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番外編

Beside the Ocean

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 それは、嵐の大海原にぽつりと浮かぶ、一艘の船になったような恐怖だった。
 海は狂うように荒れている。
 

 もうしわけ程度に広がった帆はぼろ切れのようで、船体は古くさびており、じわじわと侵入してくる海水に抵抗できていない。それでも無理に前へ進もうとすると、船体はぎしぎしと音を立てながらひび割れ、やがて大波に飲まれて沈んでいくのだ……。
 リハビリが続けられる中、ウィルはいつもそんな怖れと戦っていた。
 床に崩れ落ちる瞬間の、自分のちっぽけさと。
 偉大なるなにかに対する畏怖と……。
 

「フィジカル・リハビリテーション・ルーム」
 ――と彫られた金色のプレートが、扉の横に掲げられている。
 大きな部屋は余裕のある間取りで、床は明るい木目のフローリングになっており、奥半分に様々なトレーニング機器が備えられていた。あとの半分は何も置かれていないだだっ広いスペースだ。
 ワックスが施されたばかりで過剰なほど輝いているフローリングの床が、ウィルの目には忌々しく映った。

 この床のせいだ。
 この安っぽく光っている床のせいで、自分は立てないんだ――そう、不尽理にも床を罵ってみたりもしたが、結果はいつも痛いしっぺ返しで終わるのだ。

「ウィル!」
 悲鳴に似たエリーの声が、フローリングの床に巨体が倒れる音に重なって響く。
 ウィルは、車椅子から立ち上がろうとしていた。
 トレーナーの腕を借りながらわずかに腰を浮かせた彼だが、全体重が足にかかった瞬間、そのまま前のめりに床へ倒れ、右肩を強く打ちつけたように見えた。エリーは思わず彼に駆け寄りそうになったが、隣のクラークソンに二の腕を掴まれて止められ、ハッと間違いに気付く。
 ――いけないのだ、ここでエリーが彼を助けては。
 本当はこうしてリハビリを見学するのも、あまり勧められてはいない。

 エリーは息をするのも忘れて、崩れ落ちたウィルが呻きながら起き上がろうとする姿を見つめた。ダークブロンドの髪が汗に濡れて額に張りついている。ギリシャ彫刻のように整った彫りの深い顔は苦痛にゆがめられて、床を押し返そうとする腕の筋肉は、わずかに震えていた。

 痛いはずだ、苦しいはずだ、悔しいはずだ。

 しかし、ウィルはただの一言も弱音を吐かなかった。いつまでも強く歯を食いしばって、どこかを険しく睨むような瞳をみせながら、痛みに耐えている。
 そばにいた若いトレーナーの助けで、ウィルはなんとか立ち上がった。
 足元はまだ小刻みに震えている。
 それでも、立ち上がった彼は、痩せた身体に不釣合いなほど背が高くて、獅子のような風格さえあった。――彼だけが醸し出せる、崇高な姿だった。
「ウィル……」
 エリーは細い声を漏らした。
 立ち上がったウィルは、しばらく肩で息をしながら床と足元を見つめていて、銅像のように動かなかった。トレーナーがなにか労いの言葉とアドバイスを彼に掛けていたが、エリーにはよく聞こえない。物理的に聞こえないのではなくて、緊張していて、周囲の音が耳に届かなかったのだ。

 しかし、ウィルはトレーナーの言葉に全くうなづかず、固く唇を結んだまま怒りをにじませた顔をしていた。
 離れた場所からその様子を見守っていたエリーは、ごくりと静かに息を呑む。

 彼は傷だらけになった誇り高い虎のようだった――どれだけ痛くても苦しくても、それを毅然として受け入れ、敵に向かって立ち向かう。この場合の敵とは、彼自身の身体だった。
 思い通りに動かない身体に残ったものは、ただ一つ、誇りだ。
 誇りだけが、彼を支えているように見えた。
 そんな彼を見ていると、切なさに心が千々にくだけそうになる。たった四年前、植物状態に陥るまでの彼は、誰よりも逞しく超然としていたはずなのに、その四年の年月がここまで彼を衰弱させたのだ。
 立ち上がることはおろか、ベッドの上で上半身を起こし、固形物を食べられるようになるまでだけでも一月の時間がかかった。最初の頃は喋ることさえ覚束かず、まるで赤ん坊のように意味を成さない唸り声を上げるのがやっとで、今もまだ長く明確には喋れない。
 すべては、訓練次第で元に戻るだろうと期待されてはいる……ゆっくりと、時間は掛かるだろうが、平均的なの成人男子として生活できる程度の身体能力は、努力次第で取り戻せるはずだ、と……。
 ただ、テニスプレイヤーとしての復帰は、医者も口に出さなかった。

 しばらく床を睨んだままだったウィルは、突然ふと、ぎこちない動作で顔を上げた。
 そして、彼のブルーの瞳はそのまま、部屋の端にいたエリーを捕らえた。
 ウィルの視線に捕まったのに気付いて、エリーはぴたりと硬直した。
 彼が……自分を見つめている……?
 気がつくと二人は見つめ合っていた。しかし確かに、ウィルの瞳は強くエリーを捕らえている。それは、一分だったのかもしれないし、一秒だったのかもしれない。

 ブルー……青、を。こんなに熱く、感じるなんて。

 それは何とも説明しがたい、長く、熱い時間だった。
 二人は離れた位置に立っていたのに、エリーの肌はまるで彼に触れられているような感覚がして、火照った。

 先に視線を反らせたのはウィルの方だ。
 あまりにも呆気ない感じで、ウィルはエリーから目を外し、また床に視線を戻すと、再び身体を動かそうとした。トレーナーは慌ててそんなウィルを止めようとするが、彼は強情にも無理矢理歩き出そうとした――そして、ウィルは再び勢いよく倒れた。
 また彼の方へ駆け寄りそうになったエリーを、クラークソンの手が止める。

「エリー、君は出て行った方がいいよ。カフェテリアでお昼をとってくるといい」
「でも……」
「君がいると彼の気が立つみたいだ。まるで発情期の野良猫みたいな目をしてる。離れたほうがいいみたいだ」

 諭されて、エリーは倒れたままのウィルを遠くから見つめる。
 ――確かに彼の気は立っているようだった。何かに苛々しているようで、倒れるたびに肉体的な苦痛以上の苦悶を顔に浮かべる。その理由がクラークソンの言うとおり自分の存在なのかどうか、エリーには分からなかったが、確かに彼は普段より荒々しい。
 エリーは口を結んで黙り込むと、無言のままうなづいて、後ろ髪を引かれる思いで部屋を出ていった。
 背中にウィルの視線を感じたけれど、振り向くことはできなかった。

 

「さて」
 クラークソンは短い溜息の後に言った。
「エリーがここにいないうちに、君に言いたい事がある」

 いかにも真面目で人の良さそうな青いTシャツとブルージーンズの上に、丈の長い白衣を羽織ったクラークソンは、そう言いながらウィルの横に大股で向かう。
 近付いてくるクラークソンに、ウィルは反抗的な鋭い視線を向けた。彼らの間に緊張感が走っているのを感じて、間に挟まれた格好のトレーナーが戸惑った顔をした。
 しかし――クラークソンは今や、ウィルの主治医だ。

 ウィルが植物状態に陥った当初はまだ新米にすぎなかったクラークソンも、四年の月日を経た今では中堅の仲間入りをしはじめていて、何人もの患者を担当している。

「君も少し席を外しててくれるかな……患者と二人きりで話がしたいんだ」
 クラークソンはトレーナーに向かって言った。
 トレーナーは一瞬だけ迷いのようなものを見せたが、相手は患者の主治医である。すぐに大人しく引き下がった。ただ倒れたままのウィルだけが、反対するようなくぐもった唸り声を発したが、部屋にはウィルとクラークソンだけが残された。
「ほら、立つんだ。君になら出来るはずだ」
 クラークソンは片手を膝について、もう片方の手をウィルに差し出した。

 ウィルは忌々しげにクラークソンの顔を睨みながら、渋々とその手を取って、ゆっくりと立ち上がる。立てたとは言い難いような腰の曲がった格好で、ウィルはクラークソンの肩に圧し掛かりながら車椅子へ向かった。
 クラークソンが器用にウィルの身体を車椅子に押し戻すと、ガチャンと派手な金属音がして、ウィルは椅子に投げ出されるように勢いよく座った。息は激しく上がっている。
「邪魔を……する、な……」
 低い声と、子音がはっきりしない舌っ足らずな喋り方――それが、今のウィリアム・E・ボストン二世の精一杯だ。

「邪魔をしてるつもりはないよ。それどころか、君の力になろうとしているだけだ。君はエリーがいるとリハビリに集中できないみたいだから」

 クラークソンの言葉に、違う、とウィルは心の中で叫んだ。
 エリーがいると集中できないのではない。エリーがクラークソンといると、集中できない、のだ。しかしそれをクラークソン本人の前で言う気は無かった。絶対に言うつもりはない。

 ウィルが奇跡的に目を覚ましてから、一月半が経とうとしていた。
 最初の数日はまだ一日の大半を眠って過ごしていたから、やっとまともに目を覚ましていられるようになったのは、さらに一週間が過ぎてからだ。
 それから、この奇跡の目覚めに対する噂はあっという間に広がり、しばらくマスコミが途絶えなかった。二週間もするとそれが落ち着きだし、度重なる検査の結果、ウィルは厳しいリハビリ生活に入ることになった――。

 四年の間、ほとんど使われなかった筋肉、声帯、消化器官。
 どれをとっても回復は容易なものではなく、医師としてのクラークソンの意見は、普通の生活を送れるようになるまで半年から一年近くが掛かるだろうというものだった。

「君はよくやってると思う。回復も思ったよりずっと早い」
 クラークソンは車椅子のウィルに目線の高さを合わせるため、片膝をついて静かに喋りだした。この穏やかな医師は、ホース・ウィスパラーが暴れ馬に対してそうするように、温和ながらも力強い声で患者に接する。
「少しずつ、しかし確実に良くなっている。癇癪を起こす必要はないよ。エリーも本当に君の助けになろうと頑張ってるんだ――」
 と、言いかけて、クラークソンはハッと言葉を止めた。
 ウィルの表情の中に、明らかな表情の変化が見えたからだ。
 エリーの名前が出た途端に。
 漆黒の闇の中で大きな花火が弾けるような、はっきりとした違い。歴然とした感情の発露――。

「君は、」
「違う」
「違う? 何が?」
「関係、ない……エリーは」
「……そうかな」

 同情をするような瞳で、クラークソンは頑固な患者の顔を見つめた。
 クラークソンは今まで、リハビリの時にエリーが側にいるとウィルの気が荒くなる理由は、単なるプライドから来るものだと思っていた。エリーの話では、昔のウィルはいつも真面目なエリーを見下しているところがあったという。そんな彼女に同情や心配をされるのが、ウィルの高い誇りを傷つけやすいのだと。

 しかし、どうもこれは……考えたこともなかった。

 ――エリーはいつも、彼女は望みのない片思いをしているのであって、ウィルの方はエリーに何の感情も抱いていないのだと繰り返し言っていたし、クラークソンにそれを疑う理由はなかったのだ。
 毎日付き添っているエリーを、ウィルは邪険にするでもなく、かといって特別に甘えるということもなく静かに受け入れているだけだった。
 ただ時々、彼のエリーを見つめる瞳がとても優しくなるので、エリーが言うほどウィルは彼女を疎んでいる訳ではなく、義理の妹として人並みの愛情を持っているのだろうと、そう考えていた。
 クラークソンは細い溜息を吐いてから、ゆっくりと、しかし一語一語はっきりと語り始める。

「エリーは素晴らしい女性だ。若くて、綺麗で、真面目で優しい」
 ウィルは否定しなかった。
「義理とはいえ、君は彼女の兄だ。こういう言い方をしていいのかどうか分からないが、私は一時期彼女のことを愛していた。今も憎からず思っている」
 深い眉間のしわが、ウィルの額によった。

 ビンゴだ、とクラークソンは直感した。この今はひょろひょろとした車椅子生活の元テニスプレイヤーは、多分、エリーを愛している。
 それがいつからなのか、どの程度なのかまでは分からないが、遊び気分の欲情などではなさそうだった。

 なぜかその時、クラークソンはウィルを試してみたくなった。
 そう、ウィルが本気なら、クラークソンの失恋もある程度報われるのだ……少なくとも、エリーは幸せになるのだから。

「……だから、兄として君に文句がなければ、彼女と付き合わせてもらえないかな」
「…………」
 クラークソンはウィルの答えを待った。
 しかし返ってくるのは飢えたジャッカルのような鋭い視線だけで、不器用に車椅子に絡まった手がわずかに震えている以外、感情らしきものを読み取るのは難しい。ウィルの顔付きは本当に精巧な彫刻のようで、もともと人間らしい温かみに欠けていたから余計だ。
 もう一押しが必要に思えた。
 だから、不本意ではあったが、クラークソンはわざと軽薄な若者のような口調に切りかえて喋りだした。

「少しの間でいいんだよ。彼女みたいにお固い女性なら、病気の心配もないしね。君だって回復すれば、良いようにしたいと思ってるんじゃないないか――」

 と、途中まで言いかけたところだった。
 突然ガシャンと大きな音がして、車椅子の車輪がわずかに床から浮いた。はっと息を呑む間もなく、クラークソンは車椅子から弾かれるように飛び出してきたウィルに、勢いよく覆いかぶされて襲われていた。
 ウィルはなんと、そのまま床に組み敷いたクラークソンに拳を上げようとする。
 それは、リハビリ中の病人から繰り出されるものとは思えない速さで、クラークソンの顔を狙っていた。自由になっている腕でなんとか顔と頭をガードしたクラークソンだが、ウィルの拳はかなり力で二の腕に当たった。
「君は……っ!」
 二度目に繰り出されたウィルの拳を、クラークソンは何とか受け止める。
 こうなると健常者のクラークソンが有利だった。握った拳を受け止められ、勢いだけでクラークソンに圧し掛かっていたウィルの身体は、少しずつ筋肉が悲鳴を上げているようで、小さく痙攣し始める。
「素直じゃないな! さっさと彼女に告白すればいいだろう!? 僕が四年も欲しくて欲しくてたまらなかったものを、目の前に差し出されてるっていうのに、何を待っているんだ!」
「うるさ……い!」
「うるさいもんか!」
 クラークソンは被さっていたウィルの、細くはあるが背の高い身体を横へはねのけた。
 仰向けで床に転がったウィルは、唸りとも罵りともとれるようなくぐもった声を上げる。クラークソンは上半身だけ起こし、肩で息をしていた。
「本当に、まったく……っ」

 ウィルが植物状態だったころ、クラークソンはいつも、寝たきりで何も出来ない男に恋を奪われるのが悔しくてたまらなかった。
 ――こんな風に、男同士で勝負できたらとさえ、夢見たほどだ。
 それで負けるのなら諦めもつく、と。
 だから、
 突然のウィルの襲撃に息も上がったし、心臓がうるさく興奮しているが、気分は悪くなかった。

「君は、誇り高いみたいだから……色々考えているんだろうが……」
 言いながら、クラークソンは髪を軽くかきむしった。
「不憫じゃないか。可哀相だよ、エリーは毎日毎日君のところに来てるっていうのに……健気にも」

 男として、なんとなくウィルの意思は感じられる。多分、今のように歩くことも出来ない状態で――移動するだけでもエリーに車椅子を押してもらう必要のある身体で、"そういうこと"は言いたくないのだ。
 しかし、クラークソンはエリーの味方だ。
 ウィルのつまらないプライドより、エリーの幸せが重要だった――それはそのままクラークソンの失恋を意味するのだろうが、エリーがウィルを愛しているのはとっくの昔から承知だったし、どうやら三人の間で本当に"望みのない片思い"とやらをしているのは、クラークソンだけのようなのだ。

 ウィルは仰向けになったまま、しばらく黙っていたが、やがてぽつりと告白を漏らした。
「……少し、でも、」
 蚊の鳴くような声だった。しかし、不思議とクラークソンの耳にははっきりと届いた。
「歩けるように、なれば……そうしたら、私は、言う……」
「その前に、誰か別の男に取られでもしたら?」
 意地悪なクラークソンの突っ込みに、ウィルはまたも黙りこくった。クラークソンは仕方なく笑う。
「悪い、悪い、悪かった。そうはならないように協力するよ……つまり、君が一日でも早く一人前になって歩けるように。でも、もし君が途中で諦めでもしたら、他にもエリーを望んでいる男がいるんだってことを覚えておいてくれ」
 む、というような短い唸り声を、ウィルは発した。

 クラークソンはさらに、吹っ切れたように笑い声を上げた。
 まったく、顔と身体だけの冷血男ではないかと疑ってきたウィリアム・E・ボストン二世という男が、こうして人間的な感情や意地を見せるのは、クラークソンにとって歓迎すべき驚きだった。そしてさらに驚くべきことに、クラークソンはウィルに友情のようなものを持ち始めているのを感じた。
 それは、エリーという存在を通した間接的なものなのかもしれないし、全くタイプの違う対極同士が惹かれ合う、磁力のようなものかもしれない。それでも。

「僕から一つアドバイスをしよう」
 立ち上がりながら、クラークソンは言った。そして、ウィルに手を伸ばす。
 ウィルは存外にしっかりした動きで、その手を握り返す。クラークソンの助けで、ウィルも不安定ながら再び立ち上がった。

「僕にとって、エリーを愛したことは間違いだったのかもしれない……でも、犯す価値のある間違いだった。僕は彼女の君への無償の愛から、沢山のものを学んだ」

 二人の男の右腕は、交差するように組まれていた。
「だから、恐れるな。どんな結果になっても、君は何かを得る」
 そして、クラークソンはウィルが車椅子に戻るのを手伝った。
「疲れてるところを、立たせて悪かった。でもこういうことは、自分の足で立ってる君に言いたかったんだ」
 ウィルは、返事の変わりに「フン」と鼻を鳴らした。
 高貴な男にしか出来ないような高慢な仕草だが、ウィルがそれをすると、意外にも嫌味な感じがしない。無事、車椅子におさまったウィルは、何も言わずにすっと前を向いた。これも使用人のいる家で育った人間にしか出来ない仕草だ――クラークソンは再び笑い声を上げた。
「分かりましたよ、貴公子殿。そろそろ外へお連れしましょう」
 わざと古典劇に出てくるような言葉遣いをしたクラークソンは、そう言って車椅子を押し始めた。

 

 病室に戻ると、エリーはすでに戻ってきていて、珍しくテレビに見入っていた。
 クラークソンに押された車椅子に乗ったウィルが入ってくると、慌てて立ち上がる。そして申し訳なさそうに頬を染めた。
「ごめんなさい、ジョン。医師のあなたにこんなことをさせてしまって」
「いいんだよ。それに、どうやら僕は彼の友人になりたい気がするんだ」
 なぜか上機嫌なクラークソンと、不機嫌そうなウィルを見比べて、エリーは首を傾げる。
 男のすることは分からないと女はよく嘆くが、今がまさにそんな心境だった。二人の男の間の距離はたしかに縮んでいるように見えたし、ウィルがすすんでクラークソンの手を取ってベッドへ戻ろうとしたときには、それは確信に変わった。しかし、かといって二人は親しく馴れ合っているという感じではない。少なくともウィルの方からは。

「さて、」
 ウィルがベッドへ戻るのを手伝い終わったクラークソンは、両手を軽く叩きながら言う。「僕はそろそろ仕事に戻るよ。何か用事があれば、多分この階か下のオフィスにいるから」
「ありがとう、ジョン」
「いいんだよ。僕がすすんでしたことでもあるし、仕事でもある」

 そう言ってクラークソンが病室を出たあとには、エリーとウィルだけが残されていた。ウィルのベッドは安楽椅子のように背の部分が斜めに立っていて、エリーの見ていたテレビがよく見えた。
 テレビに映っているのは、テニスの試合だった。
 赤いクレイ・コートの上を舞うように動くプレイヤーとボールから、ウィルは自然に季節を読み取る。

 ローラン・ギャロスだ……。
 つまり、もう六月になるのだ。

 グランド・スラムのうち唯一、クレイ・コートを使うローラン・ギャロスこと全仏オープンは、多くのプレイヤーが鬼門とする難しいトーナメントだったが、ウィルは逆にここを得意としていた。赤土の上を走るウィルは本当にジャッカルのように貪欲で素早く、強かった――しかし、それも今は昔の話だ。
 ウィルが画面を見て表情を固くしたのに気が付いて、エリーは慌ててスウィッチを切ろうとした。
「そのままで、いい……見たいんだ」
「本当?」
「ああ」

 アメリカとフランスではかなりの時差がある。多分、生の中継ではなくその日の試合の録画なのだろう。
 二人は、切迫する男子シングルの準決勝まで見たあと、アナリストたちが討論に入るのを眺めて、画面がフットボールの試合に切り替わるとテレビを切った。
 静かになった病室で、エリーはちらりとウィルの方を見てみる。
 彼の瞳は静かで、どこか達観しているようにも見えた。今のアナリストたちの討論でも、もうウィリアム・E・ボストン二世の名前は全く出てこない。彼はこの世界ではすでに忘れられた人であり、からかい半分のリアリティ・ショーに奇跡の目覚めを少し騒ぎ立てられた以外、もう誰も彼の後を追わなかった。

 ――エリー以外は。

 エリーは時々、どうして自分はこんなにウィルを愛しているのだろうと、疑問に思う。

 それはおそらく、幼い頃の幸せな記憶に支えられていた……両親が亡くなる前のウィルは、エリーにとって優しい兄で、適度に年の離れた最も身近な異性で、もちろん当時から誰もが見惚れるような魅力的な容姿をしていたし、同世代の少年にはない大人っぽさがあった。内気なエリーにとって、彼の側で暮らす生活は誇りで、現実となった夢物語で、一秒一秒が特別だった。
 やがて両親が事故で亡くなり、成長するにしたがって、ウィルはエリーから離れていったけれど。
 彼はしだいに冷たくなって、声を掛けようとすると意地悪な台詞を投げつけてきたりしたけれど、それでも学費の工面や、未成年の学生に保護者がすべき処々の面倒を取り仕切ってくれていたのを知っている。

 結局、エリーにとってウィルとは、説明のしようのない神聖な存在だった。
 女性が好むロマンチックな言葉を使わせてもらえば、運命の人、とでもなるのだろう。まるで生まれたときから惹かれるのを運命づけられていたような、特別なひと。
 そして何よりも、エリーは彼の厚い氷河の中に隠された穏やかな愛情を知っていた。

「エリー」
 ウィルが名前を呼ぶと、彼女は優しく微笑んで答えた。「ええ、どうしたの? 何か欲しいものがある?」
「いや……」
「お水は? 喉渇いたでしょう」
 ウィルは否定に首を横に振った。
 エリーは首を傾げたが、なぜか意味もなくシーツの上を不器用に動くウィルの右手に目を留めて、それを手にとった。そして乾いた肌の上を、指先から腕にかけて静かにマッサージする。彼がまだ植物状態だったころから毎日のように繰り返してきたことで、条件反射で始めてしまったような感じだった。しかし、ウィルはそのエリーの行為にまったく難色を示さず、まるでそれが四年間繰り返されてきたことを知っているかのように、素直に受け入れた。
 ……そう、"知っているかのように"。

「私は、まだ、誰にも……言っていない」
 ウィルは、真っ暗になったテレビ画面を見つめたまま、そう言った。
「何を?」
「私が、見てきたことを。この……四年間、私が、何を見て、何を……思ってきたかを」
 エリーは瞳を瞬いた。
 何の話をしているのだろう。夢の話をしているのだろうか。エリーはそう思った。
 しかし、ウィルはしっかりと現実を見据えた目で、ゆっくりとエリーの方に向き直る。彼の瞳は明らかに真剣だった。
「どうしたの……?」
「エリー、私は君に、言いたいことが、ある」
「大丈夫よ、何でも言って。すぐに用意するわ」
「違、う……そんなことでは、ない……もっと、ずっと大切で、大きなこと、だ」

 ふたたび疑問に瞳を瞬いているエリーに、ベッドの上のウィルは、マッサージされているのとは別の左手をゆっくりと差し出した。その手は一瞬だけエリーの頬に触れたかと思うと、すぐに力尽きてぱたりとシーツの上に落ちる。
 その無力さに、ウィルは悔しげに眉を寄せてみせた。

「今は、まだ、言わない……多分、明日でもない……しかし、いつか……私は回復する……こんな身体では、なくて、まともに歩けるように、なる……そうしたら」

 エリーは黙って彼の告白を聞いていた。
 ウィルは少しの間、口をつぐんでから、最後に付け足すように続けた。
「それまで……待っていて、ほしい」

 そのまま二人は静かに見つめ合った――。
 海のように深く、空のように澄んでいる青の瞳。肯定の答えを懇願するように自分を見つめる瞳を、エリーはなかば恍惚としながら見つめ返していた。

 広大な海洋を前にして、己のちっぽけさに震える子供のような気分だった。
 大海洋は――未来だった。
 それは信じられないほど大きくて、偉大で、だからこそその隣に立つと、自分を小さく感じる。

「いつまででも待てるわ、ウィル」
 エリーは静かに答えた。
「いつまででも……そして、私が一度そう言ったら、それは本当にいつまででもよ。四年だって待てたんだもの。だから急がないで」
 ウィルは納得したように小さくうなづくと、安心したのか疲れたのか、溜息と共にベッドの枕に頭を戻した。

 

 それは、嵐の大海原にぽつりと浮かぶ、一艘の船になったような恐怖だった。
 海は狂うように荒れている。
 しかし、その荒れ狂った海の果てに――地平線の、さらに向こうに――わずかな光が差しているのを、私たちは知っている。
 小さな渡り鳥の群れが必死に嵐の空を飛んでいる。どこか、この海の果てを目指して。

 私たちは諦めかけていた舵をもう一度手にとって、前に進む決心をする。
 もう一度、もう一度、

 

 沈みかけたときに差し伸べてくれる手を、いつも隣に感じながら。
 
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