翠の子

汐の音

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3章 人の子の禍福

37 炎の司

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 流砂の断崖を抜け、一行は再び通路を奥へと進む。
 左右の岩壁や天井は、わずかに紫を帯びた藍色。ほんのりと星を閉じ込めたようにまばらに金砂きんしゃの輝きを放ち、足元は仄かに白い。
 道は平らに均されており、初めて訪れた三名でも足運びに不安はなかった。

 そういえば――と、女性のわりに響きの低い、けれど柔らかな声が響く。
 スイは、つ、と視線を左下に流した。

「昨日は自然霊アニマについて話したっけ。エメルダ、覚えてる?」

 やさしい黒紫の視線の先。
 魔術師の隣を嬉々と独り占めする翠の少女は、師を仰ぎ見てにっこりと笑う。

「もちろんよ。キリクを取り合ってた、あのろくでもない樹の乙女ドライアド達でしょ? 今ごろ、あのお爺さん精霊にぽっきり折られてるのよね」
「これ、あまり物騒なことを言わないの。
 でも……そうだな。かれならやりかねないか。嬉しそうに『有言実行』とか言ってそうだ……」

 きょとん、とキリクは目をしばたいた。

「? 僕は初耳です。アニマって何です?」
「あー、そっか。キリクはあのとき気を失ってたもんね」

 エメルダは心持ち、しょぼん、と眉と肩を下げた。察したスイが、翠の頭をそれとなく撫でる。

「貴女はちゃんと頑張ってくれてたよ、エメルダ。ありがとうね、キリクを護ってくれて……あれは本当に、ちゃんと注意を促さなかった私がいけなかった。
 ――で、自然霊アニマについてだけど」

 スイを挟んで左にエメルダ、右にキリクが追い付いた。いつもの配置になったところで中央の女性が頷く。

「これから会いに行く、それぞれの“力の司グレートエレメンタル”から派生した精霊の総称でね。人の子にも見えるもので、原初の自然をしろにしてる。
 かれらとは、言語ルーンを用いたとしても意志の疎通は難しくてね……人の世でもあるだろう? 言葉は通じるのに話が噛み合わないってこと。状況としてはそれに近い。そもそもの価値観が違うんだ」

 (あぁ……うん、あるな。そういうこと)
 (たまに、お師匠さまにも言えますけどね。それ……)

 青年と少年が同時に瞑目し、それぞれの理由で頷いた。実にわかりやすいたとえだった。

 背後と右隣の微妙な空気には一切触れることなく、スイは歌うように講義を続ける。

水の乙女ウンディーネは受動的。思い込みが激しいから、優しくしないように。
 樹の乙女ドライアドはとにかく貪欲。捕まると、間違いなく養分にされる。
 森の守り人トレントはもう少し話がわかるひと達で、自然霊のなかでも中級精霊。
 森の最長老グレートトレントはかれらを束ねる古木の精で、年輪と共に位を昇華させた、ほぼ上級精霊。“地の司アーシィ”にとっては話が合う、高度な眷属けんぞくじゃないかな」
「私達は? 宝石は地に属するよね。“地の司”の眷属?」
「そう。基本的には」
「……と、いうことは応用もある?」

 それまで黙って耳を傾けていたセディオが、ふと口を挟んだ。
 ちらり、と後ろを振り向いたスイは黒紫の視線を流す。

「そう。……続きはこの会見のあとにしようか。皆、下がってて」

 ぴた、とスイの足が止まる。
 二人の弟子を左右の手で止めると、セディオのところまで退かせた。

 ―――何もない、がらんとした行き止まりの空洞に見える。
 が……


“顕現せよ 慕わしき火の主にして 炎の司 ……【サラマンディア】”

 朗々と声を張る魔術師。
 しゅうう……と空気が動き、だだっ広い空間の中央に集まる。密度が濃くなる。

 その一点に、ボッ! と、突如火が灯った。
 火は瞬く間に色を変え、オレンジから青、やがて一瞬だけ白に至り―――紅蓮の炎となって膨れ上がる。

 炎の塊を取り囲むのは、輝く黄金の光。吹き付ける熱風にスイの黒髪と白い外套がはためいた。
 揺らめく陽炎かげろうにセディオは青い目をすがめる。しかし一瞬あと、フッ……と圧がかき消え、肌をひりひりと灼いた熱が遠のいた。

「? これは……《防護》の魔術か?」

 いつの間にか、眼前に薄蒼く光る膜が張っている。謎すぎて触れられないが、ざっと視認する限り、どうやら半球を伏せた形らしい。
 それがセディオとキリク、エメルダの三名を周囲から完全に隔離し、舞い飛ぶ火の粉や熱波から守ってくれている。

 ――――スイ自身には、見たところ使というのに!

 深紅の鱗、質量たしかな重圧感。優美でありながら、荒々しく燃え盛るもの。
 空洞を埋め尽くすほどの巨大なドラゴンが、フシュゥゥ……と、熱そのものの吐息をこぼす。

 伝説の火龍とも、サラマンダーとも呼ばれる炎の司。紛うことなき世に唯一の「それ」が一行の前で具現化している。

 かれは楽しげに挨拶がわりの赤金の炎を宙に吹き上げ、そこかしこで華のように舞い散らせた。
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