Bright Dawn

泉野ジュール

文字の大きさ
上 下
2 / 27

Chapter Two

しおりを挟む

 雪のノースウッド領をうろつき回っていたらどんなことになるのか、常識のある地元の者ならみな、よく分かっている。
 道は滑りやすく風は横なぶりで、よほど熟練の御者でなければ、旅を続けることはできない。
 しかし、事故は毎年あるのだ……都会から来る無知な旅人が、なにも知らずに優雅に馬車を駆り続け、転倒して大怪我をするという『事故』 が。

 正直にローナン・バレットの意見をいわせてもらえれば、それは事故ではなく、当然の結末でしかない。
 しかし、この土地の領主の息子として生まれ、現在のノースウッド伯爵の実弟であるローナンには、この愚かな旅人たちを放ってはおけない理由があった。

 今までずっと、雌鳥がヒナを守るように甲斐甲斐しく領地を守ってきた兄・ノースウッド伯爵がここ数日、責務を軽く放棄しだしたのだ。理由は6ヶ月になる一人娘の風邪だった。

 そんな兄に代わって、誰かが雪の領地を見て回る必要があった。雪の下で群れからはぐれた家畜はいないかどうか。薪や食料の足りない家はないかどうか。
 行き倒れた馬車はないかどうか。

 そんなわけで、雪が激しくなりだした領地の観察に来ていた折だ。
 ローナン・バレットは街から屋敷への帰り道、溝に車輪がはまって傾いている馬車を発見した。嫌な予感に顔をしかめ、急いで近寄ってみたが、覗いてみると御者台も馬車の中も空っぽだった。
 ただし、雪の上を誰かが通ったあとが残っている。
 その跡筋は、街へ戻る方向でもなければ、屋敷へ続く道でもなくて、まったく別方向の雪に埋もれはじめた荒野へ向かって続いていた。
 馬車はこの辺りでは見かけたことのないものだ。
 しかし、いくら旅人とはいえ、まだ道筋が完全に埋もれきっていないうちに、これほど間違った方向へ行ってしまうものだろうか?
 そのときローナンは、それを不快に思うよりも、興味のほうが強く湧いてきた。
 どういうことなんだろう?

 そして、これだ。
 残された筋道をゆっくり辿っていったローナンが見つけたものは、重く降りつける雪の先に佇む、小さな光りだった。
 光り。
 そう見えたのは、彼女の見事な金髪のせいだ。
 一人の小柄な女性が、なにか重そうな黒い塊を抱えて、震えながら歩いていた。彼女の帽子は肩から落ちかけていて、柔らかい曲線を描いた鮮やかな金髪がベージュ色のコートに広がっていた。
 ローナンは雪の下で息を呑んだ。

 このときの感情を説明するのは難しい。ただ、見つけた、と思った。
 やっと見つけた……と。





 まだ、雪は降り続けているはずだった。
 ネルと彼女を助けてくれた男性が、気絶したままのジョージを前に乗せて馬を駆り続けて、どのくらいの時間がたったのだろう。疲れのせいで、ネルはもう時間の感覚を失っていた。

 それでも、ネルの中にあった絶望感は少しずつ消えていっていた。
 ネルの背中は、ぴたりと男性の胸に寄り添っているままだ。これほど異性に近づくのははしたない気がして、一度、少し身体を離そうとしたのだが、彼は器用に腕でネルの動きをさえぎった。

「動かないで。今はまだ、動いちゃだめだよ」
 と、彼はネルの耳元にささやいた。
 彼の息からあがる蒸気が、ネルの耳たぶを微かにくすぐり、温める。そして密かに、彼が離れないでいてくれたことに安堵した。本心は離れたくなんかなかったから。
 こんなふうに普通の年頃の娘のように男性から優しくされるのは、本当に久しぶりだった。

 4年前の事故で視力を失って以来、ネルを一人の女性として扱ってくれる人はいなくなっていた。ネルはただの厄介な「物」になったのだ。同情してくれる人はまだいい方で、あからさまに社交界の邪魔者扱いする者さえいた。貴重な舞踏会のスペースを、盲目の娘にうろうろされたくないのだろう。ネル自身、もうああいった場を楽しめなくなっていた。

 一人、また一人と、ネルに好意を示していた男性たちも離れていって、気がつけばネルはもう社交界から切り離された存在になっていた。
 それでも、両親の温かい助けを得て、ネルはできるだけ暗闇に支配された世界に希望を見いだすよう努力していたのだ。
 一歩一歩、数をかぞえて家や庭を一人で歩けるように訓練した。
 見えなくても、音が教えてくれるものが無限にあるのだと、耳を澄まし続けた。負けたくなかった。
 しかしそれも、突然の両親の死とともに、暗転してしまったけれど……。

「君はどうしてあんな所にいたの?」
 突然、耳元に彼の声がこだまして、ネルの思考が止まった。なんて男性的で、よく響く声なんだろう。盲目でなくても声だけでドキリとしてしまうような、深くて温かい声だ。ネルは少しだけ首を後ろにかしげ、凍てつく喉からなんとか声を出した。

「い、従兄の屋敷へ、行く途中だったんです」
「従兄?」
「ロチェスター・マクファーレン卿、クレイモア伯爵です」

 言いながら、ネルは己が従兄のだらしない姿を思い出さざるをえなかった。彼の青白い肌は酒の飲み過ぎで常に赤みがかっていて、沖に上がった魚のようにブヨブヨしている。細長い顔に青い瞳が異様なほど目立っていて、つまらないことですぐ癇癪を起こしては、生まれたときから少ない金髪を逆立てるようにして怒鳴り散らすのだが、その姿はまるでバンシーだった。

 彼が、ロチェスターのことを知っているかどうかは分からない。ロチェスターは尊大だが、小心者でもあるので、あまり人の集まる場所には出てきたがらないのだ。
 できれば、知らないでいて欲しかった。
 しかし、彼は明瞭な声で答えた。

「ここからクレイモアは晴れた日でも二日はかかるよ。伯爵は君が来ることを知っているのかい?」
 ネルは返事につまった。
 知っているもなにも、この旅はロチェスターの強引な命令のせいで始まったのだ。答えないでいるネルに代わり、彼は思慮深い声で続けた。
「クレイモア伯爵のことは聞いたことがある。彼は君に、迎えを寄越さなかったのかい?」
「い、いいえ……」
 いくら相手がロチェスターとはいえ、身内を悪く思われるのは気が進まなかった。ネルは不器用に答える。
「ジョージが、いますから」
「ああ、この、失神している従者のことだね。あの溝にはまっただけで動かなくなった馬車に乗って」
「……」

 男性の声は、淡々としてはいたが、どこかユーモアのセンスを感じる明るさと知性があった。話し方も、ただの町人のものとは思えない。
 しかもロチェスターを知っているという。
 彼は誰なんだろう?

 ネルは好奇心をかき立てられて、頭の中でいろいろと想像してみた。
 頭のいい人だというのは、言葉のやりとりだけで感じられる。しかし学者にしては、ネルを抱いている両腕は逞しすぎる気がした。かといって、力仕事をしている者にしては、品がありすぎる。
 貴族……なのだろうか。
 だとしたらどこの誰だろう?
 たいていの貴族は領地の管理など土地管理人にまかせて、中央の都会で舞踏会と醜聞に明け暮れていることが多い。特に、冬は。
 しかし、相手が名乗ってもいないのに、いきなり身分を聞くのは気が進まなかった。

「あ、あの……わたし達は、これからどこへ行くのですか」
 ネルは答えを求めて、間接的にそう聞いてみた。
 なぜか、彼はなにか軽く唸るような声を出して少し黙ったあと、注意深くゆっくりと答えた。
「僕の住んでいる場所……かな。君がその冷えきった身体を暖炉の前で温めて、温かい食事をとれるところ」
 そして、思い出したように付け足す。「ついでに、この従者殿を医者に見せなくては」
「ええ、ありがとうございます」
「身の危険を心配しているなら、大丈夫だよ。賑やかな家でね、皆、半年になる赤ん坊に振り回されて四六時中大騒ぎをしてるんだ」

 赤ん坊……。
 ネルの心臓がドキリと跳ね、どういうわけか、傷ついたような気分になった。
 この人は結婚しているんだ。
 子供がいて、家庭がある。

 わたしには、どうしたって、もてないもの。

 急に会話を続ける気になれなくなって、ネルがしばらく黙り込むと、彼は突然ネルを抱いている手をきつく締めつけた。
「なにか気に障ることを言ってしまったかな」
 耳元でささやかれる声。
 声だけで人を好きになることができるとしたら、まさに、この声こそがそれだった。愚かな感情に流されないよう、ネルは耳を塞ぎたくなった。しかし、今の状況ではそうもいかない。ジョージを落馬させてしまうわけにはいかないのだ。
 きっと、寒さと疲労とで混乱しているだけ……。
 初対面の、顔も分からない相手に、心を動かされてしまうなんて。
「いいえ、なにも」
 ネルは答えた。

 そうよ、なにもない。わたしの世界にはなにもないの。
 あなたの優しい声が紡がれる唇も、わたしを包んでくれている力強い腕も、わたしは見ることができないんだもの。
 わたしは子供を育てることができなくて、一人では旅をすることもままならない。

 わたしは誰かを愛するべきじゃないんだもの……。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

旦那様は大変忙しいお方なのです

あねもね
恋愛
レオナルド・サルヴェール侯爵と政略結婚することになった私、リゼット・クレージュ。 しかし、その当人が結婚式に現れません。 侍従長が言うことには「旦那様は大変忙しいお方なのです」 呆気にとられたものの、こらえつつ、いざ侯爵家で生活することになっても、お目にかかれない。 相変わらず侍従長のお言葉は「旦那様は大変忙しいお方なのです」のみ。 我慢の限界が――来ました。 そちらがその気ならこちらにも考えがあります。 さあ。腕が鳴りますよ! ※視点がころころ変わります。 ※※2021年10月1日、HOTランキング1位となりました。お読みいただいている皆様方、誠にありがとうございます。

Lord of My Heart 〜呪われ伯爵は可愛い幼妻を素直に愛せない〜

泉野ジュール
恋愛
オリヴィア・リッチモンドは都会育ちのお嬢さま。 ふたりの出来すぎた兄と、絶世の美女の姉のすみっこで何不自由なく生きてきた十九歳。しかし二十歳を目前にして、いまだ夢見がちなオリヴィアに辟易した父は、彼女に究極の現実を突きつけた──ノースウッド伯爵エドモンド・バレット卿との結婚だ。 初対面から冷たい夫、ど田舎の領地、何だか妙に偉そうな老執事……かくして始まったオリヴィアの新婚生活は、信じられない混乱続き! 世間知らずで純朴なオリヴィアと、厳しい現実主義者エドモンドの結婚から始まる恋の行方。そして、バレット家に伝わる「呪い」とは? 【中近世英国風ヒストリカルロマンス。カクヨム・なろうにも掲載中】

彼と私と甘い月

藤谷藍
恋愛
白河花蓮は26歳のOL。いつも通りの出勤のはずが駅で偶然、橘俊幸、31歳、弁護士に助けられたことからお互い一目惚れ。優しいけれど強引な彼の誘いに花蓮は彼の家でバイトを始めることになる。バイトの上司は花蓮の超好みの独身男性、勤務先は彼の家、こんな好条件な副業は滅多にない。気になる彼と一緒に一つ屋根の下で過ごす、彼と花蓮の甘い日々が始まる。偶然が必然になり急速に近づく二人の距離はもう誰にも止められない? 二人の糖度200%いちゃつきぶりを、こんな偶然あるわけないと突っ込みながら(小説ならではの非日常の世界を)お楽しみ下さい。この作品はムーンライトノベルズにも掲載された作品です。 番外編「彼と私と甘い月 番外編 ーその後の二人の甘い日々ー」も別掲載しました。あわせてお楽しみください。

拝啓、大切なあなたへ

茂栖 もす
恋愛
それはある日のこと、絶望の底にいたトゥラウム宛てに一通の手紙が届いた。 差出人はエリア。突然、別れを告げた恋人だった。 そこには、衝撃的な事実が書かれていて─── 手紙を受け取った瞬間から、トゥラウムとエリアの終わってしまったはずの恋が再び動き始めた。 これは、一通の手紙から始まる物語。【再会】をテーマにした短編で、5話で完結です。 ※以前、別PNで、小説家になろう様に投稿したものですが、今回、アルファポリス様用に加筆修正して投稿しています。

選ばれたのは私ではなかった。ただそれだけ

暖夢 由
恋愛
【5月20日 90話完結】 5歳の時、母が亡くなった。 原因も治療法も不明の病と言われ、発症1年という早さで亡くなった。 そしてまだ5歳の私には母が必要ということで通例に習わず、1年の喪に服すことなく新しい母が連れて来られた。彼女の隣には不思議なことに父によく似た女の子が立っていた。私とあまり変わらないくらいの歳の彼女は私の2つ年上だという。 これからは姉と呼ぶようにと言われた。 そして、私が14歳の時、突然謎の病を発症した。 母と同じ原因も治療法も不明の病。母と同じ症状が出始めた時に、この病は遺伝だったのかもしれないと言われた。それは私が社交界デビューするはずの年だった。 私は社交界デビューすることは叶わず、そのまま治療することになった。 たまに調子がいい日もあるが、社交界に出席する予定の日には決まって体調を崩した。医者は緊張して体調を崩してしまうのだろうといった。 でも最近はグレン様が会いに来ると約束してくれた日にも必ず体調を崩すようになってしまった。それでも以前はグレン様が心配して、私の部屋で1時間ほど話をしてくれていたのに、最近はグレン様を姉が玄関で出迎え、2人で私の部屋に来て、挨拶だけして、2人でお茶をするからと消えていくようになった。 でもそれも私の体調のせい。私が体調さえ崩さなければ…… 今では月の半分はベットで過ごさなければいけないほどになってしまった。 でもある日婚約者の裏切りに気づいてしまう。 私は耐えられなかった。 もうすべてに……… 病が治る見込みだってないのに。 なんて滑稽なのだろう。 もういや…… 誰からも愛されないのも 誰からも必要とされないのも 治らない病の為にずっとベッドで寝ていなければいけないのも。 気付けば私は家の外に出ていた。 元々病で外に出る事がない私には専属侍女などついていない。 特に今日は症状が重たく、朝からずっと吐いていた為、父も義母も私が部屋を出るなど夢にも思っていないのだろう。 私は死ぬ場所を探していたのかもしれない。家よりも少しでも幸せを感じて死にたいと。 これから出会う人がこれまでの生活を変えてくれるとも知らずに。 --------------------------------------------- ※架空のお話です。 ※設定が甘い部分があるかと思います。「仕方ないなぁ」とお赦しくださいませ。 ※現実世界とは異なりますのでご理解ください。

果たされなかった約束

家紋武範
恋愛
 子爵家の次男と伯爵の妾の娘の恋。貴族の血筋と言えども不遇な二人は将来を誓い合う。  しかし、ヒロインの妹は伯爵の正妻の子であり、伯爵のご令嗣さま。その妹は優しき主人公に密かに心奪われており、結婚したいと思っていた。  このままでは結婚させられてしまうと主人公はヒロインに他領に逃げようと言うのだが、ヒロインは妹を裏切れないから妹と結婚して欲しいと身を引く。  怒った主人公は、この姉妹に復讐を誓うのであった。 ※サディスティックな内容が含まれます。苦手なかたはご注意ください。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

処理中です...