ジゴロな魔王を拾いましたが!

泉野ジュール

文字の大きさ
上 下
7 / 11
新生活のようなもの

魔王、興味をもつ。

しおりを挟む
 グラス製のインク壺にペン先を浸したアン・グレイスウッドは、スッと息を吸うと心を決めて、現実とは違う別の世界に入っていった。

 * * * *

 そこでは美しき侯爵エドワードが、傲慢に、しかし情熱的に恋人を求める。「わたくし」ことヒロインはエドワードの愛人だ。彼を恨み、憎み、復讐を誓いながらも、どうしようもなく彼を愛してしまう。
 もちろんこの「わたくし」なるヒロインにも名前はあるのだが……アンは作者として、彼女の名前をあまり全面に出さなかった。
 アンの読者は主に女性である。
 彼女達に、物語をより身近に感じて欲しかったからだ。他人事ではなく、まるで彼女達自身が、エドワードとの愛憎に溺れているように感じて欲しかった。

 だって、そうでしょう?
 アンのようなオールドミスでも、幸せな結婚をした三児の母でも、貧乏な使用人でも、貴族の娘でも、エドワードのような並外れた偉丈夫と情事を重ねる機会なんてそうそうあるはずがない。
 アンが読者に与えるのは、そういった非日常のときめきだった。

 視界の端に入るだけで動悸がしてしまうような長身の美男子が、上半身裸で……あるいは全裸で……寝室をうろうろしていたり、我が物顔で食卓の前に足を組みトーストを頬張っていたりはしないものなのだ。
 しないものだったのだ……数週間前までは。

 * * * *

「ふう……っ。やっと……やっと終わったわ!」
 アン・グレイスウッドはペンをペン受け皿に置いて、満足の声を上げた。

 足掛けほぼ五ヶ月をかけた大作にして、アンの作家生命をかけた渾身の一作が、締め切り一日前にしてついにエンド・マークを迎えたのだ。もしかしたら書き終えた瞬間の興奮のせいかもしれないが、間違いなく傑作だと思える。途中、原稿数枚がインクで真っ黒になるというハプニングに見舞われたものの、その部分の書き直しもふくめ、まったくもって悪くない出来だった。

「よかったですねぇ、アン様。一時はどうなることかと思いましたが……ゲホッ」

 アンの執筆机に紅茶を置きながら、使用人のマリアが言った。
 普段、マリアの淹れる紅茶は濃すぎたり薄すぎたりマチマチなのだが、今はその紅茶の塩梅まで完璧に見える。アンはうなずきながらカップを口に運び、琥珀色の熱い呑み物を味わった。

「ありがとう、マリア。雨降って地固まるだったわ。クライマックスを書き直ししたおかげで、かえってとても良いものに仕上がったと思うの。あとはミスター・ビングリーがこれを気に入ってくれるといいのだけど」
「きっと大丈夫ですよ。ミスター・ビングリーがアン様の原稿をお気に召さなかったことなんて、ないじゃないですか」
 ……と言ってから、マリアは肩をすくめた。「まあ、一度や二度はありますけど、結局どの作品もよく売れたじゃないですか」
「そうかもしれないわね」
 この身体の弱い使用人に反論しても得るものはないので、アンはそう曖昧に答えて、あらためて原稿の束を眺めた。
 じつに計900ページ。壮観である。とりあえずやり切ったのだ!

「それに、なんといっても……ケホ……まさにヒーローのような姿の殿方が常にそばにいらっしゃいましたから、執筆もはかどったことでしょう?」

 まさにそのときだった。アンの寝室兼執筆部屋の扉が音もなく開き、大きな、そして目が痛くなるほど美しい黒づくめの男性が現れた。

「女、わたしのトーストを用意する名誉を与えてやろう」
 魔王はのたまった。
 アンは呆れに視線を泳がせたが、幸いなことにマリアはあまり気にしない性質だった。「はい、少し焦げつきがよかったのですよね? 5枚で足りますか? けほっ」
「足りぬ。10枚は用意しろ」
「かしこまりました。それではアン様、失礼します」
「ごめんなさいね、マリア」
「いえいえ、仕事ですから。ケホケホ」

 マリアが一礼して部屋から出ていくと、アンはキッと厳しい視線を魔王に向けた。魔王……少なくとも自らを魔王と自称する、悔しいくらいに完璧な美しさの男を。

「……わたしの使用人を『女』なんて呼ぶのはやめて欲しいわ、ミスター・デビル。彼女にはマリアという名前があるのです」
「それがどうした」魔王は豹のようなしなやかさでアンに近づいてきた。「女であることに変わりはあるまい。本人が嫌がっているわけでもない……」
「そういう問題ではないのよ」
 凛とした姿勢を保つのは難しかったが、アンはなんとか抵抗した。……つもりだった。
 魔王はすでにアンの目の前に立っている。

「では、なにが問題だ」
「あ……あなたは、この家の主ではないということです……! 客人でさえないわ! ここに居続けたいなら、この屋敷の人間には敬意を払っていただきたいの。あなたはただの居候……もっと言えば、ただの……」
「ジゴロ、だったな」
 魔王はさも嬉しそうに舌なめずりをした。
 本当に舌なめずりをしたのだ! しかもそれが美しいだなんて! まるでジゴロという言葉が、最高の褒め言葉であるみたいに……。

 ジゴロ……もとい、魔王は、じっくりアンを見つめると機嫌よくその美しい顔に美しすぎる微笑を浮かべ、手近にあった安楽椅子にどかりと腰を下ろした。「トーストはまだか」

「信じられないわ……。すでに三週間もあなたをここに住まわせているなんて、わたし、おかしくなってしまったのかしら」
 諦めのため息を吐きながら、アンはつぶやいた。魔王は特に気にも止めず、優雅に足を組んでいる。
「ビングリーとは何者だ?」
「え?」
「聞こえたはずだ。答えるがいい」
 アンはあんぐりと口を開けた。「その名前は、あなたが部屋に入ってくる前にしか口にしていないわ。どうやって聞いたの?」
「そいつは、お前を貶したことのある人間か」
 アンの質問に答える気はなさそうだった。アンは肩をひょいと持ち上げ、できるだけ声がうわずらないようにした。
「わたしではなく、わたしの作品を……です。それが彼の仕事ですから。ミスター・ビングリーは敏腕の編集者で、わたしのためにたくさん契約を取ってきてくださっているのよ」
「ふん」
 ふん?
「……言っておきますけど、ミスター・ビングリーに失礼をはたらくことは許しませんからね」
「なるほど、ここに来るのか。なかなか面白いことになりそうだ」
「なりませんッ! させないわ!」
「それはいつだ?」

 さっきまでの気持ちの高揚はどこへやら、アンは別の種類の興奮に襲われていた。悔しいのは、この魔王は決して馬鹿ではないということだ。気狂いかもしれないが、馬鹿ではない。常に状況の二歩も三歩も先を見越していて、先手を打ってくる。
 ああ、悲しいかな。
 アンは賢い男性が嫌いではなかった。

「明日です……。お願いだから、一日外へ出ていてくれませんか? 費用はわたしが持ちますから、どこかへお買い物でも……」
「アン、お前は賢い女だ」
 アンの頭の中をのぞいたみたいに、魔王は微笑を浮かべた。「無駄な願いで時間を無駄にする必要はあるまい」

 ……そうでしょうとも。
 アンはがっくりと肩を落とし、己の数奇な運命を嘆いた。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

「君を愛するつもりはない」と言ったら、泣いて喜ばれた

菱田もな
恋愛
完璧令嬢と名高い公爵家の一人娘シャーロットとの婚約が決まった第二皇子オズワルド。しかし、これは政略結婚で、婚約にもシャーロット自身にも全く興味がない。初めての顔合わせの場で「悪いが、君を愛するつもりはない」とはっきり告げたオズワルドに、シャーロットはなぜか歓喜の涙を浮かべて…? ※他サイトでも掲載中しております。

完璧な侯爵令息である俺は、相手が地味でコミュ障の伯爵令嬢でも完璧な婚約者でなければならない

みこと
恋愛
俺、ルーカスは由緒正しきシュタイン侯爵家の令息として完璧でなければならない。いや、実際完璧だ。 頭脳明晰、眉目秀麗、文武両道、品行方正。 これが皆から言われる俺の評価である。妥当だ。 そんな俺にもまるで欠点のように言われる事がある。 それは俺の婚約者であるソフィア・ランベルト伯爵令嬢の事だ。 内密の事前調査では、彼女はかなり賢いらしい。しかし特に優れているところはそれだけのようだ。 地味な容姿で分厚いレンズの眼鏡をかけている。スタイルもいいとは言えない。 コミニュケーション能力が壊滅的で、会話ができないので何を考えているのか分からないと言われている。 しかしだ! 俺は完璧な侯爵令息だ。 だったら俺が彼女の完璧な婚約者になればいい。 俺なら出来る。何故なら俺は完璧だからな! こんな完璧?な侯爵令息と地味で、変な眼鏡で、コミュ障の伯爵令嬢のお話です。 はたして、完璧?な侯爵令息は完璧な婚約者になれるのか? いや、それ以前に会話が出来るのか? ゆるゆる設定です。色々とご容赦下さいm(_ _)m

【完結】魔王様、溺愛しすぎです!

綾雅(ヤンデレ攻略対象、電子書籍化)
ファンタジー
「パパと結婚する!」  8万年近い長きにわたり、最強の名を冠する魔王。勇者を退け続ける彼の居城である『魔王城』の城門に、人族と思われる赤子が捨てられた。その子を拾った魔王は自ら育てると言い出し!? しかも溺愛しすぎて、周囲が大混乱!  拾われた子は幼女となり、やがて育て親を喜ばせる最強の一言を放った。魔王は素直にその言葉を受け止め、嫁にすると宣言する。  シリアスなようでコメディな軽いドタバタ喜劇(?)です。 【同時掲載】アルファポリス、カクヨム、エブリスタ、小説家になろう 【表紙イラスト】しょうが様(https://www.pixiv.net/users/291264) 挿絵★あり 【完結】2021/12/02 ※2022/08/16 第3回HJ小説大賞前期「小説家になろう」部門 一次審査通過 ※2021/12/16 第1回 一二三書房WEB小説大賞、一次審査通過 ※2021/12/03 「小説家になろう」ハイファンタジー日間94位 ※2021/08/16、「HJ小説大賞2021前期『小説家になろう』部門」一次選考通過作品 ※2020年8月「エブリスタ」ファンタジーカテゴリー1位(8/20〜24) ※2019年11月「ツギクル」第4回ツギクル大賞、最終選考作品 ※2019年10月「ノベルアップ+」第1回小説大賞、一次選考通過作品 ※2019年9月「マグネット」ヤンデレ特集掲載作品

エリート警察官の溺愛は甘く切ない

日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。 両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

【完結】召喚された2人〜大聖女様はどっち?

咲雪
恋愛
日本の大学生、神代清良(かみしろきよら)は異世界に召喚された。同時に後輩と思われる黒髪黒目の美少女の高校生津島花恋(つしまかれん)も召喚された。花恋が大聖女として扱われた。放置された清良を見放せなかった聖騎士クリスフォード・ランディックは、清良を保護することにした。 ※番外編(後日談)含め、全23話完結、予約投稿済みです。 ※ヒロインとヒーローは純然たる善人ではないです。 ※騎士の上位が聖騎士という設定です。 ※下品かも知れません。 ※甘々(当社比) ※ご都合展開あり。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

出ていってください!~結婚相手に裏切られた令嬢はなぜか騎士様に溺愛される~

白井
恋愛
イヴェット・オーダム男爵令嬢の幸せな結婚生活が始まる……はずだった。 父の死後、急に態度が変わった結婚相手にイヴェットは振り回されていた。 財産を食いつぶす義母、継いだ仕事を放棄して不貞を続ける夫。 それでも家族の形を維持しようと努力するイヴェットは、ついに殺されかける。 「もう我慢の限界。あなたたちにはこの家から出ていってもらいます」 覚悟を決めたら、なぜか騎士団長様が執着してきたけれど困ります!

処理中です...