翠の子

汐の音

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5章 二つの魔術

59 単騎の逃亡者

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 街道から外れた明るい森。
 細い白樺が密集している、そのさ中を。

 
 ザッ、ザザァッ…………!

 迫る幹をけ、落ち葉を蹴散らし、倒木を跳び越えて疾走する駿馬の姿があった。


 単騎だ。
 全身の筋肉が、うつくしい毛並みの下でしなやかに動いている。地を蹴る蹄の音は軽やかで力強い。
 馬は障害物など何もないように、飛ぶように森を駆けたが、騎乗する人間にとってはその限りではなかった。
 もう、何度もあちこちの茂みや張り出した枝に上体を。油断すれば頭部や顔を引っ掛かれる惨事に見舞われている。
 かれこれ、逃げ始めて二十分は経ったろうか。

 (……くっ!)

 パシィッ、と細枝に弾かれ、額にうっすら傷が付くと同時に外套のフードをはね上げられた。
 弾かれたように溢れる、ほの暗い赤毛。
 ゆるく波打つそれは、木漏れ日の差す緑陰にあざやかに映えた。
 切迫した状況下なのが惜しまれるほどに。


「うっ! 痛……つつ。ろくでもないな……」

 ちょっとした不満が呟きとともに漏れ出る。ブルルゥッ……!! と葦毛の馬が、それに苛立たしげに反応した。

 心持ち上半身を伏せ、馬体にしがみつくように彼女――牝馬なので――を走らせていた青年は、甘い容貌に苦笑をたたえ、ごく軽い仕草で馬首を叩く。
 まだ、断じて止まるべきではない。あくまで労いの意味だ。

「すまない、秋雨しゅうう。もう少し堪えて。困ったことに私一人になってしまった」

 返事はない。当然だ。
 青年は再び前を見据え、キッと視線を険しくした。額がじんじんと痛むが、今はどうでもいい。

 (油断……したつもりは無かったんだが。随従のほぼ全員がとか。普通、ないだろ……)

 紛れもない悪態。それは、胸のうちで遠慮なくこぼれた。

 最寄りの港湾を抱える東の隣国に、新王即位の式典に呼ばれた。ついでに今後の船舶入港税だの、輸出入の関税だの魔術師をもっと寄越せだの、さんざんな言い分を適当にあしらって来たのだ。
 不躾な物言いにもにこやかに応じ、ケネフェルの王太子としての務めはきっちり終えた。守るべき一線も維持してある。
 あとは帰国するだけ――の、はずだったのだが。

 ヒュウゥッ……


「!!」

 くうを裂く音。
 ぞくり、と耳朶を掠めた矢羽根の感触と鋭い痛み。

 後方から放たれた矢は、青年よりわずかに左側に逸れて通過し、前方へと抜けて行った。

 タァンッ! と、妙に間延びした音。それが、さらに複数。
 馬上からざっと視線を走らせると、周囲の幹にいくらか矢が生えていた。

 ――まずい。追い付かれた。連中の馬、一体どうなってる……!?
 まさか現地の民まで雇い入れたかと、焦燥に胸が沸き立つ。後方から迫るのは明らかに複数の馬蹄ばていによる振動。
 さながら、猟犬に追われる鹿だ。この際、白っぽい葦毛あしげの秋雨は格好の的だった。

 彼女に当たりでもしたら。

 (終わりだな)
 淡々と可能性を胸中で反芻はんすうしつつ、青年は諦めずに愛馬で駆けた。
 が、その背にまさに、一本の凶矢が届こうとした――――瞬間。


“風の子! 遮って!! !!”


 森の上空、進行方向で突如、真っ白な光が生じた。
 さえざえとした、音のない爆発のごとき閃光。青年は躊躇せず手綱を引き、思わず目を瞑った。
 馬も竿立ちになり、戸惑うように嘶いたがすぐに落ち着いた。ひらり、と鞍から降り、念のため「どうどう」と宥めてやる。


 常ならば、追手から逃れる最中の急停止など自殺行為でしかない。

 が、経験上知っていた。
 この声。この光。このタイミング。
 ――間違いない、、と。

「助かった……ありがとう秋雨。少し休んでて」

 自分でも驚くほどの疲弊感を滲ませた声で愛馬をいたわり、青年――フランは「もしも」に備え、抜剣する。鋼と鞘のこすれる硬質な音が辺りに響いた。

 先ほどまでの馬群の轟きが嘘のように、後方からは時おり『うぎゃあっ!』『わあっ! ……助け……あぁっ!!』など、あられもない男どもの悲鳴が聞こえたが、それもすぐに鎮まる。

 息を殺し、待つこと三分。

 ――さく。さく、パキン!

 枯れ葉や小枝を踏みしめるささやかな音が一転、森へと染み渡った。

 おそらく、わざと気配を隠さずあゆんでいるのだろう。佳人にふさわしいその足音は優しげで、朗らかですらある。荒事のあととは到底思えない。

 フランは改めて、ふー……っと息をつき、肩を降ろした。速やかに、使わずに済んだ剣を元通りに納める。

 やがて、こんもりとした藪の影から長靴ちょうかに包まれた華奢な爪先が見えた。
 次いで、女性らしいドレープを控えめに描く白地に紫の縁取りがなされた長衣。白い外套。


「や、フラン王子。遅くなってごめんね。少し、ごたついちゃって」

 飄々と語る耳触りのよい声。靡く黒髪、紫がかった黒瞳。
 ――学術都市の、栄えある特級魔術師の姿がそこにあった。

「いいえ。いつもありがとうスイ。お陰さまで、今日も助かりました」

 黙っていれば美女そのものの魔術師に救われた王太子フランは、額に浮かぶ汗も爽やかに。
 晴れやかに、にこっと人好きのする笑みを浮かべた。
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