚約破棄されたレーラは絶望し、生きる事を諦めてしまう。 けれど死にきれず、再び目覚めた時、新しい人生が幕を開けた。 レーラに許しを請い、縋る裏切り者たち。 心を鎖し生きて行かざるを得ないレーラの前に、一人の求婚者が現れる。 強く気高く冷酷に。 裏切り者たちが落ちぶれていく様を眺めながら、レーラは愛と幸せを手に入れていく。 ☆完結しました。ありがとうございました!☆ (ホットランキング8位ありがとうございます!(9/10、19:30現在)) (ホットランキング1位~9位~2位ありがとうございます!(9/6~9)) (ホットランキング1位!?ありがとうございます!!(9/5、13:20現在)) (ホットランキング9位ありがとうございます!(9/4、18:30現在))

処理中です...