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出会いのようなもの
魔王、落ちてくる。
しおりを挟む今年28歳になるアン・グレイスウッドが社交界の華になることはなかったし、もちろんこれからもないだろう。デビューの年は本当に悲惨だった。今思えば、あれは神のおぼしめしだったのだ。
だからこそアンは、今日、好きなだけ好きな世界で最高にイカした美形の若き侯爵さまと、熱い情事を楽しむことができる。なんなら相手は王子さまでもいい。
いっそ、王さまとだって可能だ。
だって……。
* * * *
『そして、エドワードの手は艶めかしく、しかし愛情を持ってわたくしの素肌を撫で上げた。わたくしの肢体は喜びに震え、身体の芯は炎となって燃え上がる。
ああ! 復讐の女神よ!
わたくしは激しくいきり勃ったエドワードの象徴を体内に迎えようとしながら、枕の下に隠していた短剣にこっそりと指で触れた。
もうすぐよ。
わたくしはもうすぐ、愛するエドワードの死神となる。
おお! 守護天使よ! 愛する男の生き血を浴びる勇気が、わたくしにあるだろうか?
でも、わたくしはやり遂げなくてはならない。
無残にも殺された姉の仇として!』
* * * *
アンが汚れた指先を古い布生地で拭っていると、外で一番鶏が日の出を告げる声を上げた。コケコッコー!
「あら、もう朝なの」
顔を上げると、エドワードに夢中になってカーテンを締め忘れていた窓の先に、うっすらと地平線を照らす陽光が差して見えた。
そう……もう朝なのね。
今夜もまた、エドワードを殺せないまま終わってしまうのね。
アンは手を休め、深い諦めのため息をつき、疲れた身体を伸ばすために椅子から離れた。今が春でよかった。こうして一晩中熱中したあとの朝は、夏だったら汗ぐっしょりになっているし、冬だと手足の先がすっかり凍りついてしまっていて、あまり気持ちのいいものではない。
でも、春は好きだ。
秋も。
紅茶を飲んで、ジャムを乗せたスコーンを食べて、ひと眠りしたらまたエドワードとの情事にふけることができる。
だから、アンは迷うことなくそうした。
アンは、そうすることができる。アンは自由だ。
* * * *
『「エドワード、わたくしを許して!」
ついに運命の時が来たのだ。声が枯れるほどの甲高い叫びを上げながら、わたくしはエドワードの喉仏に短剣の先端を突きつける。
エドワードの瞳は大きく見開き、わたくしを驚愕の表情で凝視した。
ああ! わたくしの美しいエドワード!
かつて疾風の軍神と呼ばれ、この国で最も裕福な侯爵でもあるこの男は、瞬時にすべてを理解したようだった。
おお、エドワード。彼は悲しげに、しかし、どこかこの時を待っていたように、そっと微笑んで見せた。
「あなたにわたしが殺せるかな、美しいひと。わたしほどあなたの肉体を知り尽くしている男はいない。わたしを殺すということは、この快楽の終わりをも意味する……。あなたはそれに耐えられないはずだ。わたしは、そういうふうに、あなたの肌に教え込んだのですから……」
* * * *
そう。
そうよ。
物語は最高潮を迎え、暗転する。
アンは心の赴くままに先へ進んだ。エドワードは残忍な男だ。賢く、狡猾でいながら、ひたむきに恋人を愛している。もちろんその裸体は見惚れるほどたくましい。
アンは一心不乱にエドワードの現在を、未来を、幸福を、不幸を、形作っていく。彼は恋人を抱き、彼女に愛をそそぎ、夢を握りつぶして、アンの世界を染め上げていく。
ああ、最高!
その時だった。アンが最高のアバンチュールを愛するエドワードと満喫していた、その最中に、それは起こった。
ドッカーン!!
まずは雷鳴のような激しい音が、アンの住む古い屋敷を揺らすように響いた。
それから、驚いて顔を上げる暇もないまま、なにかがゴロゴロと上から転がってくるような異様な騒音が聞こえてきた。
「な……っ」
それが、アンの部屋の暖炉から繋がる煙突から聞こえてくるのだと気がついた時には、もう遅かった。守るべきは、エドワードだったのに!
恐怖心から、アンは慌てて椅子を立ってしまった。
ゴロゴロゴロ……ドドーン!!
アンは春が好きだ。
いい陽気が続くし、草木は美しいし、面倒で大嫌いな暖炉の世話をもうしなくていい。だから、アンの暖炉は冬に使った薪とその燃えかすが灰となって、こんもりと山を作っていた。
そこに、大きなモノが落ちてきた。
とても大きなモノが。
まさか煙突から落ちてきていいはずがない、巨大な肉の塊が。
灰は爆風を受けたかのように勢いよく部屋中に飛び散った。細かくて軽い雪のように、目の前を舞う灰色の粉。一瞬、息ができなくなるほど曇った空気が辺りに蔓延し、アンは咳き込んだ。
「い……いったい……なに、が……」
涙目になりながら、惨事の起こった暖炉に向けて目を凝らす。もうもうと立ち上がる灰カスが目にしみた。
ゴホゴホと咳をしながら、どうにか暖炉に近づこうとしたアンは、火床の中でなにか黒い影がうごめくのを目撃した。
そして、暖炉の前に置いてあった火除けの衝立て網が、唐突にガシャンと倒れた。黒い影は揺らめき、野獣じみた不穏なうめき声を漏らす。
「……っ!」
信じられない光景だった。
信じるのを拒否し、回れ右をして、すべてを忘れてまたエドワードとの逢瀬を楽しむ自分に戻りたかった。ほんの少し前まで、アンはエドワードとふたりだけの世界で、世にも熱々の情事にふけっていたというのに。
アンは自分のほおをつねってみた。
痛かった。
この痛みは本物だ。つまり、アンの暖炉に落ちてきた、このうごめく巨大な黒い物体も本物だということだ。
「あー……あの、大丈夫……ですかし、ら?」
この物体が人間だという根拠はどこにもなかったが、アンはとりあえず人間の言葉でたずねてみた。動物だったとしても、彼らの言葉が喋れるわけでもないし。
すると、またしても、不穏でまがまがしいうなり声が黒い影から放たれた。
まるで悪魔のようだ。
多分、逃げるべきなのに、アンの足はその場に張り付いたように動かなかった。その間にも、火床に落ちてきた黒い巨体はゆらゆらと不器用に移動しながら、均衡を取ろうとするかのようにしばらく揺れていた。
それが。
ゆっくりと、しかし確実に。
アンに近づいてきて……。
曲がっていた腰をじょじょに伸ばしながら、黒い影は顔を上げた。
顔を!
人間だったのだ! しかも、男!
彼は、煤にまみれたその全身を、アンの前でまっすぐに伸ばした。なんという長身! アンの目の前にくるのは彼の胸だった。見上げないと、その頭部をうかがえない。
だからアンは顔を上げた。
愚かにも。
男は、美しかった。
いっそ気味が悪いくらいに、美しかった。
漆黒の髪は長く、肩まで伸びている。瞳の色はすぐにはわからなかった……黒のような気もするし、灰色のような気もする。でも、その鋭い輝きは、それだけで見る相手を呑み込んでしまいそうな眼力があった。
秀でた額と彫りの深い目元。
完璧という言葉がなによりも似合いそうな、高い鼻。官能を思わせる豊かな唇。
まさか。
こんな男性が。
本当にこの世にいるなんて。
「エ……」
アンは思わず呟いていた。「エドワード……?」
灰をかぶった美しい男は、眉ひとつ動かさずに冷たい表情でアンを見つめた。
「人間の分際でわたしに声をかけるとは、いい度胸だ」
低い……ともすると聞き取りづらいほどに低い声だった。その響きだけで周囲の空気を揺らすような、本物の低音。
なにも言えなくなり、アンは口をパクパクと動かしたが、逃げはしなかった。するとどういう訳か、男はそれに興味を持ったようだった。
「ほう……わたしの姿を見ても逃げないか。ますます悪くない」
男の片手がすっと、アンのほおに向けて伸びてきた。男の肌は灰をかぶってすすけた色になっていたが、それでも色白のアンよりずっと濃い色合いなのが見て取れた。
大きい手だ。
男性の手。
目をつぶることも、拒否することもできずに、アンは棒立ちになったまま美しい男の美しい手がほおに触れるのを許した。
「熱い」
男は言った。
アンはなぜかうなずいてしまった。
「わたしが恐ろしくないか……。くく、いい度胸だ、くくく……」
男の口調は、アンに向かって話しかけているというより、独り言をハキハキと喋っているような奇妙な響きがあった。まるで世界中が、彼のどんな無意味なひと言ひと言にも必死に耳を傾けるのが当たり前だと言わんばかりの口ぶりだった。
なぜ?
たしかに、そのくらい自意識過剰になっても不思議ではないほどの美形ではあるけれど。
なみなみならない自信に満ちた美しいその男は、ひとしきりアンのほおをなで終えると、ゆっくりと顔を近づけてきた。
わお。
き、きれい……。
じゃなくて! これは口づけというものになる流れでは? この男はわたしに口づけしようとしているの? この、アン・グレイスウッドに?
そして。
「あ……」
男の唇は遠慮や慎ましさを一切知らなかった。食むようにアンの口を侵略し、赤い跡がつきそうなほどきつく唇に吸いつき、舌で口内を深くまさぐる。
「ん……は、ぁ……ンア……」
その口づけに翻弄されながら、どのくらいの時間が経ったのか、さっぱりわからなかった。まるで、時の存在しない、この世ならざる空間に閉じ込められたかのようだった。
この男に触れられる以外の感覚が麻痺して、自分が立っているのか、座っているのか、そもそも呼吸をしているのかさえ定かではなくなる。
でも、それが心地よかった。
まるで高級なぶどう酒に酔っていくよう……。
「ふ……ぅん……」
甘い声を出して、うっすらとまぶたを開いた時だった。いつのまにか腰を抱えられ、立っている方向をくるりと変えられていたようで、視界に飛び込んできた光景がさっきとは違った。
今のアンに見えるのは……。
「ぎゃーーー!!! エドワードぉぉぉぉ!!!!!」
アンは絶叫した。
筆記机の上に、ひっくり返ったインク瓶で真っ黒になった原稿の山があった。アンとエドワードの逢瀬が。計860ページにおよぶ涙の超大作が。アンのここ4ヶ月の努力の結晶が。
未来の飯ダネが。
全部、真っ黒になっていた。
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