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(35)おやすみ!

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 こつん、と鼻の先がギーズの鼻に触れた。

 ああ、そうか。
 唇にキスをするときは、真っ直ぐに顔を近付けると鼻が当たってしまうんだな。
 とすると、こんな感じで少し顔を傾ければ……

「…………な、何をしているんだっ!」

 ぐい、と体を押された。
 ギーズが押したのだと気付いた時には、僕はバランスを崩して後ろに倒れそうになった。
 でもぐらりと大きく傾いた次の瞬間、ギーズががっしりと背中に腕を回して支えてくれていた。

「あ。ギーズ、ありがとう」

「いや、そもそも倒れそうになったのは、俺が加減をせずに押してしまったから……いや、そういう問題ではなかった。お前は何を考えているんだ!」

 途中から怒ったようになった声は、いつもより大きい。
 でも僕を支えてくれた太い腕は、真っ直ぐに立たせてくれてから、慎重に離れていった。
 何だか、ひどく動揺した顔をしている。
 でも同時に、僕がまたバランスを崩さないかと心配そうに見ている。
 ギーズは優しいな。
 思わずにっこりと笑うと、ギーズは一瞬動きを止めて僕を見つめ、でもすぐに目を逸らした。
 それから何度も咳払いをしてるけれど、まだ違和感があるのだろうか。

「……俺の気のせいかもしれないが、お前、今、俺に……その……」

「ああ、うん。キスをしようとしたんだけど、唇へのキスは難しいんだね。鼻が当たってしまったよ」

「セレン!」

 また、ギーズがものすごい勢いで僕を見た。
 そんなに驚くような事だったかな。そう言えば僕はギーズにキスをした事はあっただろうか。幼い頃はした事がある気がする。
 でもすでに背が高かったギーズの顔にキスが届いただろうか。
 そう考えると、いつもギュッと抱きついていただけのような気もするし……。

「ねえ、ギーズ。僕は君にキスをした事、あったかな?」

「は、はぁっ?」

「まあ、リザにはした事があるから、ギーズにも何度かしているかもしれないかな。さっきのことなら、ギーズの顔が何だか寂しそうに見えたから、少しでも慰めてあげたいなと思って……」

「な、慰めるっ?! いきなり何を……っ!」

「僕が落ち込んでいたとき、リザは抱きしめてキスをしてくれただろう? だからギーズにもキスをしてあげたいなと思ったんだ」

 そう説明した途端、半分腰を浮かしていたギーズがぴたりと止まり、目と口を大きく開けて僕を見上げた。
 何だか呆然としている。
 何度も何度も瞬きをして、それからどさりと座り込みんで口を動かした。

「……お袋……?」

「うん。リザみたいにすっぽり包み込むのが一番いいんだけど、ギーズは僕より大きいし、腕が回りそうにないだろう? だからせめてキスだけでもしてあげたくなったんだ」

「…………そんな意味だったのか? は、はは……そうか、そうだったのか……そうだよな、セレンだからな……はは……俺はバカか……」

 ギーズは虚ろに笑い、椅子の背にぐったりと体を預けてしまった。
 食卓用の椅子は、それでも軋む事はなかった。
 見かけはわりと瀟洒なのに、とても丈夫だ。いい腕のいい職人が作ったのだろう。
 しばらくぼんやりと天井を眺め、それからギーズは引き攣り気味の笑顔で僕を見上げた。

「俺を気遣ってくれたのは嬉しいが、驚くからいきなりはやめてくれ。俺の理性が飛んだらどうなると思って…………いや、待て。なぜ唇を狙ったんだ?」

 ふと気付いたのか、ギーズの顔がまた強張った。
 なぜと言われてもねぇ……。
 改めて聞かれると、ちょっと照れくさいな。
 僕はほんのりと頬を赤らめて、ギーズから目を逸らした。

「だって、頰にキスなんて子供みたいじゃないか。それに……うん、ちょっと好奇心が勝ってしまって。ごめん」

「好奇心……」

 ギーズは低くつぶやいて、またぐったりと椅子にもたれかかった。
 目を閉じた顔は、何だか疲れ切った表情になっている。
 そう言えば、ギーズは僕のことを心配して、本来の予定を変更して早く帰ってきてくれたんだったな。

「ギーズ」

「なんだ?」

 僕が声をかけると、ギーズは目を開けてくれた。

「昨日のこと、黙っていてごめん。君を巻き込みたくなかったんだ」

「ああ、わかっている。お前が無事でよかった。もうそれだけでいい。そう納得している」

 すぐ横に立っている僕に、ギーズは笑ってくれた。
 本当は納得していないはずなのに、僕の前では笑ってくれる。
 ギーズは白眼が多い三白眼で、そのせいで目の鋭さが増して見えると怖がる人は多い。でも、僕に笑いかけてくれるギーズの顔は本当に優しくて、僕も思わず笑い返してしまう。
 ギーズは僕を見つめ、そっと僕の頬に手を当てた。

「騒いで悪かったな。……今日は初めての料理で疲れただろう。もう休んでくれ」

「うん。そうだね」

 そうだった。僕も確かに疲れていた。
 でも、包丁を使う事は楽しかった。
 次はもう少し手早く作業を終えることを目標にしよう。

「ギーズ」

「ん?」

「瞼に何かついている。目を閉じてくれるかな」

 そう言うと、ギーズは何の疑問も持たずに目を閉じてくれた。
 鋭い水色の目が見えなくなると、ギーズの顔立ちの良さが引き立つ。そのことに気付いたら、きっとギーズはきれいで可愛い女性たちにモテてしまうだろう。
 目の近くにもある傷跡が痛々しいけれど、それも女性の心をくすぐるかもしれない。

 僕はそっと手を伸ばした。
 ギーズが目を開けないように瞼に指を当てる。
 戦闘なんかでは、目は一番に狙われるらしい。なのにギーズは僕にこんなにも簡単に触らせてくれるんだ。
 この信頼感が、とてもくすぐったくて心地良い。

 僕は素早く顔を寄せた。
 今度は用心深く顔を傾けて……唇にキスをした。

「………………なっ?!」

「おやすみ!」

 ガタンを大きく椅子を動かして後退ったギーズに、にっこりと笑いかける。
 残念ながらギーズの返事はなかったけれど、僕は楽しい気分で二階の部屋へと戻っていった。
 ギーズの唇は、やっぱりとても柔らかかった。
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