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(25)これは何の余興かな

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 何を言っているのか、全てを理解したわけではない。
 でも、さっきのルーゲリット侯爵夫人と同じ、いやそれ以上に強い欲望を向けられていると分かってしまった。

「あの女、どれだけの金額を囁いた?」

「……指輪をくれると……」

 怖気を隠したくて、僕は正直に言った。
 スロイデン伯爵は大袈裟に眉を動かして、ふむと考え込んだ。

「では、私は毎日お手当をあげよう。私の屋敷に長くいれば、すぐにあの女の指輪を超える金額になるだろう」

 そう言って、一日の金額とやらを僕の耳元で囁いた。
 単位はもちろん金貨で、市場で様々な物の値段を知った僕が息を飲むほどの金額だ。
 それをいい兆候と思ったのだろう。
 伯爵は僕の腕を軽く引っ張った。

「もっと詳しい話をしようか。私の屋敷に来なさい。今日は話をするだけでもいい。それだけで半額を用意してあげよう」

「……いや、僕は……」

 一瞬でも心が揺れたことを後悔しつつ、僕は首を振った。
 でも僕の腕を引っ張る力は予想以上に強く、僕はよろけながら立ち上がってしまった。途端に、伯爵の従者がすすっと近付いてくる。
 これは、よくない。
 咄嗟に手を払い除けようとしたけれど、いつの間にか僕の背後に来ていた大柄の従者が僕の肩をがっしりとつかんだ。

 しまった。
 僕は周囲に目を向ける。
 飲み物屋の店主が青ざめながら僕を見ていたが、相手が護衛を連れた貴族なので声を挟めずにいる。
 他の店も同様で青ざめたり、目を逸らしたりしている。でも、慌てて走っていく人もいたから、クロンを呼びに行こうとしてくれたようだ。

 でも、これは間に合わない。
 必死に暴れようとしても、僕は非力すぎるし体重も軽すぎた。
 少し離れた場所から馬車が近づいてくるのが見えた。馬車はすぐ近くに止まって、無表情な従者が扉を開けた。
 ぽっかりと暗い空間が広がり、僕は背筋に冷たいものが落ちていくのを感じた。

 周囲の店先で、顔をこわばらせながら拳を握ったり棒を握り締めたりしている人が少しずつ増えている気がする。
 僕を気遣ってくれているのはわかる。ありがたいと思う。
 でも、庶民が貴族に手を出すと……大変なことになってしまう。

 このままではどう転んでも良くない。僕が不甲斐ないばかりに、こんな事態になってしまった。この場をおさめるために、僕は笑顔であの馬車に乗るべきだろう。
 自分でも血の気が引いているのがわかる。でも、僕が覚悟を決めればいいだけだ。……これでも僕は貴族として不自由なく過ごしてきた。だから善良な庶民を守る義務がある。
 セレンドル。弱虫め。さっさと覚悟を決めろ。
 伯爵は周囲の緊張に気付かず、青ざめる僕をうっとりと見ていた。




「おや、これは何の余興かな。スロイデン伯爵」

 すぐ近くで、場にそぐわないのんびりとした声がした。
 スロイデン伯爵が眉を顰めて振り返る。がっしりと肩を押さえられている僕は、目だけでそちらを見た。
 そこに立っているのは、クロンではなかった。
 もちろん近くの店の店主たちでもない。

 すらりと背が高い男性で、一見地味な服を着ていた。
 でもよく見ると布は極めて上質で、指には控えめだけど美しい指輪があった。耳にも飾りをつけているのは、貴族らしい装いだ。
 お忍びと言うより普通の散歩という感じの装いで、ずいぶんと軽はずみにも見えかねない。

 でも腰に帯びた剣を見れば、物騒な人間でも不用意に絡もうとは思わないんじゃないかな。
 そのくらい剣が体の一部のように馴染んでいる。
 それでいて、微笑んでいる顔は思わず見入ってしまうほど整っていた。左の目尻にぽつりとある黒子や、長いプラチナブロンドも彼の容姿をひきたてていた。

 息を潜めていた周囲の視線が、このきれいな男性に集まっていた。
 そういう視線を当たり前のように受け、肩を押さえられている僕の前に立った。
 スロイデン伯爵は顔をこわばらせた。

「……邪魔をするおつもりか?」

「うーん、まあ、そうだね。僕の目の前で治安を乱すようなことをされると、私の職務的な立場では見逃すわけにはいかないんだよ。その辺りは察してもらいたい」

 プラチナブロンドの男性は、笑顔で僕の腕をそっとつかんだ。
 特に力を入れたようには見えないけど、軽く引っ張られた僕は簡単に彼のところへと動いていた。
 肩を押さえていた手は、あっさりと外れたようだ。
 僕は自由になった。

「さて、スロイデン伯爵はどうする? 力づくで動くかな?」

「……まさか。あなたのことだ。どこかに護衛はいるのでしょう」

「どうだろうね」

 プラチナブロンドの男性はにっこりと笑った。
 その笑顔をにらむように見ていた伯爵は、小さく舌打ちをして一人で馬車に乗り込んだ。
 従者たちも速やかに馬車の前後に座り、馬に鞭が入った。
 頑丈そうな馬車は、あっという間に走り去っていった。



「いや、あっさり引き下がってくれてよかった。私は荒事は苦手だからね」

 プラチナブロンドの人物は、のんびりと笑った。
 恐ろしいほどの美貌に合わない呑気な笑顔に。周囲の雰囲気も和らいでいる。
 僕は心からほっとした。
 それから襟元が歪んだ服を整え、助けてくれた人に恭しい礼をした。

「助けていただいたこと、心より感謝いたします。……ドリュー公爵閣下」

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