Bright Dawn

泉野ジュール

文字の大きさ
上 下
16 / 27

Chapter Sixteen

しおりを挟む


 もうすぐ夜が明けようとするころ、ネルはベッドの上で身を縮めながら、やっと訪れたまどろみにゆっくりと目を閉じた。
 いままで眠れなかったのは、どうしてだろう、この夜が終わらないで欲しかったからかもしれない。
 たくさんの想いが胸をひしめき合い、ネルの心を散り散りに乱していた。

 幸せになれるかもしれないという、夢。
 頭をもたげる不安。
 どうしようもなく明るい希望。
 暗い後ろめたさ。

 いつになったら、この暗闇に光が射すのだろうと、ネルはいつも神に問い、空しい希望を抱き続けてきた。そして今、目には見えないまでも、輝かしい光りがネルの前にさんさんと降り注いでいるのを感じる。

 喜んでいいはずなのに。
 この幸せを、噛みしめてもいいはずなのに。

 ネルはどうしても手放しで喜ぶことができずにいた。ネルと共に生きるということは、ローナンにとって、つねに大きなお荷物を抱えながら生きていかなくてはいけないということと同義だからだ。
 彼は、今はまだその重さに気が付いていないのかもしれない。
 でも、いつか、必ず分かるときがくる。
 そのとき、優しかった彼がどう変わるのか、どう落胆するのか、どう……後悔するのか。考えるだけでネルの心は痛いほど締めつけられた。

 寝返りをうつと、下半身に慣れない衝撃が走った。
 身体の芯に残るつんとした痛みが、ときどきうずいて、ローナンと交わした愛の名残りを感じさせる。

 彼に身を任せたことに、後悔はひとかけらもしていなかった。
 彼の腕に抱かれている間ずっと……懐かしい思い出の場所に帰ってきたような、深い安心感がずっと離れなかった。まったく新しい経験だったはずなのに、まるでずっとそれを知っていたように、不安はほとんどなかった。
 そうした感傷は、もしかしたら、ただローナンが女性の扱いに長けているおかげであって、ネルの幼稚でロマンチックな夢とは関係がないのかもしれない。でも、彼はネルに最高の思い出を授けてくれた。

 世界中のすべての女性が夢見るような、最初の経験を。
 ネルがもう、諦めていたものを。

 それだけでも、ネルにはもう、自分にできるすべてのことを彼のためにする決心をしていた。
 小鳥のさえずりが聞こえてくる頃になると、ネルはいつの間にか、つかの間の眠りにゆっくりと落ちていった。



「起きて、ネル、僕の天使」
 そんな、耳元をくすぐるローナンの声で目を覚ましたネルは、まぶたを開きながら声のしたほうに顔を向けてまたたいた。
 ローナンはベッドのすぐ横にひざまずき、ネルを覗き込んでいるようだった。
「もう……朝になったのね」
「まだ早朝だよ。他の連中はまだ寝ているし、君にも、もう少しゆっくりしていて欲しい」
 そう言って、ローナンはネルの額に掛かっている髪を、優しくどけた。「昨晩は無理をさせてしまったからね」
 ネルは首を横に振った。
 確かに、昨夜は情熱的な夜だった。でも、ローナンはあくまでも優しく、ネルの身体をあまねく気使ってくれたので、無理をしたという感覚はない。もし彼が望めば、ネルはいま再び愛の行為を繰り返すことに躊躇しなかっただろう。
 ネルは手探りでローナンの顔をたどり、彼の柔らかい髪をすいた。
 ローナンの喉から、満足げな猫のような声が漏れる。

「僕がしばらく留守にしているあいだに、心変わりしないと約束してくれるね?」
「え」
「僕たちの結婚を取り仕切ってくれる神父が必要になる。領内には数えるほどしかいないんだ。僕が行ってここに連れてくるよ」

 そして、ネルの手をとると、その指先に数回の口づけを落としながら、ゆっくりと静かにネルの反応をうかがっているようだった。
「それは……危険ではないの……?」
 ネルの疑問に、ローナンは答えなかった。しかし、それこそが答えだ。
 この目で見て確認できるわけではないが、外には雪が積もっているはずで、これからまた大雪になる可能性もある。ネル自身、この時期にこの北方を旅することがどれだけ危険か、身をもって知ったばかりだった。
 少なくとも、一緒に行って、彼を助けられたらと思うが……ネルが一緒の旅では、それこそ余計なお荷物を背負わせるだけだと分かっていた。
 はからずも、ネルはすでにローナンに危険を冒させる原因になっているのだ。

「ごめんなさい、わたしの……せいで」
 涙を呑み込みながら、そう呟くのが精一杯だった。
 すると、優しかったローナンの手が急に、荒っぽくネルの頬をすくい上げた。そのまま顔をゆすられ、ネルは驚きに悲鳴を上げそうになる。

「僕がどれだけ、なんど言っても、君はまだなにも分かっていない。なにも」
 苛立ちにさえ似た乾いた声が、ローナンの唇から漏れ、ネルの胸に深く突き刺さった。その痛みが、なぜか甘く、濃く、熱い波紋となってネルの全身を駆け抜ける。

「今の僕にとって、息をする理由は君なんだよ、ネル。君を見つける前、どうやって生きてきたのかさえ、よく思い出せない。君は僕に沢山のものを与えてくれている。生き甲斐を、強さを、希望を。自分を蔑むのはもう、止めてくれないか。僕が堪えられない」

 どう答えていいのか分からず、ネルはなんども瞳をまたたいた。
「わたしたち、まだ出会ったばかりだわ……」
 と、ささやくしかできなかった。「どうしてそんなふうに思えるの?」
 ローナンは笑ったらしかった。なんとなく、彼の手が緊張を解いたのを感じたから、そうなのだろうとネルには思えたのだ。

「愛や恋には二つの種類があると思う……。ゆっくり、時とともに育まれていく愛。そして、稲妻のように一瞬で世界を熱く焼き焦がす愛と」
「じゃあ、わたしは稲妻だったのね?」
「そう。灰色の雪空に走った、見たこともないくらいの激しくて大きな雷。見事に僕の頭に直撃して、骨の髄まで焼き尽した。でもね、」
 次の言葉を注意深く選ぶように、ローナンはほんの少しの間、沈黙した。「でも、僕は時間をかけて、ゆっくり君を尊敬するようにもなった……ねぇ、十日もあれば、君を愛するには十分な時間だよ。君はそのくらい魅力的だ。それを忘れないで」

 どんなふうに答えることができただろう。
 こんな、温かい愛の言葉に、どうやって応えることができただろう。『ありがとう』?  『そんなことないわ』? 『あなたこそ、もっと魅力的よ』?

 でも、今のネルには、涙を浮かべながらうなづくのがやっとだった。
「気を付けて……。あなたの身の安全をなによりも第一に考えて。急がなくても、わたしはちっともかまわないから」
 ちらりとネルの脳裏に、顔を不機嫌にゆがめたロチェスターが横切った。
 本当は、あまり時間はないのかもしれない……しかし、ローナンの安全以上に大切なものなど、なにもない。
 ローナンは納得したらしかった。
「なにがあっても、ここで僕を待っていてくれるね?」
 ネルはうなづいた。
「あなたこそ、きっと帰って来て。途中でまた馬車を溝にはまらせた馬鹿な女の子がいても、浮気してはだめよ」
 見えなくても、ローナンが顔中に笑みを広げるのがわかった。
「僕の奥さんは嫉妬深いみたいだ」
「そうよ……逃げたくなった?」
「いいや」
 ローナンの指が、そっとネルの唇に触れた。「稲妻はもう落ちてしまった……もう、遅いよ」

 そして二人は口づけを交わした。
 言葉にはせずとも、誓いの、口づけを。


 ──もし、わたしがあなたの人生に現れた稲妻なら、あなたはわたしの果てない暗闇に現れた、眩しい朝日ね……。
 二人で一緒に浴びた、あの輝かしい光。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

【完結】聖女の手を取り婚約者が消えて二年。私は別の人の妻になっていた。

文月ゆうり
恋愛
レティシアナは姫だ。 父王に一番愛される姫。 ゆえに妬まれることが多く、それを憂いた父王により早くに婚約を結ぶことになった。 優しく、頼れる婚約者はレティシアナの英雄だ。 しかし、彼は居なくなった。 聖女と呼ばれる少女と一緒に、行方を眩ませたのだ。 そして、二年後。 レティシアナは、大国の王の妻となっていた。 ※主人公は、戦えるような存在ではありません。戦えて、強い主人公が好きな方には合わない可能性があります。 小説家になろうにも投稿しています。 エールありがとうございます!

殿下、側妃とお幸せに! 正妃をやめたら溺愛されました

まるねこ
恋愛
旧題:お飾り妃になってしまいました 第15回アルファポリス恋愛大賞で奨励賞を頂きました⭐︎読者の皆様お読み頂きありがとうございます! 結婚式1月前に突然告白される。相手は男爵令嬢ですか、婚約破棄ですね。分かりました。えっ?違うの?嫌です。お飾り妃なんてなりたくありません。

最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません

abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。 後宮はいつでも女の戦いが絶えない。 安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。 「どうして、この人を愛していたのかしら?」 ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。 それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!? 「あの人に興味はありません。勝手になさい!」

その眼差しは凍てつく刃*冷たい婚約者にウンザリしてます*

音爽(ネソウ)
恋愛
義妹に優しく、婚約者の令嬢には極寒対応。 塩対応より下があるなんて……。 この婚約は間違っている? *2021年7月完結

初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と叫んだら長年の婚約者だった新妻に「気持ち悪い」と言われた上に父にも予想外の事を言われた男とその浮気女の話

ラララキヲ
恋愛
 長年の婚約者を欺いて平民女と浮気していた侯爵家長男。3年後の白い結婚での離婚を浮気女に約束して、新妻の寝室へと向かう。  初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と愛する夫から宣言された無様な女を嘲笑う為だけに。  しかし寝室に居た妻は……  希望通りの白い結婚と愛人との未来輝く生活の筈が……全てを周りに知られていた上に自分の父親である侯爵家当主から言われた言葉は──  一人の女性を蹴落として掴んだ彼らの未来は……── <【ざまぁ編】【イリーナ編】【コザック第二の人生編(ザマァ有)】となりました> ◇テンプレ浮気クソ男女。 ◇軽い触れ合い表現があるのでR15に ◇ふんわり世界観。ゆるふわ設定。 ◇ご都合展開。矛盾は察して下さい… ◇なろうにも上げてます。 ※HOTランキング入り(1位)!?[恋愛::3位]ありがとうございます!恐縮です!期待に添えればよいのですがッ!!(;><)

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

処理中です...