氷と花

泉野ジュール

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氷の葛藤 "Nathan. Call me Nathan" ☆

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 抵抗するべきなのかもしれないのに、マージュはどうしてもそんな気になれず、いつのまにかネイサンの腕に自分のすべてを預けていた。
 ネイサンの手がマージュのうなじを掴み、背筋をなで上げ、自由を奪う代わりに熱いうずきを与えてくる。
 快感がどんなものなのか、マージュはまだ知らない。しかし、もしかしたら、この体の芯がとろけそうな感覚こそが……それなのではないだろうか?
 何度かフレドリックに抱きしめられた経験はあるが、こんな熱は感じなかった。もちろん、フレドリックの抱擁はネイサンのそれとはまったく違ったけれど。もっと気軽で、笑いに溢れていて、優しかった。
 ネイサンの抱擁にはそのどれもがない。
 この抱擁はもっと原始的で、欲望に溢れていて、優しさは微塵も感じない。あるのはマージュを求め、より近くにたぐり寄せたいという切なる渇きだけだ。
 それなのにマージュは、嫌だと思えないどころか、もっとこうしていたいと思っていた。

「マージョリー」
 やっと聞き取れるくらいのかすれた声が、耳をくすぐる。

 マージュはなんとか顔を上げて、ネイサンを見上げようとした。しかし、彼の顔はマージュの左の耳の後ろの髪の中に隠れるようにうずめられていて、はだけた胸元とクラヴァットを外したせいであらわになった喉仏しか見えない。
 ネイサンの香りがした。
 汗の匂い、工場の蒸気と油の名残り、男性用の上質なコロン……。それらがすべて混じって、ネイサン・ウェンストンというひとりの男性を作っている。マージュはなぜかそれをひどく愛しく感じて、両手で彼の背中をぎゅっと抱き返した。
 肩幅の広い背中は、マージュの手を受けてかすかに震える。
 そんなことはありえないと思っていたのに、ネイサンの腕はさらに力を増してマージュを抱き寄せた。夜の屋敷は静かで、先ほどのネイサンの叫び声にもかかわらず、誰かが近寄ってくる気配はない。

 その時ふと、執務机の上にあったランプの炎がジリジリと乾いた音を立てて揺れ、高く上がり先細ったかと思うと、ジュッと鳴って消えた。油が切れてしまったらしかった。
 あたりが完全な暗闇に包まれ、マージュは身を硬くする。

「あ、あの、明かりが……」
 マージュの不安げなささやきに、ネイサンはやっとすこし体を離した。といっても、彼の両手はマージュの二の腕をきつく掴んで、離さないままだ。それでも急にできたわずかな隙間に、マージュは安心するどころか寂しさを覚えた。
 真夜中な書斎にふたりきり、真っ暗で、見えるものはなにもない。
 ネイサンはしばらく動かず、口を開かなかったが、闇の中にも彼の視線を痛いほど感じた。──彼はなにを考えているのだろう? こんなふうに、視界さえ開けない暗がりの中でマージュを見つめて……彼に得るものはあるのだろうか?
 お互いの深い息遣いだけが、必要以上に大きく響く。
 彼の胸の中に荒れ狂っている熱情の正体を知りたくてたまらないのに、暗闇はマージュに彼の表情をうかがうことを許さなかった。

「この闇の中でなら、君を抱き続けていられる」
 と、ネイサンのひび割れた低い声が沈黙を破った。
「明かりなどもう世界から消えてしまえばいい……。このまま闇に沈んで、永遠にこうしていようか」

 ネイサンの右手が、マージュの輪郭の線を探るようにゆっくりと上がってきた。
 最初、彼の手はマージュのあごの形をなぞり、そのまま慎重に唇へ届いた。親指が優しく唇を押し、マージュは本能的にわずかに口を開いて彼の手の動きに応こたえていた。
 体の奥から湧き上がってくるはじめての情熱に突き動かされ、マージュは舌の先でネイサンの指に触れ……軽く吸いついた。
 ちゅっと生々しい音が漏れると、闇の中でネイサンが息を止めるのが聞こえる。
 暗闇はマージュに不思議な勇気を与えた……。
 この男性ひとにもっと触れて欲しい。触れ合いたい。心の中をのぞいてみたい。この身の純潔を証明したかったはずなのに、マージュはそれとは真逆の欲情に翻弄され、流されそうなになっていた。

「だったら……離さないで。触れてください……わたしに」

 素直にそう、願いを口にしてしまうと、マージュはついに自分がどれだけ寂しかったのかを実感した。
 フレドリックに裏切られてからの痛みと孤独。ウェンストン・ホールに来てからのネイサンとの希薄な関係。そのすべてが、本来ひと好きで明るいマージュの心を残酷に切り刻んでいた。
 それが、ネイサンに触れられると、ゆっくり癒されていくような優しい痺しびれを感じる……。
「触って」
 どこを、とは言わなかったのに、ネイサンの腕はすぐに反応した。
 片手で上着越しに背中をまさぐられ、寝間着があらわになった胸元にもう片方の手が触れる。今度はマージュが息を止める番だった。

「あ……」
 そこ、は。
 ネイサンの指が、もどかしいほど優しくマージュの胸のいただきに触れた。
 薄い布越しにかすかな刺激が与えられただけなのに、体の隅々までが熱くなり、お腹の奥がうずき、全身が震えた。もしネイサンに今のマージュの表情が見えたら、彼はどう思うだろう。
 ネイサンはさらに、硬くふくらみ始めたマージュの胸の小さな突起を指でなでた。まず、寝間着の上に小さな円を描くように優しく……そして、じょじょに力を加え、刺激を強くする。
「ああ……! わ、わたし……わたし……」
 生まれてはじめての感覚だった。世界が崩れていく。ずっとマージュを悩ませていた悲しみも、孤独も、怒りも、すべてがネイサンの指の動きの前にとけていき、快感の波に変わった。
 どう答えればいいのだろう?
 どう受け入れるべきなのだろう?
 このままこの甘美な波に揺られて、ネイサン・ウェンストンが与えてくれる刺激に、身を委ねてもいいのだろうか……? しかし、暗闇は答えを与えてはくれない。聞こえるのはネイサンの荒い息づかいと、自分の嬌声だけだった。
 こんな声が出せるだなんて、知らなかった。
「ひうっ!」
 ネイサンが胸の頂を指でつまみ、同時にもうひとつの胸にかじりついた。かじり、ついたのだ。マージュの頭は真っ白になって、ひどく混乱した。こんなふうに……こんなふうにするなんて……夢でさえ見たことがない。
 年頃になる前に母親を亡くしているマージュに、男女の行為の神秘に関する知識は少なかった。
 ネイサンは片手でひとつの突起を愛撫し、もうひとつの突起を口にふくんで舌でゆっくりと舐め上げた。どちらも寝間着の布を通し、無知なマージュを困惑させるほどの快感を与えてくる。
「ミ、ミスター……」
 と、マージュが言いかけると、ネイサンはわずかに胸から口を離した。
「ネイサンだ。ネイサンと呼んでくれ」
 熱い吐息が胸にかかる。それだけ短く言うと、ネイサンはまたすぐにマージュの胸を口にふくんだ。マージュはふたたび快感に震え、ネイサンの肩に顔を預けながら、切れ切れになる息の合間にささやいた。
「ネイサン……」

 突然、ネイサンの両手が寝間着の襟元を激しくつかみ、そのまま一気に引き裂いていった。薄い布地は乾いた悲鳴のような音を立て、縦に破れて散っていく。
 闇の中に、まだ誰にも見せたことのないマージュの裸体が浮かんでいるはずだった。

 ネイサンの次の動きは見えない。
 たとえ見えたとしても、マージュはこれからはじまる世界のことを、なにも知らない。
 このまま彼に抱かれるのだろうか……。なぜ、マージュは抵抗しないのだろう。できないわけではないのに、どうしても体が言うことを聞かない。ネイサンの与えてくれる快感を、もっと欲しいとねだっている。
 夜の空気は冷たいはずなのに、マージュは寒さを感じなかった。

「奴は……君のどこに触れた……?」
 やっと聞き取れるくらいのかすれた低い声が、目の前に聞こえた。いつのまにか吐息がかかりそうなくらい近く、ネイサンの顔が迫っている。
 なにが変わるわけでもないのに、マージュは暗闇の中で目を閉じた。
「どこにも……触れていません。信じて。そのことを……どうしても伝えたかったの」
 数秒の沈黙の後、ネイサンは吐き出すように言った。

「それを信じろと?」
 ネイサンの声ににじむ怒りに、心がナイフを受けたように傷む。
「君はずいぶんとうまくわたしを誘惑した。まるで小慣れた情婦のように」

 そんな……。
 悔しさと悲しさにゆっくりと涙があふれてきて、止めるのは難しかった。
 やはり、マージュがネイサンの動きに反応してしまったのは、はしたない行為だったのだ。汚れた女。だからマージュは捨てられる。
 貞操を守れば裏切られ、こうして自ら身を預けようとすれば疑われる。だとしたら、マージュに残された道はどこだったんろう?
 マージュは素肌を隠そうと胸元を両腕で覆おうとしたが、闇にまぎれたネイサンの手がそれを拒んだ。怒りをふくんだ力で、きつく手首を掴まれる。
「わたしは……ただ……」
 ほおに流れる涙を止められないまま、マージュはすすり泣いた。
「ただ……どうしていいのか分からなくて……ごめんなさい」

 このまま涙と一緒に床にとけて、物語の人魚姫のように泡になって消えてしまいたかった。
 もう幸せにはなれない。フレドリックはあの花嫁とともにマージュを捨てて、ネイサンはこの暗闇の中にマージュを置き去りにする。そんな気がして仕方なかった。
「フレドリックは……わたしが……身を捧げなかったから……他の女性のところへ行ってしまったの……だから」
 だから?
 泣きながら切れ切れにささやくマージュに、ネイサンは闇そのもののような沈黙を返した。彼がどんな表情をしているのか知ることはできない。

 軽蔑に顔をゆがめているのだろうか。
 あの冷たい灰色の瞳で、マージュを見下しているのだろうか。

 ひとときでも快感を感じてしまった自分の体が、ひどく汚れた、浅ましいものに思えてならなかった。マージュは深くうなだれて、つぶやいた。
「ごめんなさい……」

 腕をつかんでいたネイサンの手が、急にマージュの体を引き寄せる。マージュは驚いて息を呑んだ。そのまま投げ捨てられるのを覚悟したのに……ネイサンがくれたのは優しい抱擁だった。
 マージュを包み込むような、柔らかく、甘い、愛情に満ちた抱擁だった。

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