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めぐる春の章
11 弓勝負
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薪能の舞台を思わせる板間に人物が現れたとき、集まった客人達は示し合わせたように口をつぐんだ。しん、とした空気におごそかな緊張が満ちる。
(律君と……律君のおじいさん?)
いわゆる紋付き袴。男子の、和の正装だ。二人とも右手に専用の手袋をはめ、竹製らしい弓。やがて喜恵が中庭に現れ、簡単な言上を述べた。
想像どおり律と律の祖父は、これから射比べをするらしい。矢はそれぞれ三本。的中した矢の本数で競うとのこと。
弓道の試合は、残念ながら見たことがない。
また、これがそういったルールにどれだけ則ったものかもわからない。
それでも長弓を携え、腰の矢筒から白い矢羽根を覗かせて進むさまは見ごたえがあった。
たとえるならば、足運びや礼、方向転換に至るまで、凛とした振る舞いと一律の動作は能役者のよう。或いは雅楽の奏者。
楽の音はいっさいなかったが、かれらの動きは独特で、一種、極限まで無駄を省いた音楽じみていた。
「――生意気だな。普段の三割増しに男振りが上がってる」
ぼそっ、と、隣に立つ湊にしか聞こえないような小声で呟く篁に頬が緩んだ。同じくひそひそと返す。
「知りませんでした? 律君は格好いいんです。もてもてなんですよ」
「……何それ。のろけ?」
腰に手を当て、若干挑むような目線でこちらを伺う篁からさりげなく距離をとる。
いいえ、たまたま、女の子から絡まれたところに居合わせて……という弁明(?)は、声にならなかった。代わりに「あ」と口を開けて焦点は逸れる。弓場へ。
――まぁ、始まるわ
――篤志さんったら。見て、張り切っちゃって。
――そりゃあ、たったお一人のお孫さんと一緒なんだもの。すてきねぇ。
さわさわと、辺りにそよ風のような軽やかさで話し声が漏れる。が、それっきり。誰もが釘付けとなった。
右側でライトアップされた的に向かい、板間の端に進み出る射手が二名。手前が灰白髪の男性。律は後ろ。
両者、す、と左腕を黒い紋付きから抜いてはだけさせたので内心驚く。
胸から肩、腕の素肌がさらされて、そういう作法なのだと思い当たるものの、どうかすると見てはいけないような気がした。
瞬間、息をひそめる。
(!)
動く。
まずは律の祖父が右手の二本の矢から一本をつがえ、器用に連射できるような構えをしてから――――流れるように射た。
スタンッ
小気味よい音が鳴り、的に矢が刺さったのだと知る。しかし、矢よりも放った人物の余韻のような「型」に目を奪われる。
次は、律。
やはり同じような動作で弓を上げ、矢をつがえ……
スタンッ
吸い込まれるように的中。
空を切った鏃は遥か先へ。二射目も同様。両者まったく譲らず、素人目にはとんでもない奇跡が当たり前のような顔で繰り返された。若干、周囲に歓声が沸く。
湊ははらはらと見守った。
(あと一本……!)
いつのまにか、祈るように手を組んでいる。
三射目でも何も変わらないテンポ。よくよく見れば篤志のほうが動作に気負いがなく、鋭いのに優美さすら漂う。上段者で、律の師なのだろうか。漠然とした所感を残しつつ、しずかな気迫みなぎる律が弓を引いた。
その、矢は。
* *
「すごかったね、律君。三射的中……って、言うの?」
「ありがと」
あれからすぐに弓場を辞した二人は装束はそのまま、道具だけを置いて桜より手前にやって来た。中庭には拍手が満ちた。
律の祖父――篤志は気さくな人柄のようで、如才なく挨拶を返している。
発起人の律の思惑どおり、場は沸きに沸いて華やいだ。
ご婦人達がいっせいに二人を取り囲むため、頭しか見えない。
湊はそれを篁とともに、そっと遠巻きに眺めていたが、律は熱烈な労いへの返答もそこそこに、笑顔でこちらに走り寄る。比喩だがまばゆく、面映ゆい。
(あら、どなた?)
(呉服屋さんのかたと、男のひとはお友達ですって)
(まぁ珍しいこと)
(綺麗なかたねぇ)
奥様がたの絶妙な声量に一瞬だけ怯むが、顔はほころんでしまう。気づけば、素でにこにこしてしまった。それからなし崩しに篁と三名、飲み物を取りがてら屋内に逃げている。
喜恵も篤志もまだ、桜の側だ。
ビュッフェのようになっている室内はひとがまばらで、お手伝いらしき女性が数人ばかり。軽食をつまむほど小腹は空いておらず、とりあえずグラスにシャンパンを注いでもらって、壁一面の硝子窓の側に立つ。遠目に見える夜桜も圧巻だった。
細いグラスを手に見とれていると、ふいに「湊さん」と呼ばれる。
「はい?」
「来てくれてありがとう。着物、いつも以上に似合ってる。弓場からでも一目でわかった」
「そんなに? すごいね。今日は和装のお客様ばかりなのに。……あ、そうか。篁さんがいたから」
「いやいや、そうじゃなくて」
苦笑いの律が、なぜか偉そうに流し目を送る篁を同じく流し目で睨んでいる。仲がいい。
くすくすと笑う湊に、律は毒気を抜かれたような顔をした。ふっと、つられて笑む。
「湊さん。ひょっとして、うちの親族連中に遠慮して『あっち』まで行ってないんじゃない?」
「あっち?」
「垂れ桜」
「あぁ、うん」
――それはそう。
意気込んで来てはみたものの、なにかと目立つ篁を連れては初対面の女性陣とは話しづらい。さんざん注目を浴びるばかりで、肝心の桜には近づけなかった。それは、たしかに気がかりで。
「いいの?」
「勿論」
「なら、オレも」
「篁さんはここで休んでなよ。あ、おーい、吉野さん!」
「はいはい」
ちょうどそこへ通りがかった洋装の女性――家政婦の吉野をつかまえ、律が上向けた手のひらで篁を指し示す。
「このひと、ふだん男の独り暮らしなんだ。吉野さんの自慢の手料理、いっぱい食べさせてやってよ」
「え、ちょっ」
「まあぁぁ、そうなんですか? こんなに男前なのに。まぁまぁ勿体ない。ぜひ、食べていってくださいな。肉巻きと煮付け、どちらがお好み?」
「いえ、あの。……こら、左門君」
「何ですか」
手にしたグラスをやんわりと取られ、脇のサイドテーブルに置かれる。
次いで、ものすごく自然に右手をとられた。さりげなく湊の背に左手を当てて退室しようとする律に、けっこう本気で焦っているらしい篁がじわり、と圧を込めて声をかける。
「覚えとけよ、大学生。容赦しないからな」
「?」
怪訝そうに眉を寄せる湊とは逆に、律は悠然と微笑んだ。
「どうぞ。俺は、俺の最善を尽くします」
(律君と……律君のおじいさん?)
いわゆる紋付き袴。男子の、和の正装だ。二人とも右手に専用の手袋をはめ、竹製らしい弓。やがて喜恵が中庭に現れ、簡単な言上を述べた。
想像どおり律と律の祖父は、これから射比べをするらしい。矢はそれぞれ三本。的中した矢の本数で競うとのこと。
弓道の試合は、残念ながら見たことがない。
また、これがそういったルールにどれだけ則ったものかもわからない。
それでも長弓を携え、腰の矢筒から白い矢羽根を覗かせて進むさまは見ごたえがあった。
たとえるならば、足運びや礼、方向転換に至るまで、凛とした振る舞いと一律の動作は能役者のよう。或いは雅楽の奏者。
楽の音はいっさいなかったが、かれらの動きは独特で、一種、極限まで無駄を省いた音楽じみていた。
「――生意気だな。普段の三割増しに男振りが上がってる」
ぼそっ、と、隣に立つ湊にしか聞こえないような小声で呟く篁に頬が緩んだ。同じくひそひそと返す。
「知りませんでした? 律君は格好いいんです。もてもてなんですよ」
「……何それ。のろけ?」
腰に手を当て、若干挑むような目線でこちらを伺う篁からさりげなく距離をとる。
いいえ、たまたま、女の子から絡まれたところに居合わせて……という弁明(?)は、声にならなかった。代わりに「あ」と口を開けて焦点は逸れる。弓場へ。
――まぁ、始まるわ
――篤志さんったら。見て、張り切っちゃって。
――そりゃあ、たったお一人のお孫さんと一緒なんだもの。すてきねぇ。
さわさわと、辺りにそよ風のような軽やかさで話し声が漏れる。が、それっきり。誰もが釘付けとなった。
右側でライトアップされた的に向かい、板間の端に進み出る射手が二名。手前が灰白髪の男性。律は後ろ。
両者、す、と左腕を黒い紋付きから抜いてはだけさせたので内心驚く。
胸から肩、腕の素肌がさらされて、そういう作法なのだと思い当たるものの、どうかすると見てはいけないような気がした。
瞬間、息をひそめる。
(!)
動く。
まずは律の祖父が右手の二本の矢から一本をつがえ、器用に連射できるような構えをしてから――――流れるように射た。
スタンッ
小気味よい音が鳴り、的に矢が刺さったのだと知る。しかし、矢よりも放った人物の余韻のような「型」に目を奪われる。
次は、律。
やはり同じような動作で弓を上げ、矢をつがえ……
スタンッ
吸い込まれるように的中。
空を切った鏃は遥か先へ。二射目も同様。両者まったく譲らず、素人目にはとんでもない奇跡が当たり前のような顔で繰り返された。若干、周囲に歓声が沸く。
湊ははらはらと見守った。
(あと一本……!)
いつのまにか、祈るように手を組んでいる。
三射目でも何も変わらないテンポ。よくよく見れば篤志のほうが動作に気負いがなく、鋭いのに優美さすら漂う。上段者で、律の師なのだろうか。漠然とした所感を残しつつ、しずかな気迫みなぎる律が弓を引いた。
その、矢は。
* *
「すごかったね、律君。三射的中……って、言うの?」
「ありがと」
あれからすぐに弓場を辞した二人は装束はそのまま、道具だけを置いて桜より手前にやって来た。中庭には拍手が満ちた。
律の祖父――篤志は気さくな人柄のようで、如才なく挨拶を返している。
発起人の律の思惑どおり、場は沸きに沸いて華やいだ。
ご婦人達がいっせいに二人を取り囲むため、頭しか見えない。
湊はそれを篁とともに、そっと遠巻きに眺めていたが、律は熱烈な労いへの返答もそこそこに、笑顔でこちらに走り寄る。比喩だがまばゆく、面映ゆい。
(あら、どなた?)
(呉服屋さんのかたと、男のひとはお友達ですって)
(まぁ珍しいこと)
(綺麗なかたねぇ)
奥様がたの絶妙な声量に一瞬だけ怯むが、顔はほころんでしまう。気づけば、素でにこにこしてしまった。それからなし崩しに篁と三名、飲み物を取りがてら屋内に逃げている。
喜恵も篤志もまだ、桜の側だ。
ビュッフェのようになっている室内はひとがまばらで、お手伝いらしき女性が数人ばかり。軽食をつまむほど小腹は空いておらず、とりあえずグラスにシャンパンを注いでもらって、壁一面の硝子窓の側に立つ。遠目に見える夜桜も圧巻だった。
細いグラスを手に見とれていると、ふいに「湊さん」と呼ばれる。
「はい?」
「来てくれてありがとう。着物、いつも以上に似合ってる。弓場からでも一目でわかった」
「そんなに? すごいね。今日は和装のお客様ばかりなのに。……あ、そうか。篁さんがいたから」
「いやいや、そうじゃなくて」
苦笑いの律が、なぜか偉そうに流し目を送る篁を同じく流し目で睨んでいる。仲がいい。
くすくすと笑う湊に、律は毒気を抜かれたような顔をした。ふっと、つられて笑む。
「湊さん。ひょっとして、うちの親族連中に遠慮して『あっち』まで行ってないんじゃない?」
「あっち?」
「垂れ桜」
「あぁ、うん」
――それはそう。
意気込んで来てはみたものの、なにかと目立つ篁を連れては初対面の女性陣とは話しづらい。さんざん注目を浴びるばかりで、肝心の桜には近づけなかった。それは、たしかに気がかりで。
「いいの?」
「勿論」
「なら、オレも」
「篁さんはここで休んでなよ。あ、おーい、吉野さん!」
「はいはい」
ちょうどそこへ通りがかった洋装の女性――家政婦の吉野をつかまえ、律が上向けた手のひらで篁を指し示す。
「このひと、ふだん男の独り暮らしなんだ。吉野さんの自慢の手料理、いっぱい食べさせてやってよ」
「え、ちょっ」
「まあぁぁ、そうなんですか? こんなに男前なのに。まぁまぁ勿体ない。ぜひ、食べていってくださいな。肉巻きと煮付け、どちらがお好み?」
「いえ、あの。……こら、左門君」
「何ですか」
手にしたグラスをやんわりと取られ、脇のサイドテーブルに置かれる。
次いで、ものすごく自然に右手をとられた。さりげなく湊の背に左手を当てて退室しようとする律に、けっこう本気で焦っているらしい篁がじわり、と圧を込めて声をかける。
「覚えとけよ、大学生。容赦しないからな」
「?」
怪訝そうに眉を寄せる湊とは逆に、律は悠然と微笑んだ。
「どうぞ。俺は、俺の最善を尽くします」
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