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本編
春はあけぼの // 春の目覚め、少しずつ芽吹いてゆく花
しおりを挟む春はあけぼの。
やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明りて
紫だちたる雲の 細くたなびきたる── 『枕草子』 清少納言
*
年月は風のように去っていった。
移りゆく季節に乗って、人々は十人十色に変わっていく──私の世話をしていた看護士たちでさえ、次々と顔ぶれを変えていった。
ある者は産休を取り、ある者は勤務先を変え、またある者は相変わらず私のそばで働いていたが、結婚をしたり甥が生まれたりと……人生の変化を謳歌していた。
私だけが一人取り残され、空しい呼吸を繰り返している。
長い冬の果てに、初春のあたたかい太陽に照らされて発芽をはじめる種がある。いつまでも蛹さなぎの中にうずくまっていた幼虫が眠りから覚め、羽化をはじめる季節がある。
そうだ……移りゆく四季は美しく、まるで光に透かしながらのぞく万華鏡のように、輝いて見えた。
私はといえば、依然としてベッドに横たわりながら、輝かしい外界をぼんやりと眺め続けているばかりだった。私は傍観者で、唯一の変化らしい変化といえば、衰えてゆくばかりであったが──もう文句を言う気も起きなかった。
私の病室には一つ大きな白枠張りの窓があって、たいていは小さく開け放たれており、風や香り、光や闇を外から運んできた。
窓から差し込む白い日光を顔に受けるたびに、なぜ、と私は疑問に思う。
なぜだ、神よ。
私のようなものを、なぜ、光で照らすのだ、と。
しかし、そんな廃棄物同然の私の話などより、大切なものがあるのは承知している。
──エリーだ。
彼女がどうしているか知りたい者は多いだろう。
結論から言えば、彼女はカレッジを卒業した今でも、相変わらず私の元へ通い続けていて、私を生きた者として扱い、語りかけてくる、唯一の存在であり続けている。
ジョン・クラークソン医師とは付かず離れず……この頃になると、クラークソンはあまりのエリーの難攻不落ぶりにさすがに根を上げたのか、彼女に愛を語ることは少なくなっており、その代わりある新しい受付係の女性と徐々に親しい仲になっているらしかった。
「これでよかったのよね……」
エリーは少し寂しそうに言う。
ただし、もともと気の合う仲であったためか、兄と妹のようなクラークソンとエリーの関係は続いており、医者と患者の家族として、彼らは日々顔を合わせている。
私はクラークソンを男として尊敬せざるを得なくなっていた。
彼はエリーへの愛に見返りを求めず、彼を男として受け入れなかった彼女を恨むでもなく、医師として友人として、エリーを守り続けているのだ。
世の中とは広く深いもので──こんな見上げた男もいれば、私のような屑もいるわけだ。
私はクラークソンに嫉妬をしていたし、彼がエリーに近付けば殺意さえ覚えたが、いつしか「もし」という選択肢を受け入れ始めていた。
「もし」、エリーが誰かと結ばれるならば、その誰かとはジョン・クラークソンであるといい、と。
*
「最近、あまり柄のよくない奴らがうろついているから、気をつけるんだよ」
ある日、病室に顔を見せたクラークソンが、私の枕元に座っているエリーに向かってそう言った。
「柄のよくない?」
「北地区にある病院が一つ縮小されたんだ。それで、そっちの患者が少しこちらに回ってきてる。あまり治安のいい地域じゃないから、時々変なのも混じっててね。私たちも充分対策を練るつもりだが、まだ持て余してる状態なんだ」
「そうですか……確かに最近、少し騒がしいですよね」
「ああ、だから帰りなんかは気を付けて」
クラークソンは焦り気味にそれだけ言って、忙しく廊下へ出て行った。
白衣がふわりと舞うように扉をすり抜け、後にはカールソン独特の消毒液とアフターシェイブの混じった落ち着いた香りが残る。エリーは溜息を吐いた。
「……ですって。ウィル、気を付けなくちゃね」
そして私の腕に触れる。
「そういえばさっきも外の待合室で、感じの良くない男の人に絡まれたの。今までここでこんな事なかったから驚いたんだけど……そういうことだったのね」
何?
何だって?
私はひどい興奮と怒りを覚えた。エリーが男に絡まれた? しかも感じの良くない?
エリーがつねに控えめな言葉を選ぶことを知っていた私は、感じの良くない、という台詞が、実はかなり抑えた表現であることをすぐに感じ取った。
わざわざクラークソンが忙しい検診の時間を縫って忠告しに来るほどである。
ここは地域で最大の床数を持つ大規模な総合病院で、評判も悪くはなかった。毎日数え切れないほどの患者や見舞い客がフロアを行き来しており、院内は一つの社会として機能している。
クラークソンやエリーのような善人の化身もいれば、当然、ろくでもない連中も闊歩しているというわけだ。
しかしエリーの言うとおり、目に見えた問題はまだなかった。
「気を付けなくっちゃ……」
エリーは繰り返した。
何があったんだい、エリー。そう問い詰めて、その「感じの良くない男」を探し出し、首を絞めてやりたかった。しかし私には何も出来ない。
ふっと私から目を離し、クラークソンが出て行った扉を見つめるエリー。
繊細な顔の線が浮かんで見えた……寝たきりである私の視界は明瞭とはいいがたかったが、ことエリーに関する限り、アフリカの原住民にも匹敵する視力を発揮していた。
黒と茶のあいだの色をした瞳が、どこか不安げに揺れている。
私はその夜、「感じの良くない」げす男を、高層ビルから逆さ吊りにする夢を見た。
この頃すでに、私が植物人間となって四年が経とうとしていた。季節は春で、しかし、例年より肌寒いゆっくりとした幕開けの春だった。
──というのは、すべて後から知った話だ。
私は諦めと夢の間を絶え間なく行き来しながら、時に絶望し、時に希望にしがみつき、そしてやはり絶望し……ということを繰り返していた。
季節や年月の感覚もあいまいで、時々自分がどこにいるのか、何をしているのか──もしくは何をしていないのか──が分からなかった。
つねに空いたベッドを待つ長蛇の列がある病院の一室で。
私は、死を恐れてはいなかった。
エリーが私のことを諦めても、それで彼女が楽になるのなら、歓迎すべきことだとさえ思っていた。
私が恐れていたのは……多分、エリーに愛を告白せずに生を終えることだった。
エリーの唇を知らずに終わることだった。
私は男女の快楽をむさぼりつくしていたというのに、エリーという最後の恋を前にして、キスの経験さえないような少年の心へ戻ってしまうのだ……。
死と引き換えに彼女の唇へ触れられるならば、私は千回でも死んだだろう。
終わりなく思えた冷たい冬の果てに現れた春が、私の死という形をしていたとしても。
ああ、エリー。
私はこの四年を後悔しないだろう。
こうして本当の君を見つけることが出来たこと。こうして君の声をゆっくりと聞き続けられたこと。君を愛することが出来たこと。それだけで私は幸せだったのだ。
*
薄い雲が水色の空にうかぶ、穏やかな陽気の春の日だった。
まだかすかに涼しくもあり、手放しで喜べるほどの気温ではなかったが、気の早い連中はすでに半そでに腕を通している。
裸同然だった冬枯れの木々が、枝の先に隠していた芽を少しずつ膨らませ、新緑を見せ始めていた。
雪は溶け氷は割れ、長い冬が嘘だったように、瑞々しい季節がやってきている。
春だ。
私のエリーは、小さな出版社に就職しており、編集を担当するかたわら彼女自身の物語を書いていた。
総じて子供向けの、児童文学という種類の作家を目指しているらしく、彼女が席を置く出版社もそれらを得意としているらしかった。
何度かエリーは彼女の物語を私の前で朗読した。
最も最近のものは、「夢の一歩手前」という題名の短編で、十歳の少年が空を飛ぶという夢を叶えようと奮戦する話だった。屋根から飛び降りようとしたり、巨大なカイトを背にくくりつけたりして。結局その夢見がちな少年の努力は実を結ばず終わるのだが、最後には、大人になった少年が旅客機のパイロットとなり、沢山の乗客を乗せて空を飛んでいくシーンで終わる。
「出版は無理だと思うけど」エリーは言った。「印刷して小児科で配ろうと思うの。ジョンも賛成してくれたわ」
そんなわけで、その日もエリーは私の枕元で何かを書いていた。
エリーは、書き終わるまでは頑固に私に読み聞かせなかったから、内容は分からない。しかしその日、エリーはずいぶんと根を詰めていて、普段なら家に帰る時間を前にしても気付かずにいた。そしてそのままウトウトと眠りに付いてしまったのである。私のベッドに頭だけを乗せて。
前述したように、まだ肌寒さの残っている時期だったから、私は彼女の肩に何かを被せてやりたかった。
しかし出来なかった。
私は四年間苦しみ続けてきた無力感と、その宵も戦っていた。
そんな夜に始まる。
キィ……と低い音を立てて病室の扉が広げられたとき、私はジョン・クラークソンが入ってきたのだとばかり思っていた。その日の昼間、彼は今夜夜勤も担当するのだと、エリーにごちていたのを聞いたからだ。
だから大した警戒はしなかった。
ただ、エリーの肩にブランケットを掛けてやれるのは、やはり私ではなくクラークソンなのだと……一人心の中で涙を呑んでいたくらいだ。
しかし、
「ヘッ……寝てやがんな」
という声が聞こえてきたとき、私は異変に気が付いた。
それは若い男の声だったが、クラークソンのように聡明な話し方ではなく、相当に下品なものだった。
声の主は、静かに扉を閉めると、ひたひたと引きずるような足音で近付いてくる。
背は高くないが、横に逞しく、ぎょろついた目をした黒髪の男が、エリーの傍に立ったのが見えた。
エリー!
私は叫んだが、当然声にはならない。
「やっぱ綺麗な顔してんな……一度、こういうお上品なのとヤッてみたかったんだよ……」
なんということだ──。
こいつこそが、私が無念さのあまり、高層ビルから逆さ吊りにする夢を見たげす男だ。私は状況を理解し、焦り出した。
男はさらにエリーへ近付き、彼女の香りを嗅ごうとでもいうように、上半身を屈めてフンと鼻を鳴らす。
私の怒りはすぐに沸点へ達し、この四年間、何千何万回と試してきて一度として成功しなかった努力を、また繰り返していた。──立ち上がれ、起き上がるんだ、声だけでもいい、動け!
「邪魔モンはいねぇな……」
動け、動いてくれ。
声だけでもいい。声を出し、エリーに、クラークソンに、窮地を知らせるだけでも。
「ひひ」
という笑い声が聞こえたとき、私は全身が総毛立つ思いがした。
男は用意周到な動きでポケットに手を突っ込み、白いガーゼのような長い布切れを取り出した。動け……動くんだ……これが最後で構わないから、立ち上がるんだ。
そう私が煩悶している間にも、男はまるでこれが初めてとは思えないような素早さで、エリーの口に猿ぐつわを噛ませた。
「…………っ!」
目を覚ましたエリーが、男を見上げて凍りつく。
彼女の瞳は驚愕に大きく開かれ、とっさの抵抗を試みて首を大きく左右に振った。くぐもったうなり声がエリーの口から漏れたが、それは病室の外へ届くには小さすぎた。
私はこの時はじめて、この病室が個室であることを後悔した。「ウィルは誇り高いから、相部屋だとあまり気持ち良くないはずだわ」──それがエリーの判断だった。
しかし。
猿ぐつわ越しのくぐもった声で、エリーは悲鳴を上げ続けたが、外には届かない。
男は、思い出したくもないような下品な台詞を吐きながら、そんなエリーの上に圧し掛かっていく。エリーはそれに強く抵抗しながらも、明らかな腕力の違いに阻まれていた。必死に上半身をねじり、男から逃げようとするエリーと、それを無理矢理抑える男と、だ。
全ては私の横たわるベッドサイドで起こっているというのに、私の身体はぴくりとも動かない。
すると、エリーの手が、私の腕のあたりをまさぐった。
──非常事態用の押しボタンだ。
プッシュ型の赤いボタンが先端に付いた、成人の手にちょうど収まる程度の大きさのスティックが、患者の緊急時にすぐ手の届くよう、コードに繋がって各ベッドに与えられている。動けない私には無用の長物だったが、標準装備なのか私のベッドにも転がっているのだ。
いつか、ウィルが目を覚まして、これを鳴らしてくれるといいな。
エリーはそう言って、そのスティックをいつも私の手のそばに添えていた。
そうだエリー……今こそそれを使うんだ。
私は、君の望むようにそれを使うことは出来なかったが、君なら出来る。そして誰かを呼ぶんだ。クラークソンは絶対に、何を置いてでもここへ駆けつけてくるはずだ。
しかし、もうすぐ彼女の手がスティックへ届くか届かないかというところで、男はエリーを無理に押し倒し、二人は床へ崩れ落ちた。
エリーが腰掛けていた椅子が倒れたが、軽いアルミニウム製のそれは、大した音を立てなかった。──くそったれが! 私は心の中でうなり、エリー以外のこの世の全てのものに対して罵声を浴びせた。
しかし。
涙を零しはじめるエリー。
彼女の手を頭の上で拘束し、汚い唇を彼女に押し付けようとする男。
そして、無言で横たわるだけの私。
嗚呼、何が、出来る。今の私に、何が。
私は流せない涙を流しながら、祈った。相手は誰だっただろう。神か、キリストか、クラークソンか。誰でもいい、エリーを助けてくれ。私の祈りなど聞くに値しないことは分かっている。しかしエリーは違う。彼女は天使のような女性だ。彼女を救ってくれ。引き換えにもう千年こうして苦しみ続けろというなら、そうしてみせよう。私の命がいるなら、いくらでも渡そう。だから……
ここから先は、私の記憶ではない。
後に聞いたことを、そのまま記すだけである。
男に組み敷かれたエリーは、必死に最後の抵抗を試みながらも、溢れる涙を止められないでいた。力を振り絞ろうにも、恐怖が邪魔をして関節が震える。膝ががくがくと震えはじめた。
猿ぐつわの奥で、しかし、エリーは私の名を呼んでいた……という。
──クラークソンではなく。
私は横たわるばかりのぼろ切れだった。エリーに何かをしてやった覚えなど、彼女の遠い記憶の中以外、ない。
しかし……彼女がこの時叫んだのは、私の名前だったのだ。
後になぜ、と問うと、彼女は当然のように微笑みながら、女なら誰でもそうすると思うわ、と答えた。愛する男性に助けを求めるものだ、と。
いよいよ男の手がズボンのジップに伸びようとしたときだ。
絶望の中でエリーがきつく目を閉じたとき──ある奇跡が起きたのだ。
ピー、ピー、ピー、ピー……!
実際はこんな可愛げのある音ではない。機械が発する、甲高い悲鳴のような、信号音。
私に繋がれていた心音機が、突然、狂ったような音量で叫び始めた。
「な、何だ……!?」
興奮状態の男さえ、びくりと顔を上げ、首を伸ばして周囲を見渡すような大音量だった。上半身を上げた男はしかし、「ぎゃ」というような汚い声を出すと、そのまま股間を押さえて床にうずくまった。隙を付いたエリーが、急所を蹴り上げたのだ。
「んーー!!」
エリーは、巻かれた猿ぐつわを自分の手で外しながら、彼女自身が襲われていたときよりもさらに悲壮な叫びを、私に向かって上げた。
すぐにバラバラと病室に数人が入ってくる。最初は看護士、次に、医者が。
「ウィル、しっかりして! 嘘でしょう、嫌よ、どうして……っ!」
口が自由になったエリーは、まずそう叫んだ。「どうして? どうしたの? 駄目よ、行かないで、お願い、ウィル!」
そう私にすがるエリーを、看護士たちが下がらせようとする。看護士の一人に脇を抱えられてベッドから離れたエリーは、それでも私に触れようと手をのばして抵抗した。
そこに騒ぎを聞きつけたクラークソンが駆け込んできて、エリーを抱きしめる。「一体、どうしたんだ……」
「心臓停止です!」
と誰かが叫ぶのを聞いて、エリーはクラークソンの腕の中で硬直した。
クラークソンも医師だ。
彼はすぐにエリーから手を離し、私の元へ進み、蘇生のための準備を素早く指示し始めた。エリーはそのまま床に膝を折った。男は逃げ出そうとしたが、男性看護士の一人に遮られ、行く手を阻まれた。
私の病室は、一瞬にして緊急治療室のようなありさまに変わり、エリーは外へ出された。
「どうして……ウィル……どうして……?」
クラークソンは私の蘇生を試みている。
エリーは女性看護士に肩を抱かれながら、病室の扉をぼうぜんと眺めていた。
*
太陽の光が、私を照らしているのを、瞳を閉じながらにして感じた。
朝方だったと、記憶している。
私はゆっくりとまぶたを開いていった。──それは奇妙な感覚で、もう何十年も泳ぐのを止めていた人間が、久しぶりに水につかり、また溺れることなく水に浮かべる自分を発見して、興奮するさまに似ていた。
私はまぶたを開いていった。
自らの意思で。
私は植物人間であった間も、時により周囲を眺めることが出来ていたが、それらは自分の意思で開閉するものではなかったのだ。しかし私はその時、明らかに自分の意思で瞳を開いた。
不思議だった。
外が、見える。眩しい。眩しくて、私は目を細めた──自分の意思で。
しばらくして明るさに視界が慣れて、また外を見渡すと、窓から木漏れ日が見えた。まだ生え出したばかりの新緑をたたえた木々が、ガラス越しに見える。
なんだろう、ここは、天国というところなのか。
私はぼんやりとした頭で、そんなことを思った。私が行きつく先は地獄だけだと確信があったのだが、それにしてはどうも、ここは安らかすぎる場所だ……と。
「う…………」
私は、声さえ漏らした。
それは、年老いたガチョウが弱々しく鳴いているような擦り切れた小声だったが、この私が声を発することに成功したのだ。ここはやはり天国らしい。私はなぜか安堵して、ゆっくりと眼球だけを動かす感覚で、枕元を見た。
──死んでもなお、生前に続けていた癖はそう抜けないらしい。
私はいつもこうしてエリーを確認していた。
エリー……重い黒縁めがねの、小枝のように細い、私の義妹。
彼女も、今は誰よりも美しくなり、緩くカールした豊かなブルネットの髪を優雅なシニヨンにして、夢に向かって歩く一人の女性だ。華奢で控えめな魅力はそのままに。
──しかし。
エリー……。
私は、私のベッドの枕元に乗った、エリーの小さな顔を発見した。
目を閉じて、浅い寝息を繰り返しながら、私の傍で眠っている。肩には春用のカーディガンが掛かっていて、エリーの寝息に合わせて軽く上下していた。
エリー。
私は彼女の名を呼ぼうとした。
──すると、また今までのように声が出ない。
エリー。
私はもう一度挑んだ。しかし声は出ない。もう一度。もう一度。しかしやはり声は出ない。
繰り返すうちに私は焦り出した。
エリー、私は君の名を呼べる。
たった今、数年ぶりに声を出したんだ。エリー、聞いてくれ。
私はこの時、後で思い出すと滑稽なほどに焦り出していた。まるで今エリーを起こさないと、世界が終わってしまうのではないかと思っているほどの焦りようだった。
何度試みても声が出ないのが分かると、私は、手を動かすのを目指した。
そうだ──私の手元にはスティックがある。
『いつか、ウィルが目を覚まして、これを鳴らしてくれるといいな』
私は手を動かそうとした。身体中の筋肉を震わせ、歯を食いしばりながら、指先に神経を集中する。こうして聞くと楽な動作に思えるだろうが、当時の私には本当に苦しかった。私はたった四年前、アスリートとして常人にはありえないほどの体力を有していたというのに、この時はもう、指先を動かすだけの筋肉さえ残っていなかったのだ。
エリー!
かたわらで寝息を立てる、天使のような義妹を前に、私は最後の力を振り絞った。
いや、正確にはこれは「最初の」力と、いうべきであろうか……。
天は私に味方した。あるいは、私に同情でもしたのだろう。小さな、本当に小さな、しかし偉大なる力を、私の指先に与えた。
ピー、ピー、ピー。
看護士たちの控え室にあるランプが、赤く点滅したという。患者からのコールだ。
普段なら彼らはそれを見るとすぐに該当する病室へ急ぐが、その時駐屯していた看護士の女性は、いぶかしげに点滅したライトの病室番号を確認した。
──ウィリアム・E・ボストン二世の病室だ。
あの、万年寝たきりの、植物人間の部屋である。
その看護士はエリーを見知っており、用があればエリー自らここへ足を運んでくることを知っていたから、何だろう、と首を傾げながら病室へ向かった。
「エリー?」
病室に入ってきて、最初に看護士が声を掛けたのは、私ではなくエリーの方だった。
エリーは目を覚まし、何かを小さな声で囁きながらゆっくりと顔を上げた。そして背後に看護士を見つけると、のんびりした調子で挨拶した。
「おはよう……ございます。どうしたんですか……? まだ、朝早いのに……」
「そうなんだけど、今コールがあったのよ。この病室から。貴女じゃないの?」
「え?」
エリーが、驚いて寝起きの瞳を瞬く。
二人の女性はしばらく無言で見つめ合った後、揃って私の方へ顔を向けた。
「ウィル……?」
信じられないといった顔をしながら、エリーは私を呼んだ。
私はゆっくりとエリーの方へ顔を向け、彼女に向かい微笑んだ。──少なくとも、そうしようと努力をした。
「ウィル……」
再びエリーが私の名を呼んだとき、彼女の瞳には涙が溢れはじめていた。どうやら私の努力は──少なくともある程度は──成功したらしい。
春の泉に流れこむ、雪どけの水のように。
溢れる涙と、零れる微かな笑い声。泣き笑いといった感じの表情で、小さく首を振りながらエリーは言った。
「ウィルなのね……目を覚まして……くれたのね」
声は小さかったが、口調は確信に満ちている。私はああ、と答えた。
エリーの背後で、看護士が仰天に両目をテニスボールのサイズに見開いて、何事かを叫びながら病室を出て行くのが見えた。多分医者を呼びに行ったのだろう。それとも、私の声が逃げ出したいほど酷いものだったのか。真相は分からないが、今となってはどちらでもいい。
私は夢を見ていた……。
長い長い夢を。
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