氷と花

泉野ジュール

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過去と未来 "A day later, he decided to ask you to marry"

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 広い客間の窓辺に置かれたひじ置きつきの椅子に腰掛け、ぼんやりと灰色の空を眺めていたマージュは、誰かが近づいてくる靴音で我に返ってあたりを見回した。
 食堂とつながる入り口から、紅茶を乗せた銀のお盆を持ったディクソンが現れる。
 マージュはほっとしてため息を吐いた。
「いつもありがとう、ディクソン。そんなに気を使わなくても、紅茶くらい自分で用意できるからいいのに」
「仰せのままに、ウェンストン夫人。ただ今朝くらいは、あなたもゆっくりした方がいいでしょう」

 ディクソンが『ウェンストン夫人』というくだりを不自然なくらいゆっくりと発音したので、今朝のネイサンの宣言を面白がっているのだと、すぐに分かった。
 慣れた手つきでマージュの横に紅茶のカップを置くディクソンは、執事らしからぬイタズラに満ちた微笑みを浮かべている。
ディクソンといい、ネイサン本人といい……今朝は戸惑うほど皆の機嫌が良くて、マージュは恥ずかしさにまごついてしまうくらいだった。
 お盆を脇に抱えて姿勢を正したディクソンに、マージュははにかみながら微笑んだ。
「あなたの言った通りになったわね、ディクソン」
「なにがですか、ウェンストン夫人?」
「からかわないで、ディクソン。いつだったか、ネイサンはきっとわたしを大切にしてくれるって、あなたが言ったのよ。あの時は信じられなかったけれど、結局すべてあなたの言葉通りになったわ」
 ディクソンは皺の刻まれた顔を崩して、優しく言った。
「わたしは長年、ネイサン様を見てきましたから」

 紅茶に手を伸ばし、白い湯気と芳しい香りを吸い込んだマージュは、老執事をじっと見つめた。この男はなかなか老獪なところがあるようだ……。自分から主人の秘密を持ち出すような間違いはしない。
 マージュの方から質問するのを待っているのだ。
 ふっと微笑んだマージュは、老執事の願いを叶え、自分の好奇心を満たす決心をした。

「ここに座って。あなたの知っていることを教えて」
 マージュは顎をしゃくって隣の椅子を示した。
「わたしはまだ首になりたくはありませんよ。この年で新しい職場を見つけるのはなかなか難しいんです」
「大丈夫、ネイサンには言わないから。それに、わたしがウェンストン夫人なら、あなたはわたしの言うことをきちんと聞かないといけないはずでしょう?」
「おお、まったくその通りですな」
 ふたりは声を抑えながら笑い、ディクソンはマージュの隣に腰を下ろした。
 加齢によりかすかに濁ったディクソンの青い瞳が、窓の外を向き、遠くに望む巨大な煙突とそこから吐き出される煙を見つめている。外はだいぶ冷え込んでいるようで、ガラスには薄く霜が降りている。
「わたしの思うところ……ネイサン様はずいぶんと昔から、あなたに惹かれていたのですよ。今考えると、そのしるしを沢山思い出すことができます」
 マージュは紅茶のカップをいじる手を止めた。
 窓から視線を戻したディクソンが、マージュを正面からじっと見据えた。どきりとするほど真剣な目だった。

「若旦那様はいつもダルトンのご実家から帰られた後、数日から数週間、無口になって、どこかふさぎ込んでいるような表情をすることが多かったのです。しばらくは、ご実家で夫人や弟君と口論でもされたのかと思っていましたが、聞くとそうではないと言う……」
 ディクソンは膝の上で両手を組み、指を動かしながら次の言葉を探しているようだった。
「わたしは遠回しに、ダルトンでなにがあったのかと訊ねてみたものです。するとネイサン様はまず、あなたのことを語りましたね。いわく、マージョリー・バイルはイチヂクが好きで朝から晩までそればかり食べていたとか、そんな細やかなことですが」

 マージュは言葉を失い、短く息を吸った。
 そんなことが……。
 ダルトンに訪ねてくる時のネイサンは、いつも難しい顔をして、マージュには極力近寄らないようにしていた。顔を合わせるのは食事の時くらいで、それも決まってマージュからは一番遠い席を選んでいたから、会話らしい会話をする機会さえほとんどなく。
「それで……イチヂクのジャムを?」
 なかば呆然としながらマージュがつぶやくと、ディクソンは微笑みながら深くうなずいた。
「ええ。他にも色々と細々としたことを……部屋の壁紙はお気に召されましたか?」
 マージュは同意に首を縦に振った。
「ええ、もちろん」
「桃色の薔薇。確か数年前、そんな模様の入った生地を夫人に手土産として持っていかれたら、あなたがいたく気に入って夢中で魅入っていたとか」
 そんな……マージュ自身でさえ忘れかけていた些細な記憶だ。
 もしかしたら、マージュの部屋の壁紙はネイサン自ら選んでくれたものなのだろうか? それともネイサンの話を覚えていたディクソンが手配したもの……?
 マージュの無言の疑問を感じ取ったのか、老執事は穏やかに言い加えた。
「実際に壁紙屋で見本を選んだのはわたしですが、指示を出されたのはネイサン様です。マージョリーは桃色の小薔薇が散った柄を気に入っていたから、そんな感じのものを選んでくれ、とね。わたしの方は、指示されるまですっかり忘れていましたよ」
「まあ……」
 それ以上、なんと言っていいのか分からなかった。
 せっかくの紅茶も味わえる気がしなて、カップをそっと横へどける。
 昨日、ネイサンは確かに、ずっとマージュを愛していたと告白してくれた。ただそれは睦言のひとつで、ふたりとも冷静ではなかったから、きっと『マージュがウェンストン・ホールにやってきてから、ずっと』という意味だと思い込んでいたのだ。
 しかし……?

「先代のポール様と夫人が馬車の事故で亡くなった後は……」
 いつのまにか老執事が先を続けていて、マージュははっとした。
「ネイサン様はあなたのことをとても心配しておりました。先代達にとってはもちろん、わたくしたちにとってもあなたは家族同然でしたが、対外的には夫人の話し相手コンパニオンということになっていましたからね。ポール様の遺言でダルトンの屋敷をのぞくほとんどすべてをネイサン様に遺したことが分かってからは特に、フレドリック坊ちゃんがあなたを養っていけるよう、仕送りをかなり増やしておりました」
「ディクソン……」
「おっと、これはさすがにすこししゃべりすぎましたね。失礼」
 ディクソンは膝に手を当て、ゆっくりと立ち上がった。座った後は腰が痛むのか、伸びをするように背を反らしてから、ひと息つくと銀のお盆を抱えあげる。
 そして、しばらくなにかを考えているかのように、じっとマージュを見つめた。
 マージュもディクソンの青い瞳を見つめ返した。

「フレドリック坊ちゃんがあなたを裏切ったことを知った時のネイサン様は……恐ろしかったですよ。あの日は一日中、本当に狂うように怒っていらっしゃいました。そして次の日には、あなたに結婚を申し込むと決められておりました」

 ディクソンはそれだけ言うと、「では」と頭を下げて客間から出ていった。

 ひとり残されたマージュは、しばらく呆然と宙を眺めていた。
 ネイサン……。
 すでに工場へ行ってしまった彼の輪郭を思い浮かべながら、マージュは唇に片手を触れた。そして彼の口づけを思い出した。彼の低い声を。近づくとわずかにコーヒーの香りのする、彼の吐息を。
 ああ……はじまりは甘いだけのおとぎ話ではなかったかもしれない。
 でも、ふたりの未来はきっと愛情に溢れている。

 ──今夜は、たくさん話を聞かせてもらわなくては。
「ふふ」
 温かい想いが込み上がってくるのを止められなくて、マージュはわずかに声を漏らしながら微笑んだ。
 ネイサン・ウェンストン。
 氷の仮面の下に、熱い情熱を隠したマージュの恋人……。


 *


 ウェンストン・ホールの玄関の前に、麻袋を積んだ郵便馬車が到着したのはそれから一時間後だった。
 たまたま出掛けていたディクソンに代わりマージュが受け取りに出ると、渡されたのはたった一通の手紙だけで、それもマージュ宛てだった。
(誰からかしら?)
 もしかしたら、ダルトンで親しくしていた友人からかもしれない。
 フレドリックに捨てられた後のマージュは、しばらくダルトンの社交界でつまはじき者にされていたから、親しい友人でもおいそれと会いに来られる雰囲気ではなかったのだ。しかし時も経って、ネイサンとの結婚が確実になったマージュに、手紙のひとつでも送ろうと決心してくれた友がいたのかもしれない。
 マージュは嬉しくなって、玄関の扉を閉じると、差出人の名前も確認せずに蝋封を破って手紙を開いた。

『愛しいマージュ』
 と、手紙ははじまっていた。
 ──え?

『僕がどれほど後悔しているか、君に分かってもらうのは難しいと思う。それでも僕は君に言わなければならない……僕は今でも君を愛していると。
 僕が他の女性と結婚するつもりだと伝えた時の、君の傷ついた瞳をいつも忘れられない。

 この結婚はひどい間違いだった。
 僕は煩悩に惑わされ、若さにつけいられて、君を裏切ってしまった。彼女はただ金のために僕の色欲を利用し、あだごころをくすぐった挙句に、兄の仕送りが減ったと見るや別れたいと言い出したんだ。そしていくつか金目のものを盗んで、ロンドンに逃げ帰ってしまった。僕達は結局フランスにも旅立っていない!

 僕が万死に値する裏切りをしてしまったことはよく分かっている。
 君が僕を恨んだとしても、それは当然のことだ。
 でも……僕らの愛はそんなに簡単に死んだりはしないと信じている。ああ、マージュ、もし少しでも僕のことを愛してくれているなら、考え直して欲しい。
 兄はあの通り冷たい人間だから、君はきっと寂しい思いをしているだろうね。
 ウィングレーンも君には合わない街だ。
 僕は君に会いに行くよ。この手紙と僕のどちらが早く君のもとに着くかは分からない。何百回でも、何千回でも君に謝ろう。どうか僕を許して欲しい。
 そして僕らの愛を忘れないでいて欲しい。

 君の、
 君だけのフレドリック』

 手紙ははらりとマージュの手からすり抜け、よく磨かられた冷たい床に落ちた。

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