上 下
6 / 11
出会いのようなもの

魔王、口説く。

しおりを挟む
 まだ夢の中をたゆたっているような曖昧な感覚のまま、アンは目を覚ました。同時に、かすかな歌声が聞こえた。低い、低い、男そのものの声なのに、旋律は甘く優しい。
 なにかの子守唄のようだ。
 そんなものを聞くのは久しぶりで、婚期を逃した時点で自分が歌う機会はないだろうと諦めていた、そんな響きだった。
 アンは何度かまたたきを繰り返した。
「ん……」
 見慣れた自分の寝室の天井が視界に映り、アンはほっと安堵する。とともに、わずかな落胆をも感じた。
 なにか……とても素敵な夢を見ていたような気がするのに。

 誰かに深く愛され、情熱的に求めらる。
 そんな、まさに夢のような夢。
 アンのようなメガネのオールドミスが望んでも得られることはない、むなしい幻。でも、寂しい心を温めてくれた、いっときの癒し。目を覚ました時点で泡のように消えてしまうはずの絵空事が、アンのまぶたにはまだ、不自然なほど鮮やかに焼きついていた。
 夢の中で、誰かに会ったような気がする。
 息をのむほど美しく、現実を忘れるほどの色香と男らしさに満ちあふれた、長い黒髪の男……。

 え。
 長い黒髪?
 低い声?

 一瞬にして意識を取り戻し、アンはガバッと寝台の上で身を起こした。
「ミ、ミスター・デビル……!?」
 なんということだ。
 なんということだ。
 アンは、あってもなくても大差のないような薄い寝間着のみの姿で、うわ掛けのキルトの下に寝かされていた。その隣にはどういうわけか、これがさも当然の権利であると言わんばかりの堂々とした態度の魔王が、全裸でアンの方を向いて横たわっていた。
 全裸で!
 わずかに水気をふくんだ艶やかな黒髪を肩に流し、●△#※♪≧§な胸板を惜しげもなくさらしながら、目が痛くなるほどの美しい顔で微笑んでいる。
「お前にミスター・デビルと呼ばれるのは、なかなかそそられる」
 と、魔王はささやいた。
 まさに悪魔のささやきだった。

「ど、ど、どうして、あなたがここに……」
 間の抜けた質問だと自嘲しながらも、聞かずにはいられなかった。
 魔王はうっすらと微笑む。
「望む場所で望むことをする。それがわたしだ。そしてわたしの望みは、お前の寝台でお前の横に横たわることだった。それだけだ」
 魔王の答えは明瞭だった。
 わお。
 別に愛の告白をされたわけでもないのに、それと同じくらい、アンの心臓はドキドキと荒く鼓動した。
「では……その……は、裸でいることも……?」
 魔王はニヤリと口のはしをゆがめた。こんなニヒルな表情がこれほど似合う人も少ないだろう。彼が「人」かどうかは、微妙なところだけれど。
「お前にはわたしが、女の寝台に服を着て入るような男に見えるのか?」
「う」
 いいえ。
 どちらかといえば、持っている中で一番薄いものとはいえ、自分がきちんと寝間着を着せられていることの方がよっぽど驚きかもしれない。でも、そんなことを口にして魔王の行為を肯定するような真似はできなかった。
 オールドミスの官能ロマンス作家とはいえ、信仰を持っていないわけでも、まったくつつしみがないわけでもない。
 少なくとも、今のところは……。

 アンはうわ掛けのキルトを、手放したら攻落してしまう最後の砦であるかのように必死になって、胸元にぎゅっとつかんで、自分の体の線を隠した。

 その一連の動きを、魔王は冷たい瞳でじっと見つめていた。

「神は人を自分に似せて創造したという」
 魔王の口から、抑制の効いた低い声が、歌うようななめらかさで発せられる。うなじの産毛がぞわっと立つような、魅惑的な声だった。
 あらがえるはずもない。
「神になぞらえられたはずの、その体を隠そうとするのは罪ではないのか……? 神の姿を否定するようなものだろう?」

 一瞬、アンは返答に窮きゅうした。
 彼は悪魔なのに──少なくとも彼自身の言を借りれば、彼は悪魔で、それどころかその世界の王様だった。それなのに、彼の口から神の名が語られ、道徳が説かれている。
 まあ、とにかく、彼なりの道徳を。
「あなたのような美しい方なら、そ、そんなふうに考えられるかもしれませんわ……。でも、すべての人間がそうなわけじゃないんです」
「ほう? なぜ?」
 魔王は片方の眉をわずかに上げて興味を示した。
 こんな仕草ひとつでも、この男には言い知れない艶っぽさが漂っている。

「まるでお前は、自分は美しくないと言っているように聞こえる」

 魔王の口調に嫌味や含蓄は感じられなかった。本当に疑問に思っているから質問しているだけ、というような無頓着さがあった。
 信じられない。
「その通りですわ。わたしは美しくなどありません。さあ、こ、ここをどいてください」
 声が震えてしまうのが悔しかった。
 もっと毅然とした態度で、はっきりと彼を拒否しなければいけないのに、出てくるのは蚊の鳴くような声と、ハリボテの勇気だけ。アンが美しくないのは明白な事実だ。なんといってもメガネだし、痩せぎすで、平凡な茶色の髪……。
「あ!」
 魔王は瞬またたく間にアンが掴んでいたうわ掛けのキルトをはいだ。覆いかぶさるようにアンの前に乗り出すと、彼女の背中に大きな手を回して抱きかかえる。
 気がつくと、もう片方の手がアンのメガネを外していた。
 魔王はじっとアンの瞳を覗き込んでいる。
 あまりにも美しすぎる、その灰色のまなざしで。
「女が、自身のことを『美しくない』と思い込む理由はただひとつ……。そんなことを彼女に言った連中がいるからだ」
 魔王は指摘した。
 アンは息を呑んだ。

「そして、お前は、お前にそれを言った連中のことをよく覚えているはずだ。そう、忘れられないだろう? そいつの名前を教えてくれれば、それだけいい。わたしがそいつをたっぷり後悔させてやろう」魔王は楽しそうに舌なめずりするのを忘れなかった。「ゆっくり、じっくり、時間をかけて」まさに悪魔の中の悪魔だけが示せる、美しき冷酷がそこにあった。「徹底的に」

 どうして、こんな展開に!
 勝手に人の寝台に全裸で入ってきたあげく、アンの過去について、知ったようなことを言う魔王。
 悔しいのは、彼は完全に正しいということだった。
 でも……。
「あ、あ、あなたには……関係のないことです……」
 というか、寝台の上で全裸の男性に迫られ、抱きかかえられているということは、下腹部のあたりに硬い突起物が押し当てられているということでもあった。
 控えめに言っても、その感覚はとても……新しく、アンの思考をかき乱した。
 もう!
 しっかりしなくちゃいけないのに。
 毅然と。良識を持った淑女らしく。無遠慮に寝台に入ってきた全裸の殿方を拒否しなければいけない。たとえ彼がどんなに美しくても。
 どれだけこの胸が高鳴っていても。
 そうでしょう?

 違うの?

「今までの人生で、裸の男に抱きしめられたことはあったか?」
 魔王は、答えを知っている質問者独特の得意げな笑みとともに、アンに顔を近づけながら聞いた。
「い、いいえ……」
「寝台に男が入るのを許したことは?」
「いいえ……」
 形のいい唇が機嫌よく笑みを深める。
 体の芯が焼けつくように熱くなり、アンはもぞもぞと腰をよじらせた。逃げたいと思っているはずなのに、手も、足も、首も、なにもかも、抵抗らしい動きをできないでいる。
「わたしの前に、口づけをした男は?」
「……い、いいえ……いいえ……っ! もう、いい加減にしてください! どれもあなたには関係ないわ!」
「そうかな? お前は結局わたしの質問に答えている。しかもその答えは、口づけも、共に寝台に入った男も、わたしがはじめてだと認めているんだ」
「……だっ、だからどうしたって言うんです!?」
「お前はこの状況をまんざらでもないと思っているということだ。ひとつ、当ててやろうか……アン」

 魔王の喉から発せられた自分の名前は、いままで数え切れないほど聞いてきた平凡な響きの自分の名前とは思えないほど、なまめかしい響きを持っていた。

 どうしよう。
 これから彼に言われることに、反論や、抵抗をできる気がしなかった。まったくもって。

「ひ……ぁっ!」
 魔王の指が、そっとアンの鎖骨のくぼみに触れた。
 じんと肌が痺れ、火がついたように血が熱くなる。魔王の指はそのままゆっくりと下へ向かって滑っていった。
 下へ……胸の谷間へ。

「お前は処女だ」
 魔王はささやいた。
「ん……ん……」
「わたしは処女が好きだ。お前のことも気に入っている。そしてお前は、わたしを求めている。少なくとも、わたしがお前に与えてやれる快楽を、求めている」
「ま、て……はぅんっ!」
 魔王の指は、いわゆる敏感なつぼみには触れず、じらすようにアンの双丘の周囲をなぞっている。それだけなのに、ひどく切ない官能がアンの全身を駆け巡った。
 このままでは……。
 このまま……。

「取り引きをしよう、アン。わたしはお前にこの世のものとは思えない快楽を教えてやる。そしてお前は……このままわたしを養うのだ」

 え。

しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

セクスカリバーをヌキました!

ファンタジー
とある世界の森の奥地に真の勇者だけに抜けると言い伝えられている聖剣「セクスカリバー」が岩に刺さって存在していた。 国一番の剣士の少女ステラはセクスカリバーを抜くことに成功するが、セクスカリバーはステラの膣を鞘代わりにして収まってしまう。 ステラはセクスカリバーを抜けないまま武闘会に出場して……

ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる

Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。 でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。 彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。

日常的に罠にかかるうさぎが、とうとう逃げられない罠に絡め取られるお話

下菊みこと
恋愛
ヤンデレっていうほど病んでないけど、機を見て主人公を捕獲する彼。 そんな彼に見事に捕まる主人公。 そんなお話です。 ムーンライトノベルズ様でも投稿しています。

【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。

三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎ 長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!? しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。 ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。 といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。 とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない! フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

【完結】嫌われ令嬢、部屋着姿を見せてから、王子に溺愛されてます。

airria
恋愛
グロース王国王太子妃、リリアナ。勝ち気そうなライラックの瞳、濡羽色の豪奢な巻き髪、スレンダーな姿形、知性溢れる社交術。見た目も中身も次期王妃として完璧な令嬢であるが、夫である王太子のセイラムからは忌み嫌われていた。 どうやら、セイラムの美しい乳兄妹、フリージアへのリリアナの態度が気に食わないらしい。 2ヶ月前に婚姻を結びはしたが、初夜もなく冷え切った夫婦関係。結婚も仕事の一環としか思えないリリアナは、セイラムと心が通じ合わなくても仕方ないし、必要ないと思い、王妃の仕事に邁進していた。 ある日、リリアナからのいじめを訴えるフリージアに泣きつかれたセイラムは、リリアナの自室を電撃訪問。 あまりの剣幕に仕方なく、部屋着のままで対応すると、なんだかセイラムの様子がおかしくて… あの、私、自分の時間は大好きな部屋着姿でだらけて過ごしたいのですが、なぜそんな時に限って頻繁に私の部屋にいらっしゃるの?

若社長な旦那様は欲望に正直~新妻が可愛すぎて仕事が手につかない~

雪宮凛
恋愛
「来週からしばらく、在宅ワークをすることになった」 夕食時、突如告げられた夫の言葉に驚く静香。だけど、大好きな旦那様のために、少しでも良い仕事環境を整えようと奮闘する。 そんな健気な妻の姿を目の当たりにした夫の至は、仕事中にも関わらずムラムラしてしまい――。 全3話 ※タグにご注意ください/ムーンライトノベルズより転載

処理中です...