Bright Dawn

泉野ジュール

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Chapter Twenty One

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 バレット家の人々は有言実行だった。
 当初、ロチェスターに対し「けちょんけちょん」にしてしまうだの、「客人には容赦しない」だのと言っていたのは、ネルを安心させるための大袈裟な表現だと思っていたのだ。それが、これといった誇張ではなかったことを理解するのに、大した時間はかからなかった。

 ロチェスターが現れた翌日の朝、バレット家の食卓はこれからいくさにおもむく中世の騎士の城のように、爛々らんらんと熱気づいていた。

「あのろくでなしは、まだ降りてこんのか」
 珍しく早起きして食堂に出てきたピートが、そう文句を言いながら席に着いた。ネルには見えないけれど、いかにも鼻をひくつかせながら指をわさわさと動かし、罠にはまってくる獲物を待っている肉食獣の顔をしているのが想像できる。
「ああいう貧弱な男はどうにも好かん。横っ面を張り倒してやったら、どんな顔をしおるかな。さぞかし見ものだろう」
「わたしだったらネズミを服の中に忍ばせてやるわ。きっと悲鳴をあげて慌てふためくはずよ」

 普段はピートと喧嘩腰の多いオリヴィアも、今朝は一切反論しないで、彼に加勢していた。
 女中頭のマギーが、なにか強烈な匂いのする鍋をどんと勢いよく食卓の上に置いた。

「さあ、ご注文のスープだよ! いったい、誰が朝からこれを食べるんだい?」
 答える代わりにオリヴィアはくすくすと笑い声を漏らし、隣の席に座るネルに、そっと耳打ちをした。
「あれはマギー特製の滋養スープなの。わたしが初めてノースウッドに嫁入りしてきた時、何も知らずに食べさせられたわ。あまりに酷くて、口の中に入れただけで星を見たんだから」
「そんなものを、ど、どうするつもりなの?」
「もちろんお客様に出すのよ!」

 オリヴィアの声は嬉々としていた。
 普段ならこんな時、ローナンが持ち前のウェットと冷静さでなにか気の利いたことを言って、すっかり好戦的になっている皆を落ち着かせたりするのだろう。しかし彼は不在で、だからこそロチェスターは招かれざる客なのだ。
 とはいえ、ロチェスターはいつまでたっても起きてこなかったので、その凄まじい匂いのするスープはいつまでも食卓の真ん中を陣取ったまま鎮座していた。

 バレット家の朝は早い。
 使用人達だけでなく、主人であるノースウッド伯爵に伯爵夫人であるオリヴィア、そして通常はローナンも、早くから起きてきてあれこれと仕事を始める。
 普通の貴族なら小作人や従僕に任せるような仕事も、彼らは率先して行っていた。厩舎にいる馬や、家庭菜園の世話、そしてもちろんイザベラの面倒……。
 ネルもそんな彼らを手伝いたくて、ローナンに頼んで何度か一緒に厩舎に連れて行ってもらったりした。そして、それを心から楽しんでいた。
 もちろん、ネルは昔から、贅沢ばかりしている貴族ではなかった。一家は堅実ではあったが特に裕福というわけではなく、従者であるジョージと料理人が一人いるだけで、ネルだってたびたび料理や掃除の家事を手伝ったものだ。

 だから、バレット家の人々の働きぶりは、憧れや好意を抱きさえすれ、わずらわしく思ったことなど一切ない。ただ、ネルに目が見えたなら、もっと協力することができたのにと悔しく思うだけだ。

 ロチェスターは違う。
 この蒼白でちっぽけな伯爵は、労働と名のつくものには絶対に手を染めなかった。実際、ネルは、もし食料庫にたっぷりの食材が置いてあっても、それを調理して銀のカトラリーの出揃った食卓で給仕してくれる使用人がいなければ、ロチェスターは飢え死にするのではないかと踏んでいる。
 彼が自分でできるのは酒瓶の蓋をあけることくらいだ。

 ほんの二週間前まで、ネルはそのロチェスターの名ばかりの妻……そして彼の哀れな慰め者になるであろう絶望の中にいたのだ。

 それが、今はこうして、ローナンの帰りを待っている。
 そして彼と結婚するのだ……。優しくて、働き者で、賢くて、最高の夫となるであろうひじょうに魅力的な、緑の瞳の偉丈夫。ネルを心から愛してくれて、まるでネルが彼の女王であるかのように振舞ってくれる、得難き人。
 おまけに、彼の家族はネルのためにロチェスターと戦おうとしてくれている。
 彼らにとって、利点など何一つないはずなのに。

 だからネルは、なにがあってもローナンと、彼の家族を守ることを心に誓った。ロチェスターはどうにかして彼らに対抗しようとするかもしれない……しかし、絶対にさせてはならない。
 彼らがネルを守ってくれているように、ネルも彼らを守らなくては。



 そして時は経ち、ネルはジョージに連れられて、自室へ戻っていた。
 実際には、ジョージはまだ片足を石膏で固められたままで、杖をついて歩いているので、どちらかといえばネルがジョージを助けながら歩いているような格好だったけれど。
 とにかく、オリヴィアの取り計らいで、ネルはロチェスターに顔を合わせる必要がないように遠ざけられているらしかった。ロチェスターが食事を求めて降りてくる頃合を見計らって、なんだかんだと厄介払いさせられてしまったのだ。

「ネリーお嬢さんは優しいから」
 ネルをベッドの端まで案内して座らせると、ジョージは自らもそのすぐ隣にどっかりと腰を下ろした。
「いくらろくでなしとはいえ、親族であるロチェスター坊ちゃんがいじめられるところを見るのは、気が進まないでしょう」

 ネルは肩をすくめた。
「わたしには見えないのよ、ジョージ」
「おっと、失礼しました。つまりね、その場に居合わせればなにが起こってるかは分かっちまうでしょう、という意味でね」
「いいのよ。分かってるわ」

 ネルはほんの少しうつむき、いつもそうしているように、全身を耳にして周囲の音に聞き入った。
 外は雪嵐なのだろうか……。
 窓枠がカタカタと寒さに抵抗するように揺れている。鳥のさえずりや馬のいななきはまったく聞こえない。つまり、生き物が外を動き回れるような天候ではないのだ。それはそのまま、ローナンも身動きが取れないでいるだろうということになる。
 ジョージも同じことを考えているらしかった。

「この天気では、ローナンの旦那もなかなか帰ってこられないかもしれませんね」
「ええ……」
「ネリーお嬢さん、負けちゃいけませんぜ。旦那の帰りを待つと約束したんでしょう。ここまで自らやって来るくらいですから、ロチェスター坊ちゃんはなにかを企んでいるのかもしれやせんが、心配するこたぁねえんです」

 ネルがロチェスターの本性を知っているように、長年マクファーレン家に仕えてきたジョージだって、ロチェスターをよく分かっている。
 あの男は狡猾で、卑怯者だ。
 いつだってそうだった。いまさらそれが変わることもないだろう。
 ネルはまっすぐ前に向き直り、ローナンの優しい声と、見たこともない彼の美しい姿を想像して、ジョージの言葉にうなづいた。

 ネルはそのまま一人で、自室で裁縫をして過ごしていた。
 昼になると、しばらく席を外していたジョージが戻ってきて、今のうちに食堂で昼食を取ろうと迎えに来た。
「ロチェスターの坊ちゃんは、ノースウッド伯爵に連れられて屋敷の離れを見学中で、いませんから」
 ジョージの声は、まるで笑いを必死で抑えようとしているかのように震えていた。裁縫道具をきちんと決まった場所に戻したネルは、ため息をつきながら首を振った。
「バレット家の人たちは、ずいぶんとロチェスターを歓迎しているのね」
「そうですとも!」
 ネルの皮肉に、ジョージは拍手喝采でもしそうな勢いで、答えた。
「ノースウッド伯爵のような迫力のある大の男に、ロチェスター坊ちゃんが敵うはずないじゃないですか。それに、あの嫌味な老ぼれ執事も、人を怒らせるのだけは上手いですからね。坊ちゃんは今にも頭から煙を吹きそうになっていますよ」
 くっくっという従者の含み笑いに、思わずネルも顔をほころばせてしまった。

 たとえロチェスターでなくても、バレット兄弟に敵うような男は少ないだろう。そして老ピートの毒舌と尊大な態度は、田舎の屋敷でぬくぬくと甘やかされて育ったロチェスターには、まったく免疫がないもののはずだ。
 なにもかもが思い通りにいかなくて、すっかり憤怒しているロチェスターの図を想像するのは、少し胸がスッとした。
 それと同時に、わずかな不安を感じもしたけれど……。
 ネルは立ち上がり、ジョージについて食堂での昼食に向かった。


 そして、裁縫以外にできることがほとんどないまま時が過ぎ、夕方頃になるとネルは心に重いもやがかかっているような苛立ちを感じ始めていた。
 いつまで経ってもこうして一人隔離されている状況からして、彼らは上手くロチェスターを手玉に取っているのだろう。それはそれでありがたい……けれど、このままローナンが帰ってくるまでこうしてロチェスターをネルから遠ざけておいて、それでどうなるのだろう。
 彼らはロチェスターを、傲慢で我儘だがひ弱な小男だとしか思っていない。
 それ自体は間違いでもなんでもないのだが、ロチェスターにはもっと残忍な一面がある……。彼は、欲しいものがあれば、どんな卑怯な手段もいとわない毒蛇のような男なのだ。
 ジョージは遅めの昼寝を取るために自室に引っ込んでしまったので、ネルはここに一人で、今の正確な時刻は分からない。でも、部屋がわずかに冷え込んできて、そろそろ夜が近づいているのではないかと予想できた。

(私が、きちんと言うべきなんだわ)
 針が刺さったままの布を膝に置き、ネルは口を引き結びながら前を向いた。
(私がロチェスターを追い出さなくちゃ……彼が、なにか、恐ろしいことを考えつく前に)

 心が決まると、ネルは慎重に裁縫道具を決まった場所に戻し、すっと立ち上がった。
 そして部屋を後にして、下階のサロンに向かおうと廊下に足を踏み出したとき、遠くからマギーの悲鳴が屋敷中に響いた。

「マダム! マダム! ああ、一体どうしちまったんだい!?」

 女中頭は興奮しながら何度もオリヴィアを呼んでいた。
 ネルは蒼白になった。
 なにが起こったのか分からない……でも、きっととても良くないことが起こったのだということだけは分かった。震える足と混乱する頭で、なんとか必死に歩数を数えながら、ネルは暗闇の中をよたよたと駆けていった。

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