翠の子

汐の音

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2章 学術都市へ

18 “失われた言語”を歌うもの

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 近い山肌の傾斜は高く、朝陽はもう少し昇らねば街の全容は照らせないだろう。
 朝靄あさもやのなか、既に街は目覚めている。あちこちの家屋で煮炊きの煙が上がり、軒先を掃き清める者などは時おり、晴々とした顔で縮む影と明るさを増す日向ひなたを見つめていた。

 未明――というほどでもない朝方。職工の街の門をくぐり抜け、「おつとめご苦労様」と早番の兵士に声を掛ける女性の姿があった。
 白いフードからつややかに溢れる黒髪――スイだ。

「お。あんたか。どうだ? 目当ての品はうまいこと細工してもらえたか?」

 親しげに会話を繋げる兵士はよく見ると、街に入る際も検問を担当していた男だった。
 スイは、にっこりと答える。

「おかげさまで。いい細工師と出会えたよ。あの時は親切にありがとうね」
「どういたしまして。また来なよ。出来たらその時も、おれが担当ならいいんだけど…」
「――お師匠さま! 荷物持ちましょうか? 立ったままだと重いでしょう?」

 兵士の台詞は、突如響いた幼い声によって一刀両断にされた。
 白い外套の影からひょこっと紺色のフードを被った金茶の髪が覗く。相変わらず気が利く子だな…と、スイは微笑んだ。

「平気だよキリク。君もたくさん抱えてるし…そろそろ行こうか。じゃ、兵士さん。またね」
「あ……あぁ。その、街道は定期的に正規の騎士団が巡回してるが道中気を付けて。
 お弟子どのも。別嬪で優しいお師匠さんでよかったな。がんばれよっ」

 一瞬、黒髪の美女の微笑みに見とれていた兵士は、辛うじて職務上の言葉を思い出した。照れを隠すように、弟子の少年にもあわてて一言添える。

 美女はにこっと笑み、ひらひらと手を振ると「ありがとう」と、軽く応えつつ背を向けた。
 傍らで妙にしっかりした表情の少年が、ぺこり、と兵士に一礼して、先をゆく背を追いかける。

 



   *   *   *



「……もう、いいかな」

 街道をいくらか進み、脇に逸れて人気ひとけのない森に入ったスイは、失われた言語ルーンでそっと呟いた。

“光の子、風の子。隠れんぼはもうお終い。ありがとう”

 すると――――

「……ぅぷはぁっ! 黙ってるの、つらかった! ねぇス……じゃない、師匠。すごいね、師匠はお願いできるのね?」

 賑やかなお喋りとともに、翠の少女が姿を現した。その隣には、長身の小豆色の髪の青年が驚いた表情で佇んでいる。
 二人とも旅装だ。少女はスイとよく似た白っぽい外套で、今はフードを下ろしている。青年は薄い灰褐色の外套で、きちんとフードを被っていた。

 きらきら……と、二人の頭上から見えないベールを取り払うように、二色の光の粒子がほどけてゆく。
 金色の光はその場で淡く融けて、緑色の光は一陣のゆるやかな風とともに立ち消えた。

 ―――光と風の混合魔術《隠遁いんとん》だ。

「見事なもんだな……さすがは、学術都市の魔術師さま、か」

 未だ、どこか呆けた様子のセディオが心からの感嘆を込めて溢す。スイは、ふふっと笑いながら一同を手招きした。

「?」
「いいから、こっち来て。はやく行きたいんでしょう?」
「え? あぁ。そりゃそうだけど……?」
「セディオさん、そこ空いてる? わたし、師匠の隣がいい」

 すたすた、と翠のふわふわ頭がセディオの腹の辺りを横切った。そのままスイの左手を握る。それを見たキリクも少し慌てて走り寄り、たおやかな師の右手をとった。

「何だかわからないが……手を繋げってことか?」
「そう。キリク、エメルダ。セディオの手をとってあげて――うん。輪になった? よし始めようか」

 陽のささぬ、薄暗い森のはずだが黒髪の魔術師の周囲には白い微かな光が瞬いている。一つ、二つ……輝きの数が増えるたび、スイの双眸はあざやかな紫色に染まった。

 しん、と森の獣たちの気配が消え、小鳥の囀りもかき消える。
 刺さるほどの、静寂。

 (…………!!)

 セディオの腕に鳥肌がたち、背筋が総毛立った。思わず、ぐっと目を閉じる。
 寒くはないが、迫る怪異に五感が追い付かない。視角を塞いだ青年の耳に、朗々と歌うような声が届いた。
 いつもと変わらぬ、高すぎず低すぎない、スイの甘い声。……しかし、決然とした厳かな意思と、どこかあふれるような慕わしさに満ちている。

 知らず、セディオはこうべを垂れた。
 なぜかはわからない。
 


“……到れ。我ら精霊との約定に従いて―――《開門》、《学術都市》へ!”


 白い光の名残は、すうっ……と空へと登り、ほどけてしまう。
 音もなく、四人は風景から切り取られた。
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