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Chapter Sixteen
しおりを挟むもうすぐ夜が明けようとするころ、ネルはベッドの上で身を縮めながら、やっと訪れたまどろみにゆっくりと目を閉じた。
いままで眠れなかったのは、どうしてだろう、この夜が終わらないで欲しかったからかもしれない。
たくさんの想いが胸をひしめき合い、ネルの心を散り散りに乱していた。
幸せになれるかもしれないという、夢。
頭をもたげる不安。
どうしようもなく明るい希望。
暗い後ろめたさ。
いつになったら、この暗闇に光が射すのだろうと、ネルはいつも神に問い、空しい希望を抱き続けてきた。そして今、目には見えないまでも、輝かしい光りがネルの前にさんさんと降り注いでいるのを感じる。
喜んでいいはずなのに。
この幸せを、噛みしめてもいいはずなのに。
ネルはどうしても手放しで喜ぶことができずにいた。ネルと共に生きるということは、ローナンにとって、つねに大きなお荷物を抱えながら生きていかなくてはいけないということと同義だからだ。
彼は、今はまだその重さに気が付いていないのかもしれない。
でも、いつか、必ず分かるときがくる。
そのとき、優しかった彼がどう変わるのか、どう落胆するのか、どう……後悔するのか。考えるだけでネルの心は痛いほど締めつけられた。
寝返りをうつと、下半身に慣れない衝撃が走った。
身体の芯に残るつんとした痛みが、ときどきうずいて、ローナンと交わした愛の名残りを感じさせる。
彼に身を任せたことに、後悔はひとかけらもしていなかった。
彼の腕に抱かれている間ずっと……懐かしい思い出の場所に帰ってきたような、深い安心感がずっと離れなかった。まったく新しい経験だったはずなのに、まるでずっとそれを知っていたように、不安はほとんどなかった。
そうした感傷は、もしかしたら、ただローナンが女性の扱いに長けているおかげであって、ネルの幼稚でロマンチックな夢とは関係がないのかもしれない。でも、彼はネルに最高の思い出を授けてくれた。
世界中のすべての女性が夢見るような、最初の経験を。
ネルがもう、諦めていたものを。
それだけでも、ネルにはもう、自分にできるすべてのことを彼のためにする決心をしていた。
小鳥のさえずりが聞こえてくる頃になると、ネルはいつの間にか、つかの間の眠りにゆっくりと落ちていった。
「起きて、ネル、僕の天使」
そんな、耳元をくすぐるローナンの声で目を覚ましたネルは、まぶたを開きながら声のしたほうに顔を向けてまたたいた。
ローナンはベッドのすぐ横にひざまずき、ネルを覗き込んでいるようだった。
「もう……朝になったのね」
「まだ早朝だよ。他の連中はまだ寝ているし、君にも、もう少しゆっくりしていて欲しい」
そう言って、ローナンはネルの額に掛かっている髪を、優しくどけた。「昨晩は無理をさせてしまったからね」
ネルは首を横に振った。
確かに、昨夜は情熱的な夜だった。でも、ローナンはあくまでも優しく、ネルの身体をあまねく気使ってくれたので、無理をしたという感覚はない。もし彼が望めば、ネルはいま再び愛の行為を繰り返すことに躊躇しなかっただろう。
ネルは手探りでローナンの顔をたどり、彼の柔らかい髪をすいた。
ローナンの喉から、満足げな猫のような声が漏れる。
「僕がしばらく留守にしているあいだに、心変わりしないと約束してくれるね?」
「え」
「僕たちの結婚を取り仕切ってくれる神父が必要になる。領内には数えるほどしかいないんだ。僕が行ってここに連れてくるよ」
そして、ネルの手をとると、その指先に数回の口づけを落としながら、ゆっくりと静かにネルの反応をうかがっているようだった。
「それは……危険ではないの……?」
ネルの疑問に、ローナンは答えなかった。しかし、それこそが答えだ。
この目で見て確認できるわけではないが、外には雪が積もっているはずで、これからまた大雪になる可能性もある。ネル自身、この時期にこの北方を旅することがどれだけ危険か、身をもって知ったばかりだった。
少なくとも、一緒に行って、彼を助けられたらと思うが……ネルが一緒の旅では、それこそ余計なお荷物を背負わせるだけだと分かっていた。
はからずも、ネルはすでにローナンに危険を冒させる原因になっているのだ。
「ごめんなさい、わたしの……せいで」
涙を呑み込みながら、そう呟くのが精一杯だった。
すると、優しかったローナンの手が急に、荒っぽくネルの頬をすくい上げた。そのまま顔をゆすられ、ネルは驚きに悲鳴を上げそうになる。
「僕がどれだけ、なんど言っても、君はまだなにも分かっていない。なにも」
苛立ちにさえ似た乾いた声が、ローナンの唇から漏れ、ネルの胸に深く突き刺さった。その痛みが、なぜか甘く、濃く、熱い波紋となってネルの全身を駆け抜ける。
「今の僕にとって、息をする理由は君なんだよ、ネル。君を見つける前、どうやって生きてきたのかさえ、よく思い出せない。君は僕に沢山のものを与えてくれている。生き甲斐を、強さを、希望を。自分を蔑むのはもう、止めてくれないか。僕が堪えられない」
どう答えていいのか分からず、ネルはなんども瞳をまたたいた。
「わたしたち、まだ出会ったばかりだわ……」
と、ささやくしかできなかった。「どうしてそんなふうに思えるの?」
ローナンは笑ったらしかった。なんとなく、彼の手が緊張を解いたのを感じたから、そうなのだろうとネルには思えたのだ。
「愛や恋には二つの種類があると思う……。ゆっくり、時とともに育まれていく愛。そして、稲妻のように一瞬で世界を熱く焼き焦がす愛と」
「じゃあ、わたしは稲妻だったのね?」
「そう。灰色の雪空に走った、見たこともないくらいの激しくて大きな雷。見事に僕の頭に直撃して、骨の髄まで焼き尽した。でもね、」
次の言葉を注意深く選ぶように、ローナンはほんの少しの間、沈黙した。「でも、僕は時間をかけて、ゆっくり君を尊敬するようにもなった……ねぇ、十日もあれば、君を愛するには十分な時間だよ。君はそのくらい魅力的だ。それを忘れないで」
どんなふうに答えることができただろう。
こんな、温かい愛の言葉に、どうやって応えることができただろう。『ありがとう』? 『そんなことないわ』? 『あなたこそ、もっと魅力的よ』?
でも、今のネルには、涙を浮かべながらうなづくのがやっとだった。
「気を付けて……。あなたの身の安全をなによりも第一に考えて。急がなくても、わたしはちっともかまわないから」
ちらりとネルの脳裏に、顔を不機嫌にゆがめたロチェスターが横切った。
本当は、あまり時間はないのかもしれない……しかし、ローナンの安全以上に大切なものなど、なにもない。
ローナンは納得したらしかった。
「なにがあっても、ここで僕を待っていてくれるね?」
ネルはうなづいた。
「あなたこそ、きっと帰って来て。途中でまた馬車を溝にはまらせた馬鹿な女の子がいても、浮気してはだめよ」
見えなくても、ローナンが顔中に笑みを広げるのがわかった。
「僕の奥さんは嫉妬深いみたいだ」
「そうよ……逃げたくなった?」
「いいや」
ローナンの指が、そっとネルの唇に触れた。「稲妻はもう落ちてしまった……もう、遅いよ」
そして二人は口づけを交わした。
言葉にはせずとも、誓いの、口づけを。
──もし、わたしがあなたの人生に現れた稲妻なら、あなたはわたしの果てない暗闇に現れた、眩しい朝日ね……。
二人で一緒に浴びた、あの輝かしい光。
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