Bright Dawn

泉野ジュール

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Chapter Seventeen

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 これほど時間の経過を長く、不安に感じるのは、ネルにとって初めてのことだった。
 粉雪が舞う薄暗い朝日の中、ローナンは二人の未来のために、しばしの危険な旅に挑んでいった。
 こんな季節でなければ、もっと明るく前向きな気持ちでローナンを送り出せたのかもしれない。
 ネルには見えなかったが、それでも肌を刺す冷たい空気や、窓枠をかたかたと揺らす不穏な北風が、嫌というほど天候の厳しさを伝えてきた。ほんの少し風がひゅうと音を立てるのが聞こえるたびに、ネルの心臓は不安に高鳴り、恐怖に背筋が凍りつく。

 どうしてこんなに不安になるのだろう。
 ──それはきっと、ネルには分かっているからだ。ローナンは、自分のような盲目の役立たずにはもったいなさすぎる。だから、神はまたネルから彼を取り上げてしまうのではないか……。そう、恐れずにはいられないから。

(いけない。こんなふうに考えちゃ駄目……)
 ネルは不安を振り払うように頭を振った。
 たぶん、一人でじっと部屋にいるのはよくない。思考だけがどんどん悪い方へ行って、いりもしない心配事ばかりが増えていく。
 ベッドから立ち上がったネルは、人の集まっている場所へ行くことにした。

 そして、誰かの、なにかの役に立つことをしよう。
 こんなふうに部屋で一人で考え込んでいるのでは、それこそ本当に役立たず以外の何物でもない。


 部屋のドアを出て、右へ、十二歩。
 そこから階段まで、左へ、四歩。
 慎重に階段を数えながら一階まで降り立ち、そこからまた歩数を数えて、ネルは食堂の前まで来ていた。食堂のドアは開け放たれているようで、芳しい焼きたてのパンの匂いがネルの鼻腔をくすぐり、バレット家のみなの賑やかな声が聞こえてくる。
 ネルが姿勢を正して中へ入ろうとすると、すぐにオリヴィアの可憐な声が近づいてきた。

「ネル! 降りて来てくれたのね。よかった、もうしばらくしたら、呼びに行こうと思っていたところだったの」
「ごめんなさい、オリヴィア……わたし、何と言っていいのか……」

 オリヴィアの柔らかい手が、励ますようにネルの手をぎゅっと掴んだ。
「謝ったりしないで、ネル。ローナンのことなら心配ないわ。ノースウッドの男たちは嫌になるほど頑丈にできているのよ。このわたしが保証するから大丈夫」
 すると、部屋の奥からノースウッド伯爵がごほんと意味ありげな咳払いをするのが聞こえてきた。オリヴィアはそれにつられるように笑い声を漏らし、ネルの手をさらに強く握る。
「聞いて……実はローナンはね、今朝早く、出発前にわたしのところへ来たの」
「え」
 オリヴィアの声は優しいものだったが、ネルはほんの少し、傷ついたような気持ちになって声を落とした。
 確かに、ローナンとオリヴィアは仲が良かった……。
 二人の会話を聞いていれば、気が合う仲だろうというのがすぐに察せられたし、外見的なところはネルには見えないが、性格だけ比べてみると明るいローナンと真面目そうなエドモンドよりも、オリヴィアと彼の方が血の繋がりがあっても良さそうな気がするくらいなのだ。
 それは夫のエドモンドも分かっているのか、ローナンとオリヴィアが二人きりで話をしていたりすると、どこからともなくふらりと現れて、適当な理由をつけては妻を攫っていったりする。盲目にさえはっきりと分かる、かなりあからさまな嫉妬だった。

 その気持ちを……ネルも、少し理解した。
 愛する人に、自分だけを見て欲しいと願う、わがままを。

「違うの」
 ネルの心中を察したように、オリヴィアが優しく続けた。「ローナンはあなたのことをわたしに頼むために来たのよ。正直、あんなに必死な顔をした義弟ローナンを見たのは初めてだったわ」
「わたしのことを?」
「ええ、あなたは彼がどれだけあなたを愛しているか、まだ分かっていない、って。いつも考えすぎて、自分を蔑んでしまうことが多いって。だから、彼が居ない間も、あなたが彼の愛情を疑わないように毎日、一日中、繰り返し思い出させてやってくれと言っていたわ」

 毎日。
 それはともすれば、ローナンの旅は数日にも渡る長いものになる可能性を示唆してもいる……のだが。

「オリヴィア……」
「じつは、彼はそのためにわたしに手紙の束を託してきたの。何枚もあるわ。一つ一つ日時が指定されていて、最初の手紙は『一日目、朝食の後に』って書かれているの。それを早くあなたに伝えたくて、少し焦っていたのよ」
 だから、早く朝食を済ませましょう。
 オリヴィアはそう言って、ネルの手を引き、食欲をそそる香りを放つ食卓へと誘った。焼きたての小麦粉の匂いが、なんだか急に甘く、優しく感じて、ネルは世界の全てに感謝したい気分になった。

(彼が、わたしに手紙を?)

 このまま、このまま。
 あなたと一緒にこの甘い香りを、毎朝感じることのできる未来が、待っているのかもしれない。
 今はそう、思いたかった。


「『親愛なる未来のバレット夫人へ』、あら、そうとう焦っていたのね。インクがかすれてるわ。ふふ」
 朝食が済むと、オリヴィアは一旦、娘に授乳するために寝室へ戻ったのだが、ほんの少しの時間だけで眠っている赤ん坊を抱いてサロンへ戻ってきた。
 イザベラは大人しく、よく眠る子のようで、特に授乳後は当然のように数時間寝入ってしまうのだという。健康な赤ん坊独特のやわらかで甘い香りが辺りにただよって、ネルもすっかり優しい気持ちになった。
 オリヴィアとネルの二人は、暖炉の前の安楽椅子に腰を落ち着けると、ローナンが残していった手紙の封を切った。
 手紙を読みながら、オリヴィアは時々彼女ならではの意見も付け加える。

「『君がこの手紙の存在を知るころ、僕はきっと、君のことばかり考えながら、極寒の雪の中を駆けずり回っていると思う。君は暖かい朝食にありつけただろうか? 階段を踏み外したりはしていないだろうか? ピートの毒舌に泣かされていないだろうか? と』
 まぁ、これは妥当ね?」

 ここで、オリヴィアとネルはくすくすと一緒に声を上げて笑った。
 そしてネルは、こうしてオリヴィアが隣に居てくれることに、深い感謝と安心を感じた。もし自分で読めたとしても、一人でいたら、きっと切なくて泣いてしまう。でも実際は、こうしてオリヴィアがまるで姉のように接してくれ、優しい赤ん坊の香りに包まれて、暖かい暖炉の前で笑い声を上げている。
 ローナンは、無償の愛を与えてくれただけではない。
 意図したことではないにしても、彼はネルに、かけがいのない家族まで与えてくれたのだ。
「続きを読んで」
 と、ネルがねだると、オリヴィアはもちろんよと言って手紙を持ち直した。

「『でも、その中でも一番心配なのは、君が僕の愛情を疑っていないかどうかということだ。
 いいかい、ネル、僕は君から逃げ出したわけでも、また雪の中に別の女の子を探しに行ったわけでもない。君との未来を確かなものにするために、今は一時だけ、君と別れているにすぎない。分かってくれるね?
 帰ってきたら、一番に君を抱きしめよう。
 そうしてこれから先の一生を、君と分かち合いたい。君を愛してる』」

 オリヴィアもネルも、言葉を失って息を飲んだ。
 ぱちぱちと暖炉の火がはぜるのが聞こえて、ネルにも……その炎の色が見えるような気分になった。くれないだいだいの熱気が、煤けた丸太の上を踊るようにうねる姿が、はっきりまぶたの裏に現れる。
 そして、緑の瞳の、背の高い男性が、ひとり。
 ネルは、きっと一生、どれだけ長い時間を一緒に過ごしても、見ることはできないはずの彼の姿を、はっきりと見た気がした。

「素敵ね」
 感嘆のため息まじりにそう呟いたオリヴィアは、ネルの肩に優しく手を置いて励ましてくれた。
「最後は『君のローナンより』ってなっているわ。今はここまでだけど、晩にももう一通あるの。それから明日の朝にもまた一通。でも、もしみんなこの調子だったら、わたしまでのぼせちゃいそうだわ」
 そして、オリヴィアはネルの手に二つに畳んだ手紙を渡して、「あなたのものよ」と明るく言った。
 ネルは
「ありがとう、オリヴィア」
 と答えるのが精一杯だったが、それでオリヴィアはネルの気持ちをすべて理解してくれたようだった。
 ネルはローナンからの手紙を胸に抱き、目を閉じると深く息を吸って、祈った。

 早く、早く、帰ってきてね。

「ねえ、ネル。不謹慎だけど、おかげでわたし達には婚礼用のドレスを用意する時間ができたんだわ。さっそく始めましょう?」
 そんなオリヴィアの提案に、ネルは微笑みながらうなづいた。
 きっとすべて上手くいく……そう思えてならない朝だった。

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