翠の子

汐の音

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6章 掌中に収まらぬ宝

81 降臨する風の王

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 翔ぶ。

 ほんの細い隙間でも関係ない。意思と力を乗せた魔法そのもの。自由になった風精は天井に穿たれた穴をくぐり抜け、空高く舞い上がって行った。

 街を。ひとを。
 つぶさに見下ろせる宙のさなかにあって、解放感よりも心を占めたのは翠の子と魔術師のこと。
 彼女らは、今、とても切羽詰まっている。
 なのに救い出してくれた。自分だって返したい。助けたいのだ。

 力を分けてくれたのは稀有なるエメラルド。命を宿す極上の宝石。
 翠の息吹き――まさにそう呼ぶべき、新緑の木漏れ日のようにきらきらしい光。耀ががやきだった。

 からだ、と呼んでいいものだろうか。身に光がこぼれんばかり。その全てが金の燐光を放つ澄んだ緑だ。

(すごい)
 いまや思念する個体となった風精は、ぐんぐんと高みへと上昇する。
 駆けて、駆けて、空の一点へと集約するように。吸い上げられるように。


 ――――行って、とあのひとは言った。
 空の極みまで、と。

 地に生きるものや他属性のものでは、決して辿り着けないだろう。が、動く大気そのものである自分ならば易々と。

 風の少年は正しくスイの意を汲みとり、『界を隔てる壁』をすり抜けた。ひたすら望む場所へと、音のない世界を突き進む。
 物理ではない壁に阻まれる大気の精霊エアリエルなどいない。じわじわと、心に誇りが戻ってくる。満ちあふれる。そのことが、叫びたくなるほど嬉しい。

 うねる大気そのもの。原初からのエネルギーを変わらず湛えるものの一つ。みずからを生み出したその場所へと。

 少年はあらん限りの力を振り絞り、叫ぶように言葉と『声』を織り成した。


“我が王! 伝言メッセージです。地上の、始まりの息吹をうちに抱える魔術師から貴方へ。大至急!”



 ――――……

 ほう? と。

 存在は渦をなしたまま、意識をちっぽけな風の子に向けた。

 気まぐれを体現するかれに、彼女のルーンは正確に届いた。
 軽く面白がる気配。紛れもない興が乗る。

 ――それほどまでに、彼女は特別。

 普段、可視の姿をまとわぬ存在があえて形をとり、『たまには古き地に顔を出してもいいかな』と、ちらりと思える程度には。



“わかった。いいよ”

 存在の古さと真逆の若々しさで、かれは、あっさりと応えた。



   *   *   *



「来る」
「え?」

 端的な呟きに、彼女の突拍子のなさには最も慣れているだろう少年が機敏に問うた。が、二の句を継げずに押し黙る。

(なんだ……?! これ?)

 来る。迫る。
 確かにそうとしか表現できない。寒気にも似た畏怖に潰れそうになる。重い。
 圧縮された緊張のなか、人間と元人間は等しく不安そうに天井を仰いだ。スイだけが動じず、しずかに立っている。

「隙ありっ」
「!」

 エメルダはアナエルの手を打ち払い、すばやくスイの背へと逃れた。白い外套の腰の辺り。しがみつくように繋がっている。

(おいおいおい。まさか、本当に壊すなんてこと……?)

 ごく、と喉を鳴らした。
 次の瞬間。

 セディアの内心は、ものの見事に反映された。
 ミシッ……と、穏やかでない音。天井の中央が錯覚のようにたわむ。




「!!!」
「来い、キリク!」

 咄嗟に、目の前の金茶の頭を引き寄せた。
 両腕で庇う。ぎゅっと力任せに抱きすくめ、自身も目を瞑る。


 死を覚悟するほどの轟音。
 容赦ない一撃だった。咆哮にも似た音が響き、ビリビリと空気が震える。足場は崩れていない。

 どうやら被害は最上階のみ。遠く、外の地上で硝子が砕ける音がした。人びとの悲鳴や怒号、どよめきが潮騒のように伝わってくる。
 
(くっそ、まじか。誰か……、誰も死んでくれるなよ。頼むから、俺らの代わりに潰されてんじゃねぇぞ……!?)


 間違いない。
 スイの魔術によって引き起こされた惨事だ。それほどの局面だったことは否めないが、心に暗雲が広がってゆく。
 たとえ、精霊の乱獲の上に築かれた繁栄だったにせよ、――街が。無辜むこの民が。

「ぐっ……ぅぅ……!」
(?)
 つい、力を込めすぎたせいだろうか。
 キリクがくぐもった呻き声をあげている。みずからを包む柔腕に手をかけ、必死に抜け出ようともがいている。

「セ……ディア、さんっ!? あああの、息が……く、苦しいです!」
「あ。わりぃ」

 ぱっ、と手を放すと、ひどく赤面したキリクに涙目で睨まれた。
 そうかそうか、そんなに窒息しそうに……――と、一瞬だけ思ったが、落ち着いて自分の体を見下ろすと女体だった。なるほど。

「ほんとに悪かった。わざとじゃない」
「……~~なッ!?」

 妙にきっぱりと言い切られ、キリクは余計に動揺を走らせた。相手の中身が男だと十全に理解すればこそ、痛恨の極みだろう。かわいそうに。

「えっとな、この体――」
「あぁぁああ、もう!! それ以上っ! お願いだから言わないでください、いいですね!?」
「あ、はい」

 少年の渾身のぶった切りに、セディアはそれ以上釈明できなかった。
 ……おかしい。庇ったつもりなのに。

 耳まで赤くしたキリクは眉間を寄せたまま、ぼそぼそと礼を述べた。

「助けようとしてくれたことは、本当に……すみません。ありがとうございます」

(お?)
 片眉を上げたセディアが、ふっと微笑む。


 外と塔の現状は未確認。
 だが腕のなかと背の恋人、娘のような少女が無事ならば――と、とりあえず気を緩ませた。

 まだ、小さな破片がカラコロと降ってくる。砂塵の名残は収まらず、それでも、誰も痛みの声は発していなかったので。

 『どういたしまして』

 そう告げようとしたとき。
 柔らかな風圧ときらびやかな声が、一行の頭上に降り注いだ。


“喚んだ? スイ。久しぶり。嬉しくってさ、おれ、超特急で来ちゃったよ”



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