氷と花

泉野ジュール

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A Sunday Morning (ネイサン視点)

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 その週の日曜日の朝、ネイサンはいつもどおりの早い時間に起きて、自分の経営する綿工場の中を歩いていた。
 工場の操業しない日曜日は、名目上、休息の日である。
 しかしネイサンはもう何年も休んだことがなかった。

 従業員のいないがらんとした工場は閑散としていて、いつもは忙しく動いている製綿機械は静かに並んでいるだけだった。ネイサンが歩いた後を、床に落ちていた原綿が白い雪のように舞い散る。
 機械を稼働させるための蒸気を起こす必要がないので、日曜日のウィングレーンは死んだような静けさだった。少なくとも、普段のこの街を知る者には、味気ないほどの静寂だ。
 ネイサンはいつもこの日曜日を、次の週の計画を立てるために使っていた。
 人気ひとけのない工場を観察し、なにか欠けていないか、なにを修繕しなければならないか、どうすれば生産性を高められるか……そんなことばかりを考え、時々は体面のために教会へ通い、それで一日を終わらせていた。
 今朝だってそのために工場まで降りてきたのだ……。
 しかし、そんなことは不可能だった。
 いつもは同時に複数の問題について考えることのできる頭が、今はもうたったひとつのことを考えるだけで爆発してしまいそうだった。
 マージュのことを、考えるだけで。

 そう、マージュのことを考えるだけで、ネイサンは息苦しくなって首元のクラヴェットを引きちぎってしまいたい気分になった。
 あの愛らしい顔を思い出すだけで体温が上がった。
 天使のような仕草、鈴の音のような声、ネイサンを思いやるようなはしばみ色の大きな瞳……それらを思い浮かべると、他のことなどちりほどにも気にならなくなった。マージュはネイサンの思考をすべて奪い、彼の頭の中に入ってきて鍵を閉め、そのままそこに居座って出ることを拒否しているようだった。
 さらに驚くべきことに、ネイサンはその状況に幸せを感じているのだ。

 幸福。安らぎ。
 そんな、長いあいだ感じることのなかった穏やかな気持ちが胸の奥に染み入ってくる。そして湧き上がる昂揚感……。相反するはずのふたつの感情がないまぜになって、ずっと堅固だったネイサンの足元をすくった。

 ネイサンはもうすぐマージュと結婚する。

 その未来を想像するだけで、ネイサンは持てるすべての富を手放してもまったく惜しくないほどの喜びに溺れた。──いや、そうではない。マージュに何不自由ない生活をさせてやるためにも、さらに仕事に邁進しなくては。しかし時には、この工場も注文書の山も放り出して、彼女を愛することだけにすべてを捧げたい。
 傷を負った彼女の心を癒してやりたかった。
 屈託なく微笑む彼女の顔をもっと見ていたかった。

 静止する機械の表面に指を走らせながら、ネイサンは黙っておのれの考えにふけっていた。
 いつしか、工場とウェンストン・ホールをつなぐ扉が乾いた音を立ててゆっくりと開き、遠慮がちに首をかしげたマージュが顔を出すまでは。

「マージュ」
 製綿機械がずらりと二列に並ぶ作業場の中央で、ネイサンは振り返った。
 マージュは大きな瞳をさらに見開きながら、首を伸ばして工場内の全景をまじまじと見ている。確か、マージュが休日の無人になった工場を目にするのは、これがはじめてのはずだ。
 マージュはひと通り工場を見回した後、ゆっくりとネイサンに視線を止めた。
「あなたがどこにいるのか……探していたんです。そうしたらディクソンが、きっとここだと……」
 控えめに紡がれる声は、まるで彼女がここに来たことをネイサンが叱責するのではないかと危惧しているような不安がにじんでいた。
 なんと皮肉なことだ。
 ネイサンはいつでもマージュをそばに置きたかった。いつでも彼女の隣へ行きたかった。それを制止している理由はただひとつ……マージュが結婚まで純潔を守りたがっているからだ。
 いまのネイサンに、この少女のそばで紳士のように振る舞い続けるのは、かなり難しかった。

「日曜日の朝にレディが楽しみごとを見出すような場所ではないよ、ここは」
 ネイサンは告げたが、マージュはわずかに首を振り、工場の中へ足を踏み入れてきた。
「書斎といい、工場といい、あなたはわたしが、あなたの仕事場を退屈な場所だと思うと決めつけているのね」
「違うかい?」
「いいえ」
 ネイサンを狂わせる可憐な微笑みを見せたマージュは、そっと言い加えた。
「とても興味深いです。その機械で綿を織るのですよね?」
「ああ……向こうの炉で石炭を燃やし、その蒸気で稼働するようになっている。この白いベルト部分が回り、機械の腕を動かして……」
 上がっていく心拍数を抑えるために、面白みのない機械の説明をはじめてみたが、あまり効果はなかった。
 ネイサンが話している間に、ゆっくりと近づいてくるマージュがじれったく、いますぐ駆け寄って抱きしめてしまわないようにするのには、かなりの忍耐を必要とした。
「作業員がここに立ち、流れてくる綿布を押し出すためにこのレバーを回し続ける必要がある。そして天井に新しく設置した特別な換気扇が、舞い散る綿の屑を外に出せるようにしてあって……」
 そこまでは真面目に聞いていたマージュだが、突然くすりと笑いだしたので、ネイサンはぴたりと説明をやめた。

「言っただろう、楽しい場所ではないと」
「ええ、でも、あなたの説明を聞くのは面白いです。本当にこの仕事を愛していらっしゃるんですね」

 ──愛してる?
 ああ、そうだとも。君を。

 いや、そうじゃない。マージュはなんと言った? 仕事だ。仕事を愛しているんだろう、と。
 くそ……頭がまともに回らない。

 ネイサンはわざとらしくならないように気をつけながら、短く咳払いをした。
「ほかに……情熱を捧げられるようなものがなかっただけだ」

 そう──君はずっと、フレドリックのものだったから。

 ネイサンは思い返し、自嘲気味に微笑んでいた。
 過去のネイサンにできたのは、せいぜい影で馬車馬のように働き、金を儲け、ダルトンの屋敷に豊富な仕送りを続けてマージュの生活が保障されるのを助けることくらいだった。
 あの浮世離れした弟が、身寄りのない──つまり持参金のない──マージュを妻に迎えるためには、それなりの金が必要だったのだ。今となっては笑い話だが……。

「教会へは行かないのですか?」
 日曜日の朝に当然の質問を、マージュはしてきた。ネイサンは首を横に振る。
「時々、人と会うために行くことはある以外は、滅多に行かないよ。わたしはあまり信心深い性格ではなくてね」
「そうですか……」
 うつむいて足元を見るマージュに、ネイサンは内心、まずいことを言ったかもしれないと後悔した。マージュは宣教師の娘で、結婚まで純潔を守ると固く決意しているはずで、滅多なことでは教会に顔を出さないようなならず者に心を開いてくれるとは考えづらい。
 せっかく温かみのあるものになってきたふたりの関係を、また冷やしてしまうかもしれないという恐れに、ネイサンは息苦しくなった。

 しかし、次の瞬間、顔を上げたマージュの瞳ははつらつとしていた。
「実は、わたしも毎週通っていたわけではないんです。特に今日みたいに天気のいい日は……人ごみの中にいるより散歩がしたくなって……」
 今朝が晴天だということに、ネイサンはその時はじめて気がついた。
 ネイサンにとって天気とは、原綿の仕入れがある際に荷物が濡れないよう雨の日を避けるとか……そういったビジネス上の利便性以外の意味を持たなかった。
 そういえば、マージュはよく天気の話をした。
 した、というより、しようとした、という方が正解ではあるが。ネイサンがあまりその話題に乗ろうとしなかったからだ。
「では……今朝もその散歩に行くつもりだったのかい?」
 ネイサンが訊くと、マージュは必要以上に一生懸命にうなずいた。そして、
「はい。それで……その」
 とだけつぶやいて、またうつむく。

 自惚れてもいいのかと思うと、ネイサンは微笑みがさらに広がっていくのを抑えられなかった。駆け引きを知らないマージュは可愛かった。恥じらいをもってうつむくマージュの顔を、満点の笑顔で輝かせたかった。
「『それで……その』?」
「そ、そうやってひとの言葉を繰り返すのをやめてくださいっ! わたしは……ただ……もしかしたらあなたも……すこし息抜きをしたいんじゃないかと思って……」
 桃色に火照ったほおと、大きく揺れる瞳で顔を上げたマージュは、どれだけ控えめに言ってもネイサンを熱くそそる美しさだった。
「つまり、わたしはその散歩に誘われていると思っていいのかな?」
 すこし意地悪に、しかしイエスの返事を匂わせながらネイサンが言うと、マージュはうなずいた。
「はい」
 まさに、ネイサンの望んだような満点の笑顔で、マージュは答えた。

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