Bright Dawn

泉野ジュール

文字の大きさ
上 下
3 / 27

Chapter Three

しおりを挟む


 どれだけ待っても雪は止まず、それどころかさらに勢いを増して、ネル達の旅をさらに厳しいものにしていた。
 それとも、ネルが気付いていないだけで、彼は雪の強い北へ進んでいるのかも知れなかった。
 見えない彼女には、すべて想像でしかあり得なかったけれど。
 先刻の会話のせいで気が沈んでいたネルは、もうそれ以上彼に話しかける気になれずに、黙って馬の揺れに身を任せていた。聞きたいことは山ほどあるのに。

 しかし、彼の方はそうではないらしかった。
 彼はよく喋った──ネルの返事が芳しくないのを感じると、返事の必要のないような話題に切り替え、たえずネルの耳元を温めるように喋り続けた。
「ここの右手には大きな杉林があってね、夏は猟もできるし、涼しくていいんだけど、冬は落雪が怖くてなかなか近づけないんだ」
 右手と言われて、ネルは右を向いた。
 もちろん見えるものはない。
「君が迷い込んだのがこんな場所じゃなくてよかったよ。実際、冬のノースウッドは危ない所だらけだ。君とこのジョージ殿は、なかなか運がいいよ」
 つまり、ここはノースウッド領なのだ。

 ネルは深く息を飲み、はやる鼓動を持て余しながら、だらんと伸びたジョージの身体を押さえることに神経を集中しようとした。
 彼の声は媚薬のようだ。
 それもとびきり効果の高い、東方の王様だけが使えるような、とっておきの媚薬。

「屋敷に着いたら、君には温かいワインを用意してあげよう」
 そう言って、彼は短い笑い声を漏らした。「料理人が妙なスープを君に出したがるかもしれないけど、決して手を出しちゃだめだよ」
 彼の声があまり楽しそうだったので、ネルはついうなづいていた。
 それからの旅の続きは、ネルにとって眠気との戦いだったから、時間の感覚を保っておくのは難しかった。多分、小一時間くらいだろうか。

「さあ、着いたよ、お姫さま」
 ついに彼は、うとうとしかけていたネルの肩を揺らし、到着を告げた。
「ノースウッド伯爵、エドモンド・バレット卿の屋敷へようこそ。お見せできないのが残念だけど」

 え?

「は、伯爵?」
 ネルの声は震えていた。寒さだけが原因ではない。
「あまり気にすることはないよ。田舎の貧乏伯爵だから、君のような都会のお嬢さんには、ひどく粗野に感じるだろうしね。まぁ、最も……」
 彼はまた例の短い笑い声を漏らしながら、続けた。
「彼は、都会のお嬢さんに好かれるのがとても上手いようだけど」
 彼?
 ネルは混乱していた。
 彼らがたどり着いたのは、ノースウッド伯爵の屋敷だという。『お見せできないのが残念』なほどの屋敷に、『都会のお嬢さんに好かれるのが上手い』、粗野な田舎の貧乏伯爵……?
 ネルは今ほど自分の盲目を呪ったことはないだろう。
「あ、あなたはノースウッド伯爵、な、なのですか?」
 今度のネルは、声だけでなく手も震えていた。それなりに身分の高い人なのだろうとは予想していけれど、これは。
 しかしネルの動揺を横に、彼は明るい声で笑った。冷たい空気を通じて、彼の息が耳に掛かるのがくすぐったい。
「うーん、それはどうかな? どう思う?」
「なっ」
「どうしてそう思ったの? 僕はただの使用人かもしれないよ」
「だ、だって……」
 彼の──伯爵かもしれない人の──おふざけにからかわれて、ネルの頬は上気し、すっかり興奮していた。こういうとき、多くの人は要りもしないことをペラペラと喋ってしまう。
 どうしたって、ネルだけが例外という訳にはいかないようだった。

「だって今、わたしのような、都会のお嬢さんに好かれるのが上手い、って……」

 言いながら、ネルは、自分が告白のようなことをしているのに気付いてしまった。
 わたしは貴方に惹かれていましたと言っているのと、なにも変わらない告白をしている。ネルは焦り、狼狽した。しかも最悪なことに、ネルは彼の反応が確認できない。
 気付かれただろうか?
 それとも彼は予想外に鈍くて、こんな遠回しな言い方には気が付かなかったりするのだろうか?
 ネルは後者であることを願ったが、もちろんそう上手くはいかず──

「それはつまり、僕は君に好かれるのに、少しは成功していたってことなのかな?」
 彼の声は本当に楽しそうだった。
 もしかしたら、嬉しそう、という表現の方が合っているのかもしれない。

 ネルは出来るだけ威厳を保てるよう背筋を伸ばして、自分をからかって遊んでいるらしい彼に抵抗しようとした。
 ああ、もし目が見えたなら、ここでひらりと一人で馬から下りて、わたしをからかんで遊ぶなんて百年早いのだと見せつけることが出来たのに。
 かわりにネルは、彼がひらりと馬から下りて、ネルの降馬を助けてくれるのを待った。
 もちろん彼は期待に違わず、一人の男ができる限りで、最も優しいと思える配慮でもってネルが馬から下りるのを手伝ってくれた。
 途中、ネルの腰を抱く手が必要以上に強い気がしたけれど、それはネルが盲目であることへの気配りからくるのだと納得することにした。
 妙な期待は命取りだ。
 ネルはそれを身を持って学んだではないか。

「もう一度お聞きします。あなたは、ノ、ノースウッド伯爵──」
 と、まで言いかけたところで、突然ネルの背後から扉が開く音がして、数人分の足音が聞こえてきた。
 ガヤガヤと賑やかで、まるでおもちゃ箱をひっくり返したような騒音が始まる。
 ネルは彼の腕の中で硬直した。

「ローナンの旦那! いったいこんな時間までどこに行ってたんだい? 熊に食われちまったんじゃないかと思って、みんな心配したんだよ!」
 年配の女性の声。
 ローナン?
 ネルは辺りを見回すように小刻みに首を回したが、さっぱり状況が分からない。
「そうですよっ。ピートの旦那に至っては、あなたの墓石になんて刻むべきかなんて言い出して、奥さまと喧嘩になるし、大変だったんですよっ」
 これはまだ少年といっていいような若い男の声だった。喋り方からして、使用人の一人のように感じた。
 そして、突然、
「ローナン!」
 駆け寄ってくる女性の足音とともに、天から降ってくるような甘い声が響いてきた。
 若くて、美しい淑女の声だと、目が見えないネルにさえはっきりと分かるような甘い声……。
 ネルの心臓はドキリと重く鳴った。

「どこへ行っていたの? ああ、やっぱりこんな雪の中に行かせるべきじゃなかったのね。大丈夫? どこも怪我はない?」

 甘い声と都会風の洗練されたアクセントが混ざった、魅力的な喋り方だ。
 どういう訳かネルは、無意識に彼にしがみついていた。
 きっと彼はネルの存在などすぐに忘れて、この女性のところに行ってしまう……そんな気がしたからかもしれない。
「大丈夫だよ、怒りん坊な伯爵夫人」
 彼は落ち着いた声で甘い声の女性に説明した。「実際、僕はこの偵察に行ってよかったと思っている。どうも宝物を見つけたみたいなんだ」
「宝物?」
「とにかく先に屋敷へ入らせてくれるかい? 歓迎を受けるのはありがたいけど、この雪の中じゃ口先まで凍ってしまいそうだ」

 ネルはおろおろとしながら彼と女性の会話を聞いていた。
 確かにネルは身体の芯まで凍りかかっていたから、とりあえず屋敷の中へ入ろうという彼の提案はありがたい。
 問題はネルとジョージがどこまで入れてもらえるかだ。

「あなたの口先が凍ってしまうなんて、ローナン、それは本当に寒かったのね。もちろんよ、早く中に入って。こちらのお客さまも、バレット邸へようこそ。騒がしくてごめんなさいね。それに執事はなんの役にも立たないけれど、さあどうぞ」

 ネルは暗闇に光りが灯るのを見た気がした。
 もしくは、断崖から落ちそうになるところに、助けの手が差し伸べられたような気分だった。
 彼の手は変わらずにネルを支えてくれていて、離れることはない。

「ジ、ジョージもお願いします」
 ネルが懇願すると、女性はまぁっと声を上げた。
「こちらの彼はどうしたの? ま、まさか……」
「いいや、気絶しているだけだと思うよ。落馬したみたいなんだ。医者はまだここにいる?」
「ええ、イザベラのための医者がまだここにいます。わたしはもう帰らせてあげてもいいと思ったんだけど、エドモンドが頑固で。それにこの天気だし、結果的にそれで良かったみたいね」
「兄の頑固さは時々、神業の域に達するよね」
 彼はそう言って、ネルの肩を抱きながら前に進んだ。

 すでに温かい空気が肌に触れていて、寒い屋外から温かい室内に入るとき独特の安心感がネルを包む。
 先ほど声を聞いた使用人らしき者たちが、ヒャアとかワァとか声を上げながらジョージを馬から下ろしてくれているのが聞こえた。すると、屋敷の中から赤ん坊の泣き声が聞こえてきて、伯爵夫人と呼ばれた女性は慌てて走り去ったようだった。

 ああ、天国がこんなに騒がしい場所だとは知りませんでした。

「ここが玄関だよ。代々伝わる話によると、屋敷のこの部分は中世に建てられたらしい。ロマンをそそるけど、あんまりお洒落ではないかな」
 彼は説明した──いや、今はもう、彼の名前は「ローナン」らしいと分かったのだけれど。
「兄、と言いましたか?」
 ネルが聞くと、彼は珍しく沈黙を貫いた。
 彼の表情が見られないのが悔しい。微笑んでいるのか、呆れているのか、癇癪を起こしそうになっているのかの区別さえ、ネルにはつかないのだ。

 しばらく黙ったのち、彼は、
「そうだね」
 と、静かな口調で呟いた。

「つまり、あなたはノースウッド伯爵の……」
 ネルがそう確認しかけたとき、急に床をカカッと杖で激しく打つような音が響いた。
 ビクリと身体を固くして、ネルはその音がした方に顔を向けた。
 その仕草がさぞかし頼りなげに見えたのだろうか、彼はネルの肩を抱く手をさらに強める。すると突然、しわがれた低い声がネルの鼻先に浴びせられるように響いた。

「誰だこの小娘は。わしの嫁には、もっと胸のデカい女を寄越せと言わなかったか」
 は?
 ネルは衝撃にあんぐりと口を開いた。
「そうやって口を開くのはやめんか! 阿呆がさらに阿呆に見えるわ!」
 声はさらに一喝した。
「も、申し訳ありませ……」
「うむ。お前、他の見栄えは悪くない。うちの男共はクソほどにも役に立たんが、その辺は見極められるらしい。ローナン、よくやった。さっさと曾孫を増やすがいい」

 しわがれた声の主は、それだけ言うとガハハと雄叫びのような声を上げて、杖を鳴らしながらもと来た方へ戻っていった。

 多分。

 説明を求めるように彼を見上げると、今度は喉から漏れるような彼の笑い声が聞こえてきた。もし、彼の頬に触れることを許されるなら、きっと笑顔を感じることができる気がする。
 実際、ネルの手はそうしたくて、無意識に宙をさまよっていた。

「今のはうちの執事のピートだ。どうやら君はだいぶ彼に気に入られたみたいだね」

 一体、どこから突っ込むべきなのか分からない答えが返ってきて、ネルは行き場のなかった手を握った。
 聞きたいことは沢山あったが、それでも今のネルが知らなければならないことは一つ。ネルは高まる鼓動を押さえながら、短く息を吸った。
「そしてあなたは……ノースウッド伯爵の弟、ということなのですか?」
 今度の彼は、沈黙することはなかった。
 彼がこくりと頷くのが、見えないネルにも感じられる。

「弟でもあり、従兄でもある。僕はローナン・バレット、今後ともお見知り置きを」

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

【完結】聖女の手を取り婚約者が消えて二年。私は別の人の妻になっていた。

文月ゆうり
恋愛
レティシアナは姫だ。 父王に一番愛される姫。 ゆえに妬まれることが多く、それを憂いた父王により早くに婚約を結ぶことになった。 優しく、頼れる婚約者はレティシアナの英雄だ。 しかし、彼は居なくなった。 聖女と呼ばれる少女と一緒に、行方を眩ませたのだ。 そして、二年後。 レティシアナは、大国の王の妻となっていた。 ※主人公は、戦えるような存在ではありません。戦えて、強い主人公が好きな方には合わない可能性があります。 小説家になろうにも投稿しています。 エールありがとうございます!

殿下、側妃とお幸せに! 正妃をやめたら溺愛されました

まるねこ
恋愛
旧題:お飾り妃になってしまいました 第15回アルファポリス恋愛大賞で奨励賞を頂きました⭐︎読者の皆様お読み頂きありがとうございます! 結婚式1月前に突然告白される。相手は男爵令嬢ですか、婚約破棄ですね。分かりました。えっ?違うの?嫌です。お飾り妃なんてなりたくありません。

最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません

abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。 後宮はいつでも女の戦いが絶えない。 安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。 「どうして、この人を愛していたのかしら?」 ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。 それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!? 「あの人に興味はありません。勝手になさい!」

その眼差しは凍てつく刃*冷たい婚約者にウンザリしてます*

音爽(ネソウ)
恋愛
義妹に優しく、婚約者の令嬢には極寒対応。 塩対応より下があるなんて……。 この婚約は間違っている? *2021年7月完結

初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と叫んだら長年の婚約者だった新妻に「気持ち悪い」と言われた上に父にも予想外の事を言われた男とその浮気女の話

ラララキヲ
恋愛
 長年の婚約者を欺いて平民女と浮気していた侯爵家長男。3年後の白い結婚での離婚を浮気女に約束して、新妻の寝室へと向かう。  初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と愛する夫から宣言された無様な女を嘲笑う為だけに。  しかし寝室に居た妻は……  希望通りの白い結婚と愛人との未来輝く生活の筈が……全てを周りに知られていた上に自分の父親である侯爵家当主から言われた言葉は──  一人の女性を蹴落として掴んだ彼らの未来は……── <【ざまぁ編】【イリーナ編】【コザック第二の人生編(ザマァ有)】となりました> ◇テンプレ浮気クソ男女。 ◇軽い触れ合い表現があるのでR15に ◇ふんわり世界観。ゆるふわ設定。 ◇ご都合展開。矛盾は察して下さい… ◇なろうにも上げてます。 ※HOTランキング入り(1位)!?[恋愛::3位]ありがとうございます!恐縮です!期待に添えればよいのですがッ!!(;><)

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

処理中です...