17 / 20
過去と未来 "A day later, he decided to ask you to marry"
しおりを挟む広い客間の窓辺に置かれた肘置きつきの椅子に腰掛け、ぼんやりと灰色の空を眺めていたマージュは、誰かが近づいてくる靴音で我に返ってあたりを見回した。
食堂とつながる入り口から、紅茶を乗せた銀のお盆を持ったディクソンが現れる。
マージュはほっとしてため息を吐いた。
「いつもありがとう、ディクソン。そんなに気を使わなくても、紅茶くらい自分で用意できるからいいのに」
「仰せのままに、ウェンストン夫人。ただ今朝くらいは、あなたもゆっくりした方がいいでしょう」
ディクソンが『ウェンストン夫人』というくだりを不自然なくらいゆっくりと発音したので、今朝のネイサンの宣言を面白がっているのだと、すぐに分かった。
慣れた手つきでマージュの横に紅茶のカップを置くディクソンは、執事らしからぬイタズラに満ちた微笑みを浮かべている。
ディクソンといい、ネイサン本人といい……今朝は戸惑うほど皆の機嫌が良くて、マージュは恥ずかしさにまごついてしまうくらいだった。
お盆を脇に抱えて姿勢を正したディクソンに、マージュははにかみながら微笑んだ。
「あなたの言った通りになったわね、ディクソン」
「なにがですか、ウェンストン夫人?」
「からかわないで、ディクソン。いつだったか、ネイサンはきっとわたしを大切にしてくれるって、あなたが言ったのよ。あの時は信じられなかったけれど、結局すべてあなたの言葉通りになったわ」
ディクソンは皺の刻まれた顔を崩して、優しく言った。
「わたしは長年、ネイサン様を見てきましたから」
紅茶に手を伸ばし、白い湯気と芳しい香りを吸い込んだマージュは、老執事をじっと見つめた。この男はなかなか老獪なところがあるようだ……。自分から主人の秘密を持ち出すような間違いはしない。
マージュの方から質問するのを待っているのだ。
ふっと微笑んだマージュは、老執事の願いを叶え、自分の好奇心を満たす決心をした。
「ここに座って。あなたの知っていることを教えて」
マージュは顎をしゃくって隣の椅子を示した。
「わたしはまだ首になりたくはありませんよ。この年で新しい職場を見つけるのはなかなか難しいんです」
「大丈夫、ネイサンには言わないから。それに、わたしがウェンストン夫人なら、あなたはわたしの言うことをきちんと聞かないといけないはずでしょう?」
「おお、まったくその通りですな」
ふたりは声を抑えながら笑い、ディクソンはマージュの隣に腰を下ろした。
加齢によりかすかに濁ったディクソンの青い瞳が、窓の外を向き、遠くに望む巨大な煙突とそこから吐き出される煙を見つめている。外はだいぶ冷え込んでいるようで、ガラスには薄く霜が降りている。
「わたしの思うところ……ネイサン様はずいぶんと昔から、あなたに惹かれていたのですよ。今考えると、そのしるしを沢山思い出すことができます」
マージュは紅茶のカップをいじる手を止めた。
窓から視線を戻したディクソンが、マージュを正面からじっと見据えた。どきりとするほど真剣な目だった。
「若旦那様はいつもダルトンのご実家から帰られた後、数日から数週間、無口になって、どこかふさぎ込んでいるような表情をすることが多かったのです。しばらくは、ご実家で夫人や弟君と口論でもされたのかと思っていましたが、聞くとそうではないと言う……」
ディクソンは膝の上で両手を組み、指を動かしながら次の言葉を探しているようだった。
「わたしは遠回しに、ダルトンでなにがあったのかと訊ねてみたものです。するとネイサン様はまず、あなたのことを語りましたね。いわく、マージョリー・バイルはイチヂクが好きで朝から晩までそればかり食べていたとか、そんな細やかなことですが」
マージュは言葉を失い、短く息を吸った。
そんなことが……。
ダルトンに訪ねてくる時のネイサンは、いつも難しい顔をして、マージュには極力近寄らないようにしていた。顔を合わせるのは食事の時くらいで、それも決まってマージュからは一番遠い席を選んでいたから、会話らしい会話をする機会さえほとんどなく。
「それで……イチヂクのジャムを?」
なかば呆然としながらマージュがつぶやくと、ディクソンは微笑みながら深くうなずいた。
「ええ。他にも色々と細々としたことを……部屋の壁紙はお気に召されましたか?」
マージュは同意に首を縦に振った。
「ええ、もちろん」
「桃色の薔薇。確か数年前、そんな模様の入った生地を夫人に手土産として持っていかれたら、あなたがいたく気に入って夢中で魅入っていたとか」
そんな……マージュ自身でさえ忘れかけていた些細な記憶だ。
もしかしたら、マージュの部屋の壁紙はネイサン自ら選んでくれたものなのだろうか? それともネイサンの話を覚えていたディクソンが手配したもの……?
マージュの無言の疑問を感じ取ったのか、老執事は穏やかに言い加えた。
「実際に壁紙屋で見本を選んだのはわたしですが、指示を出されたのはネイサン様です。マージョリーは桃色の小薔薇が散った柄を気に入っていたから、そんな感じのものを選んでくれ、とね。わたしの方は、指示されるまですっかり忘れていましたよ」
「まあ……」
それ以上、なんと言っていいのか分からなかった。
せっかくの紅茶も味わえる気がしなて、カップをそっと横へどける。
昨日、ネイサンは確かに、ずっとマージュを愛していたと告白してくれた。ただそれは睦言のひとつで、ふたりとも冷静ではなかったから、きっと『マージュがウェンストン・ホールにやってきてから、ずっと』という意味だと思い込んでいたのだ。
しかし……?
「先代のポール様と夫人が馬車の事故で亡くなった後は……」
いつのまにか老執事が先を続けていて、マージュははっとした。
「ネイサン様はあなたのことをとても心配しておりました。先代達にとってはもちろん、わたくしたちにとってもあなたは家族同然でしたが、対外的には夫人の話し相手ということになっていましたからね。ポール様の遺言でダルトンの屋敷をのぞくほとんどすべてをネイサン様に遺したことが分かってからは特に、フレドリック坊ちゃんがあなたを養っていけるよう、仕送りをかなり増やしておりました」
「ディクソン……」
「おっと、これはさすがにすこししゃべりすぎましたね。失礼」
ディクソンは膝に手を当て、ゆっくりと立ち上がった。座った後は腰が痛むのか、伸びをするように背を反らしてから、ひと息つくと銀のお盆を抱えあげる。
そして、しばらくなにかを考えているかのように、じっとマージュを見つめた。
マージュもディクソンの青い瞳を見つめ返した。
「フレドリック坊ちゃんがあなたを裏切ったことを知った時のネイサン様は……恐ろしかったですよ。あの日は一日中、本当に狂うように怒っていらっしゃいました。そして次の日には、あなたに結婚を申し込むと決められておりました」
ディクソンはそれだけ言うと、「では」と頭を下げて客間から出ていった。
ひとり残されたマージュは、しばらく呆然と宙を眺めていた。
ネイサン……。
すでに工場へ行ってしまった彼の輪郭を思い浮かべながら、マージュは唇に片手を触れた。そして彼の口づけを思い出した。彼の低い声を。近づくとわずかにコーヒーの香りのする、彼の吐息を。
ああ……はじまりは甘いだけのおとぎ話ではなかったかもしれない。
でも、ふたりの未来はきっと愛情に溢れている。
──今夜は、たくさん話を聞かせてもらわなくては。
「ふふ」
温かい想いが込み上がってくるのを止められなくて、マージュはわずかに声を漏らしながら微笑んだ。
ネイサン・ウェンストン。
氷の仮面の下に、熱い情熱を隠したマージュの恋人……。
*
ウェンストン・ホールの玄関の前に、麻袋を積んだ郵便馬車が到着したのはそれから一時間後だった。
たまたま出掛けていたディクソンに代わりマージュが受け取りに出ると、渡されたのはたった一通の手紙だけで、それもマージュ宛てだった。
(誰からかしら?)
もしかしたら、ダルトンで親しくしていた友人からかもしれない。
フレドリックに捨てられた後のマージュは、しばらくダルトンの社交界でつまはじき者にされていたから、親しい友人でもおいそれと会いに来られる雰囲気ではなかったのだ。しかし時も経って、ネイサンとの結婚が確実になったマージュに、手紙のひとつでも送ろうと決心してくれた友がいたのかもしれない。
マージュは嬉しくなって、玄関の扉を閉じると、差出人の名前も確認せずに蝋封を破って手紙を開いた。
『愛しいマージュ』
と、手紙ははじまっていた。
──え?
『僕がどれほど後悔しているか、君に分かってもらうのは難しいと思う。それでも僕は君に言わなければならない……僕は今でも君を愛していると。
僕が他の女性と結婚するつもりだと伝えた時の、君の傷ついた瞳をいつも忘れられない。
この結婚はひどい間違いだった。
僕は煩悩に惑わされ、若さにつけいられて、君を裏切ってしまった。彼女はただ金のために僕の色欲を利用し、あだごころをくすぐった挙句に、兄の仕送りが減ったと見るや別れたいと言い出したんだ。そしていくつか金目のものを盗んで、ロンドンに逃げ帰ってしまった。僕達は結局フランスにも旅立っていない!
僕が万死に値する裏切りをしてしまったことはよく分かっている。
君が僕を恨んだとしても、それは当然のことだ。
でも……僕らの愛はそんなに簡単に死んだりはしないと信じている。ああ、マージュ、もし少しでも僕のことを愛してくれているなら、考え直して欲しい。
兄はあの通り冷たい人間だから、君はきっと寂しい思いをしているだろうね。
ウィングレーンも君には合わない街だ。
僕は君に会いに行くよ。この手紙と僕のどちらが早く君のもとに着くかは分からない。何百回でも、何千回でも君に謝ろう。どうか僕を許して欲しい。
そして僕らの愛を忘れないでいて欲しい。
君の、
君だけのフレドリック』
手紙ははらりとマージュの手からすり抜け、よく磨かられた冷たい床に落ちた。
25
お気に入りに追加
348
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
国王陛下は愛する幼馴染との距離をつめられない
迷い人
恋愛
20歳になっても未だ婚約者どころか恋人すらいない国王ダリオ。
「陛下は、同性しか愛せないのでは?」
そんな噂が世間に広がるが、王宮にいる全ての人間、貴族と呼ばれる人間達は真実を知っていた。
ダリオが、幼馴染で、学友で、秘書で、護衛どころか暗殺までしちゃう、自称お姉ちゃんな公爵令嬢ヨナのことが幼い頃から好きだと言うことを。
【完結】婚約者が好きなのです
maruko
恋愛
リリーベルの婚約者は誰にでも優しいオーラン・ドートル侯爵令息様。
でもそんな優しい婚約者がたった一人に対してだけ何故か冷たい。
冷たくされてるのはアリー・メーキリー侯爵令嬢。
彼の幼馴染だ。
そんなある日。偶然アリー様がこらえきれない涙を流すのを見てしまった。見つめる先には婚約者の姿。
私はどうすればいいのだろうか。
全34話(番外編含む)
※他サイトにも投稿しております
※1話〜4話までは文字数多めです
注)感想欄は全話読んでから閲覧ください(汗)
外では氷の騎士なんて呼ばれてる旦那様に今日も溺愛されてます
刻芦葉
恋愛
王国に仕える近衛騎士ユリウスは一切笑顔を見せないことから氷の騎士と呼ばれていた。ただそんな氷の騎士様だけど私の前だけは優しい笑顔を見せてくれる。今日も私は不器用だけど格好いい旦那様に溺愛されています。
獣人公爵のエスコート
ざっく
恋愛
デビューの日、城に着いたが、会場に入れてもらえず、別室に通されたフィディア。エスコート役が来ると言うが、心当たりがない。
将軍閣下は、番を見つけて興奮していた。すぐに他の男からの視線が無い場所へ、移動してもらうべく、副官に命令した。
軽いすれ違いです。
書籍化していただくことになりました!それに伴い、11月10日に削除いたします。
【完結】記憶が戻ったら〜孤独な妻は英雄夫の変わらぬ溺愛に溶かされる〜
凛蓮月
恋愛
【完全完結しました。ご愛読頂きありがとうございます!】
公爵令嬢カトリーナ・オールディスは、王太子デーヴィドの婚約者であった。
だが、カトリーナを良く思っていなかったデーヴィドは真実の愛を見つけたと言って婚約破棄した上、カトリーナが最も嫌う醜悪伯爵──ディートリヒ・ランゲの元へ嫁げと命令した。
ディートリヒは『救国の英雄』として知られる王国騎士団副団長。だが、顔には数年前の戦で負った大きな傷があった為社交界では『醜悪伯爵』と侮蔑されていた。
嫌がったカトリーナは逃げる途中階段で足を踏み外し転げ落ちる。
──目覚めたカトリーナは、一切の記憶を失っていた。
王太子命令による望まぬ婚姻ではあったが仲良くするカトリーナとディートリヒ。
カトリーナに想いを寄せていた彼にとってこの婚姻は一生に一度の奇跡だったのだ。
(記憶を取り戻したい)
(どうかこのままで……)
だが、それも長くは続かず──。
【HOTランキング1位頂きました。ありがとうございます!】
※このお話は、以前投稿したものを大幅に加筆修正したものです。
※中編版、短編版はpixivに移動させています。
※小説家になろう、ベリーズカフェでも掲載しています。
※ 魔法等は出てきませんが、作者独自の異世界のお話です。現実世界とは異なります。(異世界語を翻訳しているような感覚です)
ふたりは片想い 〜騎士団長と司書の恋のゆくえ〜
長岡更紗
恋愛
王立図書館の司書として働いているミシェルが好きになったのは、騎士団長のスタンリー。
幼い頃に助けてもらった時から、スタンリーはミシェルのヒーローだった。
そんなずっと憧れていた人と、18歳で再会し、恋心を募らせながらミシェルはスタンリーと仲良くなっていく。
けれどお互いにお互いの気持ちを勘違いしまくりで……?!
元気いっぱいミシェルと、大人な魅力のスタンリー。そんな二人の恋の行方は。
他サイトにも投稿しています。
コワモテ軍人な旦那様は彼女にゾッコンなのです~新婚若奥様はいきなり大ピンチ~
二階堂まや
恋愛
政治家の令嬢イリーナは社交界の《白薔薇》と称される程の美貌を持ち、不自由無く華やかな生活を送っていた。
彼女は王立陸軍大尉ディートハルトに一目惚れするものの、国内で政治家と軍人は長年対立していた。加えて軍人は質実剛健を良しとしており、彼女の趣味嗜好とはまるで正反対であった。
そのためイリーナは華やかな生活を手放すことを決め、ディートハルトと無事に夫婦として結ばれる。
幸せな結婚生活を謳歌していたものの、ある日彼女は兄と弟から夜会に参加して欲しいと頼まれる。
そして夜会終了後、ディートハルトに華美な装いをしているところを見られてしまって……?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる